29 慈悲
シーラが正気に戻ったときには、すでに遅かった。
(わ、私……!婚約者がいる身でありながら殿方に何てことを……!)
彼女は慌ててロイドから手を離した。
婚約者がいようがいなかろうが、軽々しく異性に触れるのは貴族令嬢として失格である。
それに加えて、相手はアルヴィン殿下の叔父である公爵閣下。
まずはきちんと挨拶をしなければならないだろう。
シーラはスカートの裾を持ち上げ、頭を下げた。
「学園長様にご挨拶申し上げます。第三学年のシーラ・アンダーソンです」
ロイドはしばらくの間、何も言わずにシーラをじっと見つめていた。
元々寡黙な人なので、特に気にはならなかった。シーラにとっては、初めて話す相手でもある。前世も含めて、彼女はロイドとはほとんど関わったことが無かった。
シーラは彼から声がかかるまで、頭を下げ続けた。
「……堅苦しい挨拶はよせ」
「…………え?」
その言葉で顔を上げると、彼が複雑な目でシーラを見下ろしていた。
――何故か、その瞳はひどく悲しそうだった。
(どうして、そんな顔を……?)
シーラは不思議に思ったが、聞いたところで教えてはくれないだろうと思い、本題に入った。
「学園長様……私は、彼らの退学など望んでおりません。どうか、彼らの処罰に慈悲をかけてくださいませんか?」
「……本気で言っているのか?」
常人からしたら到底理解できないだろう。もちろんロイドや生徒会メンバーたちも同じ気持ちだった。
しかし、シーラは特別善人ぶりたいわけでもなく、彼らの処罰を軽くしてほしいという思いは本心だった。
「ええ、本気です。彼らはたしかに、私を貶めようとしました。ですが、私はここまで事を大きくするのを望んでいません」
「……!」
項垂れていた生徒たちが、顔を上げて信じられない様子でシーラを見た。
たしかに恨みが無いと言えば嘘になるが、彼女は彼らの人生を破壊することまでは望んでいなかった。
(問題なのは、彼らよりも……)
シーラは少し離れたところに立ち尽くしていたヘンドリックをチラッと見た。
彼だけは、他の生徒たちと違って一切反省する様子を見せなかった。
きっとヘンドリックにとっては、真偽なんてどちらでもよかったのだろう。彼にとってシーラは絶対的な悪であるのだから。
もし他の生徒が証言に上がったとなれば、もう少し慎重になっていたのではないか。そう思えてならない。
(きっとそうすぐには納得してもらえないでしょうけど……)
ロイドは一度決めたことは曲げない、頑固な人だという噂を聞いたことがあった。
シーラは絶対に渋られると思っていた。
しかし、ロイドは意外にもあっさりと彼女の要求を呑んだ。
「そうだな……君がそう言うのなら、受け入れよう」
「あ、ありがとうございます……?」
あまりにも簡単に行き過ぎたせいか、彼女は拍子抜けしてしまった。
もしかすると、意外と話が分かる人なのかもしれない。シーラはロイドの真意を探りたくて、彼の横顔を見上げた。
「わ、私たち退学を免れたの……?」
「……被害者がそう言うのであれば、受け入れないわけにはいかないだろう」
ロイドは希望を取り戻したかのような彼らから目を逸らし、不機嫌そうに答えた。
や、やっぱり納得してないみたいです……!
彼の表情が、そのことを物語っていた。
それでも受け入れてくれたのは、きっと優しさからだよね!
「全員、しばらくは謹慎処分だ。追って沙汰を待て」
「か、寛大な御心に感謝いたします!」
退学を言い渡されていた生徒たちは、床に額が付くまで頭を下げた。
シーラは表情を変えずに彼女らを見下ろしていたロイドに声をかけた。
「学園長様、本当にありがとうございます……何とお礼を言っていいか……」
「……」
嬉しそうに頬を染めて笑うシーラを前に、ロイドはポツリと呟いた。
「――そういうところ、昔からずっと変わらないんだな」
「…………え?」
その意味がすぐには理解できず、シーラは丸く目を見開いた。
彼が彼女に向けていたのは、またあの悲しそうな瞳だった。
――どうして、そんな顔をするの?
そんな彼を見ていると、何か大事なことを忘れているような気がしてならない。
何か、かなり昔の大切な大切な……
『――この花を見たら、君が浮かんだんだ』
ふと、脳裏に覚えのない記憶がよぎった。
しかし、ただそれだけで結局は何も思い出せそうになかった。
「今、何を……」
「いや、何でもない」
ロイドはきょとんと首をかしげるシーラに背を向け、そのまま歩き出した。
そんな彼の後ろ姿は大きいのに何故かとても寂しそうで、シーラは目を離せずにいた。
一連の様子を見ていたアルヴィンが、呆然自失状態のシーラに尋ねた。
「シーラ嬢は、叔父上と知り合いだったのか?とても初対面のようには見えなかったが」
「い、いえ……特別仲が良いわけではありませんが、もしかするとどこかでご挨拶したことくらいはあるかもしれません……」
少なくとも、シーラには記憶が無かったが。
本当にどこかで会ったことがあっただろうか。
「まぁ、叔父上はあまり人前に姿を見せないからな。きっと何かの勘違いだろう」
「………そうですね」
シーラはもうすぐ始まる授業に参加するため、そそくさと教室へと戻って行った。
また近いうちに彼に会えるだろうか。
――何故か、彼のことがとても気になった。
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