第十章 反旗(二)
一行は、アオヤの里に接する山までやってきた。
列を成し、麓に向かって坂道を下っている。
イサセリとワカタケは列の後方にいた。
緑陰が気まぐれに陽光を遮る。
もう敵のなわばりに入っている。
イサセリは弓を握る手に力をこめた。
いつ何が起こってもおかしくない。
予想通り、事態は急変した。
列の前方から悲鳴が上がる。
イサセリの位置からは何が起きているか見えなかったが、戦闘の興奮は猛烈な勢いで伝播した。
「敵襲!」
銅鑼の音が山の中でこだまし、一斉に鳥たちが飛び立つ。
続いて、後方から地響き。
「避けろ!」
というワカタケの叫び声。
振り返ると、坂の上から巨大な丸太が轟音とともに転がり落ちてくるのが見えた。
イサセリは近くにいた兵たちとともに、藪の中に飛び込んだ。
逃げ遅れた兵たちは、加速する丸太に押し潰され、悲鳴を上げる間もなく倒れ伏した。
草花が赤く染まった。
坂の上を見ると、二本目の丸太が用意されている。
イサセリは瞬時に矢を番え、放った。
鉄の鏃は丸太を支えていた敵の胸を貫いた。
射抜かれた敵は後方へ崩れ落ち、支えを失った丸太は縦に向きを変えて坂を転がりはじめた。
「また来るぞ!」
叫びながら、ワカタケが坂を駆け上がった。
丸太の横をすり抜け、鉄剣で一人、二人と敵を切り伏せる。
弟の鮮やかな剣さばきに目を奪われていたイサセリの背筋に殺気が走った。
鈍い光が見えた。
「あぶない!」
イサセリは、立ち上がろうとした味方兵の腕を引っ張った。
直後、兵が居た場所に矢が深々と突き刺さる。
どこだ。
イサセリは黒目を素早く動かし、敵の居場所を探った。
右、左、正面――上!
木の上で影が動く。
イサセリは矢を放った。
鈍い呻き声とともに、敵が木から落下した。
イサセリは警戒を解かず、他にも敵が隠れていないか周囲を探った。
新たな敵が現れる気配はなかった。
イサセリは前方を見やった。
列は完全に乱れていた。
兵たちは剣こそ構えているものの状況が飲み込めていないのか、右往左往していた。
イサセリは大きな声で号令をかけた。
「モモソヒメの周りを固めろ! 必ず守るんだ!」
命を受けた兵たちは我に返ったように機敏に動き出した。
イサセリは弓を構えたまま、倒れた敵へと近づいた。
首を射られた敵は、樫の木の下で絶命していた。
「すまない」
イサセリは矢を抜き取り、近くの葉で血を拭った。
ネホコが調達してくれた鉄の鏃である。
貴重品のため、なるべく再利用をしたかった。
せめてもの弔いとして、イサセリは虚空を見つめつづける敵兵の瞼を閉じた。
坂を滑り下りてきたワカタケが、イサセリの横に並んだ。
ワカタケが取ってきてくれた矢柄には、赤黒い血が染み込んでいた。
見ると、ワカタケの上衣にも返り血が散っている。
手や剣を拭ったのか、筒袴や帯には擦ったような跡がついていた。
生臭い鉄の匂いが鼻を突いた。
イサセリは一度深く息を吐いてから、ワカタケに声をかけた。
「敵は?」
「ぜんぶ斬った。前へ行くぞ」
二人は押し潰された兵の亡骸を避けるように進みながら、前軍の後を追った。
「見覚えのある者はいなかった」
ワカタケが走りながら言った。
「大王の兵ではないということか?」
「恐らく、アオヤの里長の私兵だろう」
「大王はすでにアオヤに辿り着いているということか」
イサセリは歯噛みした。
船で逃げられてはたまらない。
二人は無言のまま足を速めた。
麓まで下りたイサセリとワカタケたちは、トチの林を抜けた。
