第九章 同盟(二)
「私はもともと臆病で、取り柄なんて何一つありませんでした。なぜそんな私を旅に出したのですか。
どこからどこまでが嘘なのですか。私が経験したことは、すべて姉上が仕組んだことなのですか!」
イサセリは目頭が熱くなるのを感じ、慌てて二人から顔を背けた。
絹の擦れる音がする。
膝に置いていたイサセリの拳に、モモソヒメの白い手が重ねられた。
「言ったでしょう。何者でもないことを恐れる必要はない。私が伝えた神託は、ただのきっかけにすぎない。
あなたが旅で見たもの、聞いたもの、触れたもの、出会ったもの――すべてはあなたのものよ。それは誰にも変えられないわ」
モモソヒメは一旦、言葉を区切った。
イサセリの拳の下に手のひらを差し込み、固く閉じた指をひらかせる。
「旅に出したのは、私のわがままよ。あなたはずっと、私の影に隠れて自信なく生きていた。
でも、本当は強い人だとわかっていたの。イズモへワカタケを助けに行ったように、己の意思で行動ができる人だってね。
だからサヌキに留めておくわけにはいかなかった。外へ出てほしかったのよ」
モモソヒメの言葉に、イサセリは目を揺らした。
姉がずっと見守っていてくれたことに気づき、許したい気持ちが込み上げる。
しかしすぐに、なぜ最初から打ち明けてくれなかったのかという疑問が湧き起こり、細い手を振り解いた。
「旅立ってすぐ、死にかけたのですよ」
震える声で告げると、モモソヒメの表情が凍てついた。
「船での件は、フトニの仕業よ」
「え?」
「あの人はイサセリに任せるという神託が気に入らなかった。だから、イサセリを消して新しい神託を得ようとしたの。あの後、素知らぬ顔でサヌキに引き返してきたのよ」
モモソヒメの声には、冬の川のような冷たさが混じっていた。
「もちろんすぐに追い返してやったわ。大神の意に反することを行えば、神罰が下されると脅してね」
静かに言葉を紡ぐ姉の瞳には心火が宿っているようだった。
それはイサセリたちを守る慈しみの炎か、それとも大王に向けられた復讐の炎か。
姉の本心を理解することはできなかったが、ひとつ確かなのは、その燃えさかる炎がイサセリの心にも飛び火をしていることだった。
イサセリの中で、大王に対する憎悪の念が膨れ上がった。
自分を騙していた姉への恨みは未だ胸の奥にある。
しかしそれ以上に、あの哀れな兵士たちを死に追いやった大王への怒りが、長年尽くしてきたワカタケの命までも狙った父への憎しみが、イサセリの心を覆い尽くしていた。
イサセリは己の膝を握りしめた。
爪を立てるも、痛みで紛らわせるほど軽い気持ちではなかった。
鼻の奥がつんとする。
人はあまりにも怒ると、泣きたくなるのだと知った。
「あの船には、ワカタケも乗っていたんですよ」
モモソヒメは幾度も瞬きを繰り返した。
「本当にワカタケと仲良くなったのね。サヌキを出た時はあんなに険悪だったのに」
「いろいろあったのです」
「いろいろあったのね」
姉弟で見つめあう。
イサセリは長く息を吐き出した。
この土器を叩き割りたくなるような激情を、モモソヒメは五年間、いや、もっと前から抱き続けていたのだろうか。
「話していただきたかったです」
イサセリは文句を垂れながらも、己の不器用さを自覚していた。
もし真実を知っていたら、大王の前でわざとらしい言動しかできなかっただろう。
何も知らなかったからこそ、己に神託が下ったことに素直に驚き、おじけていたのだから。
あの反応が、大王を策に嵌めるためには必要だったということだ。
弟が理解したと悟ったのだろう。
仰々しく頭を下げることもせず、モモソヒメは朱が引かれた目を細めた。
「ごめんね」
姉には何があっても敵わない。
イサセリは自分の気持ちに区切りをつけ、他に気になっていたことを尋ねてみることにした。
「私を旅に出した理由は分かりました。でも神託の獣たち……彼らは姉上の想定通りだったのですか?」
「そうね」
モモソヒメは無邪気な笑みを見せた。
「正解はなかったのよ」
イサセリは首を傾げる。
「最初に言ったとおり、イサセリに旅に出てもらったのは、キビから大王の目を逸らすため。ウラと計画を進める間、大王がキビに攻め込まないようにする必要があったの。
神託の獣は、あなたになるべく遠回りしてもらうために考えたものよ。五行説って知ってる?」
モモソヒメの言葉を聞いたウラは、何かに気づいたように口元を緩ませた。
「なるほど。そういうことか」
「よくできているでしょう」
置き去りにされていることが、妙に癪に障った。
「お二人だけで……。私にも教えてください」
「もちろん」
モモソヒメは頷いた。
「五行説というのはね、漢の国よりもずっと昔にあった大陸の国で生まれた考え方よ。
すべてのものは、火・水・木・金・土の五つの行から成ると考えるの」
ウラが言葉を引き継いだ。
「例えば方角。北は水、東は木、南は火、西は金、中心は土になる」
「他にも、季節や五本の指、穀物、果実、あらゆるものが五つに割り当てられるわ。もちろん、獣もね」
「獣……」
「そう。サル・トリ・イヌはすべて金行に属する獣なの」
「……他には?」
「金行の果実は桃、穀物は黍よ」
イサセリは苦笑いを浮かべた。
「なるほど、それで桃核を……。知っている者が聞けば、できすぎた話ですね」
「神託で大切だったのは、キビという言葉を出すこと。キビはヤマトより西にあるでしょう? だから西に合わせて、すべて金行で揃えてみたの」
モモソヒメはいたずらっぽく目を細めた。
イサセリは胸の奥でざらつく違和感を覚えながらも、安堵の息を漏らした。
「では、タケルたちとの出会いは本当の偶然だったということですね」
「ええ。イヌカイ族やトトリ族の存在は知っていたから、利用できるとは考えていたけどね。彼らは常に移動しているから出会うにしても時間がかかるだろうし、ちょうどいいと思ったの。
まさか、こんなに早くキビへ導かれるとは思ってもみなかったわ」
「ではサルメ族は?」
モモソヒメが巧みに避けてきた話題である。
「……ウメについては、本人から話を聞きなさい」
視線を逸らすモモソヒメに、イサセリは確信した。
姉はウメの隠し事を知っている。
しかし、この場で明かすつもりはないようだった。
長い沈黙の後、モモソヒメが背筋を伸ばした。
「イサセリには本当に感謝しているわ。おかげで、無事に支度が整いつつある」
モモソヒメは間戸の外へ目を向けた。
「イズモの新体制が落ち着いたら、いよいよムキに攻め入るわ」
「私は――」
イサセリが言葉を継ぐ前に、モモソヒメは優しく首を振った。
「イサセリが戦いに参加する必要はないわ。長旅の疲れを癒して」
ウラも同じ意見らしい。
「モモソヒメの言う通りだ。イサセリはすでに役目を果たしてくれた。
そうだ、実は今、アシ川の東を開拓しているところでな。よかったら、そこに住まいを構えないか。もちろんワカタケも一緒に」
ワカタケの名が出た瞬間、階下から激しく咳込む声が聞こえてきた。
イサセリはゆっくりと腰を上げた。
「考えておくよ」




