62 婚約破棄とロイド
大喜びですぐさま受け入れるかと思ったが、ヘンドリックは長い間固まったままだった。まるで時が止まったかのように、微動だにしない。
(嬉しすぎて声も出せないのかしら?)
すぐに終わりそうだし、婚約破棄の書類を事前に準備しておくべきだったかな。どのみち反対する人もいないのだから、スムーズに行きそうだし。
しかし、シーラの予想とは裏腹に、彼は眉をひそめた。
「……婚約破棄だなんて、どういうことだ?」
「そのままの意味よ。私たち、婚約破棄しましょう」
シーラはキッパリと言い切った。
彼女側から婚約破棄を言い出されたのが気に食わなかったのだろうか。解放してやると言っているのだから、それくらい我慢すればいいものを。
ヘンドリックの喜ぶ姿を待っていたシーラだったが、意外にも彼は難色を示した。
「……なぜだ?」
「なぜ……ですって……?」
シーラはヘンドリックが理由を尋ねる意味がわからなかった。
婚約破棄を持ち出されるようなことをしていたのは明らかに彼のほうだった。心当たりがないとは言わせない。
「ヘンドリック、あなたが今まで私との婚約を破棄するために奔走していたことは知っているわ。ずっと拒否してたけど……もう諦めたの」
「諦めただと?」
ヘンドリックは十二歳の頃にシーラとの婚約が決まってからというもの、彼女との婚約を破棄しようと密かに動いていた。新しい婚約者を探そうとこっそり見合いに行ったり、シーラの普段の悪行を事細かに記録したり。
愚かにも、シーラがそのことを知ったのは結婚後だったが。
「ヘンドリック、終わりにしましょう。もうこれ以上、お互い苦しむ必要はないでしょう?」
「……」
シーラはヘンドリックのことを愛していたが、彼の婚約者として幸せを感じたことは一度たりともなかった。ヘンドリックは元々彼女のことを毛嫌いしていたのだから、当然幸せではなかったはずだし。
誰も幸せにならない恋は、ここで終わらせるべきだ。
シーラの言葉に、ヘンドリックはニコッと笑った。
「――やっとそう言ってくれて、嬉しいよ」
「……」
しがらみから解放されたかのように、晴れ晴れとした表情だった。
「俺はずっとお前の婚約者として息が詰まるような日々を送ってきた。本当なら、その苦しみの分の慰謝料でも欲しいくらいだが……面倒なことは避けたいし、破棄だけで我慢してやる」
「……そうね、理解が早くて助かるわ」
シーラは何とか笑みを取り繕った。
彼のことはもう何とも思っていないが、十年以上抱いた気持ちを思うと、なぜか胸が締め付けられた。
「今日にでも、正式にレイヴィス家から書類を送ろう。できるだけ早いほうがいいからな」
「ええ、お願いできるかしら?」
約束を取り交わすと、ヘンドリックは何の未練もない様子でシーラから背を向けた。
かと思いきや、最後に一度だけ彼女のほうを振り返った。去り際に向けられたその瞳には、彼女への軽蔑がたしかに込められていた。
「――地獄みたいな、辛い日々だったよ。俺は結婚しても、絶対にお前を愛せなかった」
「……」
最後まで優しさの欠片もない彼のおかげで、シーラも余計なことを考えずにこの関係を終えることができそうだった。
彼女は遠ざかっていくヘンドリックの後ろ姿をしばらく眺めていた。
思えば、最初から彼の後ろ姿ばかり見つめていたような気がする。でもそんな惨めな気持ちを抱くことももうない。
「終わり……ね」
シーラはポツリと呟くと、彼に続いてその場を立ち去った。
***
ヘンドリックとの話を終えると、シーラは気持ちを切り替えて学園長室まで向かった。
前来たばかりの扉をノックすると、部屋の中から声がかかった。
扉を開けて部屋に入ると、ロイドが彼女を出迎えた。
「シーラ嬢、遅かったな……って、どうしたんだ?」
「いえ……何でもありません」
暗い表情の彼女に気付いたロイドは、心配そうにシーラを見つめた。
赤の他人である彼に心配をかけているだなんて、何とも情けない。
(アルヴィン殿下にあんなこと言っておいて……私も結局は完全に切り替えれてなかったのね)
拷問からの死、そして回帰を経験して精神的にかなり強くなったと思っていたが、どうやらそれは勘違いだったようだ。
シーラは何とか誤魔化したが、ロイドの疑念が晴れることはなかった。
「レイヴィス公子に何か言われたのか……?それともキャンベルのほうか……?」
「あ、いや……何か酷いことを言われたというわけではないんです……」
むしろ喜ぶべきことだった。
彼との婚約がなくなったことで、死ぬ未来から遠ざかったのだから。それでも素直に喜べないのは、彼を愛していた長年の想いを全て否定されてしまったからだろうか。
シーラは結局隠しきることができず、ロイドに打ち明けた。
「――実は、ヘンドリックとの婚約を破棄することになったんです」
「……何だって?」
ロイドは驚いて目を見開いた。
あれほどヘンドリックを愛していることで有名な彼女から、そのような言葉が出て驚くのは当然だろう。
「婚約破棄はお互いに望んでいたことだったので、悲しくはないです。だけど、何だか抑えていた気持ちが溢れてきそうになってしまって……」
「……」
彼はただ黙ったまま、彼女の話を聞いていた。
不安げに揺れる瞳が、真っ直ぐにシーラに固定されている。彼のこのような表情を見るのは、初めてだった。
シーラはロイドを心配させないよう、明るく笑みを取り繕った。
「ヘンドリックに、愛せなかったって言われたんです。そんなふうに言われて当然ですよね、私みたいな女……」
その瞬間、ロイドがシーラの腕を掴んで引き寄せた。
気付けばシーラは、彼の逞しい両腕に抱きしめられていた。
「………………………殿下?」
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