36 新しい生活
シーラが祖父ローガンの住む邸宅を訪れた翌日。
彼の家で一泊した彼女は、首都に帰る時間となり、ローガンに別れの挨拶をしていた。
「お祖父様、お世話になりました」
「ああ、またいつでも来なさい。私は歓迎するから」
帰りの馬車の前で荷物をまとめたシーラは、ローガンと最後に抱擁を交わしていた。
彼と会ったおかげで、何だか元気付けられたようだった。
今日からは父親や義母たちとは別の家で暮らすことになるし、前よりも楽な生活が送れるだろう。
「それと……婚約破棄の件だが、大事にしたくないのであればレイヴィス家の承認が得る必要がある。私から公爵家に書簡を……」
「いいえ、お祖父様。そこまでしていただく必要はありません」
シーラは婚約破棄の件で、ローガンの言葉を遮った。
彼がヘンドリックとの婚約を破棄するのに前向きになってくれているという事実は嬉しかった。しかし、全てをローガンに頼るわけにはいかない。
「――私、自分でヘンドリックに婚約破棄のことを伝えようと思っています」
「……何だと?」
(私が言い出したことなんだから、せめてヘンドリックには自分で伝えないと)
シーラがヘンドリックに会いに行くことが心配なのか、ローガンは難色を示した。
しかし、いくら反対されようとシーラも譲れなかった。
「お祖父様、大丈夫です。きっと上手くいきますよ。ヘンドリックは私を愛していません。他に好きな方がいるんです。ですから、婚約破棄を渋る理由がありませんわ」
「そうか……」
シーラがそう言うと、ローガンも納得したようだった。
(家族たちからも離れることができたし……あとはヘンドリックとのことを終わらせれば……)
かつては全てを捧げてもいいと思えるほどに、心から愛したヘンドリック。
彼との関係に自分で終止符を打たなければ、永遠に前に進むことができなさそうだった。
***
ローガンがシーラに新しく宛てがった家は、本邸から少し離れた場所にある大きな一軒家だった。
しかし、それでも首都圏内なので、馬車で三十分も走ればアカデミーに到着する。
アンダーソン邸よりも通学に時間はかかるが、あの家を離れられるのだと思うとそんなこと気にもならなかった。
新しい家に到着したシーラは、目の前に広がる豪邸を見上げた。流石に本邸よりかは小さいものの、一人で住むにはあまりにも大きすぎる。
「こんな大きな家に一人で住むだなんて……何だか贅沢ね」
「大旦那様が、それほどまでにシーラお嬢様を大切に思っているということでしょう」
ローガンが選出した数人の使用人たちが、シーラの部屋まで荷物を運んだ。
長い間使われていなかった別邸だそうだが、中は隅々まで掃除が行き届いており、綺麗だった。シーラは二階にある自室に向かうと、荷物の中から通学用のバッグを取り出した。
「明日からまた学校が始まるから……準備しないと」
それに、ヘンドリックに婚約破棄のことも伝えなければならない。
だが、彼はあの一件でしばらく謹慎中なのですぐには難しいかもしれない。
いつ正式な処分が下り、謹慎が解けるかはわからない。
しかし、ヘンドリックがしばらくの間アカデミーにいないと思うと、気が楽になった。彼がいない間は、きっと平穏な日々を過ごせるのではないだろうか。
準備を終えたシーラは、部屋の中を見回した。
本邸にいた頃とは比べ物にならないほど、豪華絢爛な貴族令嬢の部屋。あの家では権力なんてほとんど無かったせいか、ここにいると自分が高貴な身分の人間なのだということを改めて認識した。
執務机に座ったシーラは、興味本位で引き出しを開けた。
「………何かしら」
その中に、一冊のノートが入っていた。
それを手に取ると、シーラは何故か不思議な感覚に包まれた。どこか懐かしくて、胸が温かくなる。
落ち着いた香色の日記の表紙の部分には、手書きで名前が書かれていた。
―――”イザベラ・アンダーソン”
表紙に刻まれたその名は、シーラのよく知る人物のものだった。
「これって……もしかして、お母様の日記!?」
イザベラ・アンダーソンとは、アンダーソン前侯爵夫人であり、政略結婚で嫁いできた父オリバーの前妻である。
母の遺品は死後侯爵夫人となった義母セレナによってほとんどが燃やされてしまい、今はもう残っていない。
肖像画すら侯爵邸には一枚も無く、今ではシーラは母親の顔をあまり思い出すこともできなかった。記憶の中にぼんやりと断片的に残っているだけで、ハッキリとはわからない。
おそらくこの日記は、義母セレナが処分し損ねた母の唯一の遺品だろう。
(これを読めば……お母様のことがわかるかもしれない……)
シーラは震える手で、日記の一ページ目を開いた。
『親愛なるシーラへ
あなたは今、生後半年ですがこれを読む頃にはもっと大きくなっているかもしれません』
どうやら日記は、シーラが生まれて半年が経過した頃から始まっているようだった。
母はこの日記がシーラの手に渡ることを想定して書いていたようだ。もしかすると、自らの死を悟っていたのだろうか。
『あの人はきっと相変わらずでしょう。あなたが傷付いていないことだけを祈ります』
あの人とは紛れもなく父オリバーのことである。
イザベラは政略結婚によりオリバーの元へ嫁いだが、彼に顧みられることは無く、夫のいない邸宅で一人寂しく過ごしていたと聞く。
(お母様はちゃんと、私のことを想ってくれていたんだわ……)
優しかった母の記憶が少しずつ蘇り、シーラの目に涙が滲んだ。
最初のページに書かれていた手紙のような文面を、シーラはしっかりと目に焼き付けながら読み進めた。
『シーラ……私はあなたを心から愛しています』
たった一人の娘に対する愛の言葉。
今じゃあまり記憶にも無い母だが、ちゃんと自分を愛していたのだということをシーラは日記の文面から悟った。
『今はとても辛くて苦しいかもしれない……でも、絶対に負けないでください。あなたを大切に思ってくれている人は必ずいます』
大切に思ってくれている人。
シーラの脳裏に、使用人たちや祖父ローガンの顔が浮かんだ。
――私はずっと、一人ではなかった。
溢れ出た涙が、母親の日記の一ページを濡らした。
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