平地に出ると、背丈を超えるアシが生い茂っていた。
あちらこちらから剣戟の音が断続的に響いてくる。
見えぬ敵に警戒しながら、二人は前進した。
「こっちだ」
ワカタケが声を潜めて指差したのは小川だった。
二人は川沿いを慎重に歩いた。
やがて入江に至る。
視界が開け、左手にはアオヤの集落が見えた。
戦いは集落の中にも及んでいた。
集落の中心にそびえる巨木の下で、里人たちが身を寄せ合っている。
子どもの悲痛な泣き声が耳に届き、イサセリは顔を歪めた。
大王が逃げなければ、彼らが戦いに巻き込まれることはなかったのに。
イサセリは素早く周囲を見渡した。
集落に面した入江は三方を山に囲まれていた。
外海への出口は砂州の切れ目一つだけ。
その狭い水路には、既にイズモの船団が展開していた。
これで大王が船で逃げる可能性は消えた。
だとすれば、彼はどこへ行ったのか。
イサセリは再び集落に目を向ける。
しかし、大王らしき人の姿はなかった。
「大王は、いないな」
ワカタケが不安に目を揺らした。
「まさかアオヤじゃなかったのか」
他所へ逃げたのか――いや、イサセリの直感がその可能性を否定した。
別の港へ大王が向かったのなら、あの丸太の説明がつかない。
囮にしては大掛かりすぎる罠だった。
イサセリは再度、周囲を隈なく見渡した。
何か見落としたものはないか。
その時、東の山腹に翻るヤマトの旗が目に入った。
「ワカタケ、あれ」
「あれは、大王子か」
これでアオヤの里は完全に包囲した。
もし、大王がこの場にいるとすれば、もはや逃げられはしない。
イサセリは大王の行動をなぞるように、状況を整理した。
アオヤへ逃げ、里長に事情を話す。
罠で敵を引きつけている間に船で脱出を試みる。
しかし、予想より早く現れたイズモの兵に阻まれ、入江から出られなくなる。
戻ろうにも、西からはキビ軍、東からはヤマト軍が迫っている。
残された道は――。
「おい」
考え込んでいたイサセリの肩を、ワカタケが強く掴んだ。
「見ろ。あの船に乗ってるのって……」
ワカタケの視線を追う。砂州の切れ目よりも右側。
入江のちょうど対岸。
四人乗った船が一艘、岸に寄っていた。
あれだ!
イサセリが確信した瞬間、背後で砂を蹴る音がした。
気づいた時には遅かった。
体を捻ったが躱しきれず、敵の剣がイサセリの右脇腹をえぐった。
腹は急速に熱を帯びる。
呼吸をするたび痛みが走った。
「くそっ!」
ワカタケが一人の敵を斬り伏せたが、アシの向こう側からは次々と新たな敵が姿を現した。
「きりがねえ!」
ワカタケは倒した敵の亡骸を盾のように使って猛攻を防ぐ。
そうしてできた一瞬の隙を使って、岸辺に浮いていた丸木舟の舫い綱を切った。
「乗れ!」
イサセリは傷口を押さえながら、船に身を投げ込む。
下唇を噛んで痛みをこらえ、ワカタケの背後に迫る敵を射抜いた。
ワカタケも船に乗り込む。
彼が鉄剣の鞘で水際を強く押すと、船は一気に岸から離れた。
幸い、敵に弓兵はいなかった。
泳いでこようとする敵はイサセリが射抜いた。
やがて、味方が敵の背後からやってきた。
「遅えよ」
悪態付くワカタケに、イサセリは同意して笑った。
腹が痛む。
イサセリは帯を解き、傷口を押さえるように固く縛った。
心配そうに見つめてくるワカタケに、イサセリは「大丈夫だ」と応えた。
「行こう」
イサセリとワカタケは船底に落ちていた櫂を掴み、穏やかな入江の水面を切り裂いた。




