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【完結】地つなぐ者  作者: 駿河晴星
第十章 反旗

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第十章 反旗(三)

 小舟を岸辺に引き上げたイサセリとワカタケは、すぐさま雑木林の中に足を踏み入れた。


 何か手がかりはないか。


 目を凝らしながら歩いていると、赤みがかった土の上に小さな血痕を見つけた。


 誰かが怪我をしているらしい。


 ワカタケは声を落として言った。


「大王の血だろう」


「なぜだ?」


「従者だったら、そいつを置き去りにするだろうからな」


 血の痕は獣道に沿って伸びていた。


 イサセリたちは血痕を辿った。


 しばらくして曲がりくねった道の先に、地面に放り出された人の足が見えた。


 駆け寄ってみると、男がうつ伏せに倒れていた。


 何かを掴もうとするように前に伸ばされた腕は、もう動かない。土に血が染みこんでいた。


 骸の顔を覗き込んだワカタケは眉根を寄せ、男の最後の涙を拭った。


「知り合いだったのか?」


 イサセリが静かに問いかけると、ワカタケは頷いた。


「大王の従者だ。あの人が刺したんだろ」


「己の従者を?」


「斜めに大きく斬った後、胸の中心をわざわざ貫いている。何があっても生き残らねえように。あの人が好むやり方だ」


 イサセリは怒りのあまり、近くの草を引きちぎった。


 頭の血が沸いてしまいそうだった。


 自分を守る味方を殺して何になる。

 大王はそこまで追い詰められているのか。


「まだ体温が残っている。近いぞ」


 程なくして、イサセリたちは大王の背中を捉えた。


 彼の左肩には矢が一本突き刺さっていた。


「お、大王様!」


 最後尾の従者が怯えた声を上げた。


 足を止め振り返った大王は、二人の息子を見るなり歪んだ笑みを浮かべた。


「生きておったか」


 人の醜悪さを塗り固めたような顔だった。


 イサセリはゆきから矢を引き抜き、狙いを定めた。


 従者二人の後ろから、大王は唾を飛ばした。


「どいつもこいつも……モモソといい、おまえらといい、私に逆らうとは。子のくせに生意気だぞ!」


「父らしいことなど、したことがないくせに」


「この世に生を与え、貴き血を分けてやった。大王の息子という名誉。それだけで十分だろう」


 矢羽をつまむイサセリの指が震えた。


 この男とはいくら話しても分かり合えないのだろうか。


 諦念がイサセリの心を蝕む。


「大王だというならば、ヤマトに帰るべきだった」


「弱者が偉そうに」


 大王が嘲笑を漏らした瞬間、ワカタケがイサセリの腕を押した。


 意図せず放たれた矢は大王の頬を掠めた。


 従者たちが散る中、イサセリは目を丸くしてワカタケを見つめた。


「こいつは弱くなんかねえんだよ」


 頬の血を手で塗り広げた大王は、低く呟いた。


「私を射ったな?」


 ワカタケが剣を抜いた。


 大王も剣の柄に手をかけた。

 だが、抜くことはなかった。


「足止めしておけ」


 従者たちに命じた大王は、イサセリたちに背を向けて走り出す。


「待て!」


 従者たちはもはや道を塞ごうとすらしなかった。


 三人は木々の間を縫うように進んでいく。


 大王は意外にも素早かった。


 どこまで行く気だ?


