2 婚約者と浮気相手
シーラはただぼうっと目の前で愛し合う婚約者を眺めていた。
――ヘンドリック・レイヴィス
レイヴィス公爵家の嫡男であり、美貌の次期公爵。金髪に赤い瞳を持つ見目麗しい青年で、高身長な美丈夫だ。
誰よりも優秀で剣の腕も立つ、まさに非の打ちどころがない完璧超人である。
そんな彼が今まさに激しくキスをしている相手。
それが、彼が生涯で唯一愛した相手であるデイジー・キャンベルだ。
長い金髪に青色の瞳を持つ、小柄な平民の少女。
どちらかというと清楚系な部類であるシーラとは正反対の、華やかな容姿をしている。
謙虚で穏やかで誰にでも優しい、まるで聖女のような女性。
シーラのように重い独占欲でできた愛ではなく、清らかな愛情で彼を包み込んだ。
ヘンドリックはきっと、彼女のそのようなところを好きになったのではないだろうか。
彼は前世で彼女を諦めきれずに、愛人にしたほどである。
彼らの関係は今に始まったことではなく、第一学年のときから二人は何かと一緒にいる姿が目撃されるようになった。
ヘンドリックの誕生日当日、彼が婚約者のシーラではなくデイジーと二人きりで過ごしたという話は有名だった。
シーラはいつ会いに行っても門前払いされるだけだったため、本人に直接聞くこともできなかったし、元々交友関係が広いヘンドリックのことだ。あまり気に留めなかった。
あのときはただの友人同士だとばかり思っていた。
そうでないことに気付いたのはまさに今――第三学年に上がった春のことだった。
いつものように婚約者ヘンドリックの姿を探していたシーラは、たまたま空き教室で彼とデイジーがキスを交わす瞬間を目撃したのだ。
そのときの彼女は我を忘れ、教室に乗り込んでデイジーの胸倉に掴みかかった。
『この泥棒猫!人の婚約者に手出すだなんて!』
『キャアッ!』
彼女の金色の髪を引っ張り、みっともない姿を彼の前で晒したのだ。
思えば、あの一件でヘンドリックは余計にシーラを憎むようになった。愛する女性に手を出されたのだから、そうなるのも当然かもしれない。
しかし、たしかに手を上げるのはやりすぎかもしれないが、浮気したヘンドリックたちには何の非もないのだろうか。デイジーも被害者であるかのように振舞っていたが、彼女も当然彼に婚約者がいることは知っていたわけで。
回帰した今となっては、そのように暴れる気力すら湧いてこない。
(……今思えば、くだらない茶番だったわね)
シーラは彼女の存在に全く気付いていない二人をしばらく眺めたあと、そっとその場から立ち去った。
***
「あら……シーラ嬢よ」
「どうせまたレイヴィス公子に追い返されたんだろう」
「良い気味だわ」
「あんな人が婚約者だなんて……公子も可哀相」
ヘンドリックたちの前から立ち去ったシーラは、学園の廊下を歩いていた。
彼女はヘンドリックに対するストーカーで、学園内ではかなり有名な存在だった。
すれ違う生徒たちがシーラを見て眉をひそめ、ヒソヒソと噂している。
(思えば前世でも……誰からも嫌われていたわね、私って)
そのせいで地下室に閉じ込められ、拷問されたときも誰一人として同情しなかった。
あのときの記憶が一瞬頭に蘇り、シーラは体が急速に冷えていった。
まだただの夢だったのではないかと思ってしまう自分がいる。
しかし、浴びせられた残酷な仕打ちは今でもしっかりと頭に残っている。生々しくて、到底忘れることなどできない。
夢であればどれだけよかったか。しかし、そう都合の良いようにはいかないだろう。
(私はまた、あんな目に遭うの?)
真っ暗な地下室で、誰にも看取られることなく一人惨めに死んでいく。
それだけは御免だった。
かつて私が全てを捧げてもいいと思えるほどに愛したヘンドリック。
しかし、彼から返ってきたのは愛ではなく侮蔑と壮絶な拷問だった。あの地下室で何度もヘンドリックが来てくれるのを待ち続けていたが、結局彼は最後までシーラの元へはやってこなかった。
そのときの絶望は計り知れない。あんな辛い思いは、二度としたくない。
シーラは廊下を曲がる手前で立ち止まり、ギュッと拳を握りしめた。
決めたわ、私――
――二度と、ヘンドリックには関わらない。
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