 道なき道を逃げるものだから、イサセリはすでに方向感覚を失っていた。


 腹の傷がじくじくと痛む。


 このまま走り続ければ、こちらの体力が先に尽きるだろう。


 どこか行き止まりでもあればいいのだが――。


 そう願ったイサセリの眼前にふと、白い光が迫る。


 雑木林の端だ。


 波の音が強まり、灰色の雲をたっぷりと冠した北海がその姿を現した。


 大王は岩の急斜面を滑るように下りていく。


 イサセリは斜面の前で足を止めた。

 あまりの急角度に躊躇ったのだ。


「大丈夫だ」


 ワカタケがイサセリの背中を軽く叩き、先を行く。


 イサセリは深く息を吐いてから、足を踏み出した。


 斜面の下には波に削られてできた岩場が広がり、白い岩に囲まれた窪みには海水が澱んでいた。


 潮の香りが濃い。


 風が吹き荒ぶ。


 ワカタケが短い髪を鬱陶しげに掻き上げている。


 追い詰められた大王が振り返った。


 その顔からは生気が失われていた。


「なぜなのだ」


 風の唸りに紛れ、意気消沈した声が滲んだ。


「私はヤマトの繁栄を願っていた。なぜこんな目に遭わねばならん」


 イサセリは大王を見据えた。


「ヤマトのことを考えていたなら、なぜムキに籠った?」


「イズモを、キビを……支配するためだ」


「それはヤマトにいてもできたはずだ。大王子のように」


 大王は片目を細めた。


「ふん、クニクルが己の力でヤマトを治めていると思うのか。王族など、ヤマトでは傀儡にすぎん」


 岩を打つ波が跳ね、霧状の水滴がイサセリたちの頭上に降り注いだ。


 大王の頬を流れる血が顎を伝い、岩の上に落ちていく。


「巫女と臣下に縛られ、何も決められぬ。血を分けた娘であればと期待したが、モモソもまた、あいつらと同類であった」


「それでヤマトに戻らなかったのか」


「そうだ! おまえたちにはわかるまい。自由に生きられない人の苦しみが!」


 それをおまえが言うのか。


 九歳の息子を戦地へ送ったおまえが。


 神託が気に入らないからと息子を殺そうとしたおまえが。


 トメタマの家族を斬った部下を咎めず、カチツキのような少年が争いに巻き込まれることをなんとも思わないおまえが!


 鼓動が増していく。


 締め付けられるような痛みに襲われ、イサセリは胸元の上衣を握りしめた。


「わからない。わかりたくもない。人を簡単に見捨てるおまえの気持ちなど! 人の命をなんとも思わないおまえの気持ちなど!」


「なんとも思わないわけではない」


「え?」


 イサセリは手の力を緩めた。


 しかし、すぐに後悔した。


「ウグイス……ウグイスだけはどうか助けてやってほしい。あの子は何も知らない。純真で、無垢な幼子のままだから。どうか命だけは――」


 眉を下げて懇願する大王は、愛情深い父の顔をしていた。


 イサセリは喉を震わせた。


「なぜ……。なぜウグイスだけなのだ。私もワカタケも息子であるのに」


「おまえたちの母は」


 大王の目が憎悪に満ちた。


「巫女の一族だからだ。強欲なやつらはアワジから常にヤマトを見張っていた!


 ああ、イロネ、イロド。純粋な娘たちだと思ったのに、子を成した途端、やつらは醜女しこめに変わった。


 巫女特有のしたたかさが顔を出し、我を操ろうとしてきたのだ!」


 そんなわけはない。


 イサセリは大王の妄言に過ぎないと確信していた。


 亡くなった母も、アワジに住む祖父母も穏やかな気質だ。


 大王の腐った性根を正そうとはしたかもしれない。


 ただそれは、自分たちの利のための行動ではなかったはずだ。


 イサセリは矢を番えた。弦を引き絞る。


 海面の光が反射して、黒曜石のやじりの欠けた先端が一瞬輝いた。


 最後に問いかける。


「私たちを愛したことはありましたか」


 大王は大きく目を見開いたまま、笑った。


「ありえない」


 イサセリの指から矢が離れると同時に、ワカタケが地を蹴った。


 矢が大王の胸の中心を貫き、ワカタケの鉄剣が首を断ち切る。


 頭部は白い岩に囲まれた窪みに落ち、海水は赤黒く染まった。


 イサセリの手から弓が滑り落ちた。


 下から乾いた音が鳴り、イサセリの目から涙がこぼれた。


 赤く澱む海水が、イサセリの体内に流れ込んだ。


 溺れそうだった。


 息苦しくて、すがるようにワカタケのそばに寄った。


 ワカタケの足元には、すでに骸となった父がいた。


 イサセリたちを愛さなかった父。

 父を慕えなかったイサセリたち。


 それでも確かに在る血の繋がりが、兄弟を苦しめた。


 正しいことをしたはずだ。


 父の死によって、ヤマトにもキビにもイズモにも穏やかな日々が訪れる。


 そう信じているのに、自分の半身が奪われたような猛烈な喪失感がイサセリを襲った。


「これでよかった。よかったんだ」


 イサセリは自分に言い聞かせるように呟いた。


 ワカタケが腕を回してくる。強く掴まれた肩に弟の震えが伝わった。


 その後も二人の顔が晴れることはなかった。


 胸の奥で渦巻く憎しみも、哀しみも、後悔も、決して消えることはないだろう。


 潮打つ岩場に、夕影が落ちていった。

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