第九章 同盟(一)
キビに戻ってすぐに、イサセリはウラの居所を訪れた。
「無事に戻って参りました」
形式的な挨拶を口にしながらも、イサセリの内側には静かな怒りが燻っていた。
階下からはワカタケの咳が聞こえてくる。
イズモで一旦落ち着いた容体が、キビへの道中で再び悪化していた。
ウメが献身的に看病を続けているものの、高熱は一向に下がる気配がなかった。
モモソヒメの隣の円座に胡座をかいたイサセリは、すぐに話を切り出した。
「今度こそ、姉上がキビにいる理由をお聞かせいただけますね」
「イズモの話は聞かせてくれないの?」
イサセリは眉根を寄せ、唇を引き結んだ。
「救援を送らなかったあなたたちに、何を伝えろというのですか」
モモソヒメは「あら」と小さく声を上げ、目を丸くした。
「送ろうとしていたのよ。ただ、進軍しようとしたまさにその時、早駆けから解決済みの知らせを受けたの」
「何を悠長に……ワカタケは命を落としかけたのですよ!」
姉に対して激しい怒りを抱くのは、生まれて初めてのことだった。
張り詰めた空気の中、ウラが静かに言葉を紡いだ。
「モモソヒメよ。我らに非があるのは間違いない。いち早く真相を伝えることが、せめてもの誠意だと思うが?」
「……そうね」
ウラの言葉に一瞬目を伏せたモモソヒメは、ゆっくりとイサセリに向き直った。
そして、長い髪の大半が床に付いてしまうほど深く頭を下げる。
「ずっとあなたを利用してごめんなさい、イサセリ」
突然の謝罪に、イサセリは筒袴を強く握りしめた。
「利用とは、どういうことですか」
問うているのは己なのに、答えが聞きたくないと直感的に思った。
その感覚は正しかったようで、次のモモソヒメの言葉は、頭を棒で殴られたような衝撃をイサセリに与えた。
「あなたに下した神託はね、偽りだったの」
ぐわん、とめまいがした。
イサセリの世界から全ての音が消え去り、ただ「偽り」という言葉だけが虚ろに響いた。
「どういう、意味ですか」
「あなたの本当の役割は、大王の注意をキビから逸らすための囮。私たちはね、大王フトニを討つために、何年も前から計画を進めていたの」
「何を……何をおっしゃっているのですか。大王を討つ? だって姉上は、大王に協力していたではありませんか」
モモソヒメの言葉は、イサセリの理解の外にあった。
「順を追って説明した方がよさそうね」
そう告げて、モモソヒメは計画の全容を明かしはじめた。
「事の発端は、今から五年前。兄様が私を訪ねてこられた時よ」
モモソヒメが「兄様」と呼び慕うのはただ一人。
大王の後継者、大王子クニクルだけだ。
確かにその頃、クニクルはサヌキを訪れていた。
権力者が巫女を頼ることは珍しくない。
当時のイサセリは気にも留めなかった。
だが、あれがすべての始まりだったのか……。
大王子による王位簒奪。
イサセリはあまりの衝撃に体勢を崩し、床に右手をついた。
スゲで編まれた円座が親指に当たる。固いふちに爪を引っ掛ける。
背筋に冷たいものが走るのを感じた。
知らぬ間に、途方もない謀略に巻き込まれていたのだ。
「その時すでに、フトニが大王の位に就いて三年が経っていた」
モモソヒメは静かに続けた。
「でも、フトニはヤマトには帰らず、ムキの宮に住みつづけていたの。ヤマトの地は兄様が代わりに治めていたわ」
そう、フトニは大王になってすぐにムキに戻った。
その帰り道に、トメタマの家族を……。
イサセリは歯を食いしばった。
大王は政治より戦が好きなのか。
それとも、ムキにいる新しい妻子と離れがたかったのか。
「兄様はヤマトの未来について占うためにいらっしゃったの。その時、私から提案したのよ。フトニを退け、兄様がすぐにでも大王になりませんかって」
「姉上から……」
「ねえ、イサセリ」
モモソヒメは意味ありげな笑みを浮かべた。
「なぜ私が各地の有力者から重宝されているか知ってる?」
「大神のお声が聞こえるからでは……」
「それもあるけれど、大神のお声はいつでも聞こえるわけではないの。私の一番の武器は、人々の声よ」
「人々の、声」
モモソヒメはゆっくりと頷き、長い睫毛の奥から、イサセリを見つめた。
「巫女の元へ、各地の有力者が相談にやってくる。その内容を直接誰かに話すわけではないの。
ただ、私の中で糸を紡ぐように縒り合わせ、布を織るように編み込んでいくの。
そうすると、誰よりも正確に、世の動きの先読みができる」
間戸から差し込む陽光が、モモソヒメの輪郭を金色に縁取っていた。
その神々しい姿に、イサセリはつい目を伏せる。
膝の上で固く指を絡め、震える手を押さえた。
「これからきっと大陸は戦乱の世になるでしょう」
フルネも同じことを言っていた。
「有事の際に、統率者が柔軟でない国は滅びる。弱者を切り捨てる国に、未来はない」
モモソヒメの声は冷たく響いた。
「私の見立てではね、フトニは統率者の器ではないの」
上品な笑みを浮かべるモモソヒメに、それまで黙っていたウラが低く息を漏らした。
口端を片方上げ、苦い笑みを浮かべている。
首長である彼には、フトニのことが他人事とは思えないのだろう。
「巫女は、神に代わって安寧を保つために存在しているの。私は私の使命のために動かなければならないと思った」
「それが、王位簒奪」
イサセリの喉から、かすれた声が漏れた。
モモソヒメは顔に手をかざして小さく笑う。
その仕草には、どこか幼い無邪気さが残っていた。
「そんな怖い言い方をしないで。もともと兄様がずっとヤマトの地を治めてきたのだもの。実情に即して、名を正すだけよ」
「……それならば、なぜ五年もの時間をかけたのですか」
「他勢力を味方につけるため」
モモソヒメはウラに視線を向けた。
「モモソヒメから最初に連絡があったのは、三年前。先代ウラが亡くなった直後だった」
「先代ウラとは? ウラはあなたの名ではなかったのか」
「キビ族の首長が受け継ぐ名だよ。イズモ族のフルネもそうだろ?」
イサセリは驚きを隠せなかった。
ヤマト族にはそのような習慣はないからだ。
「キビの首長が変わったことは好機だったわ。長く上に居座っていた人ほど、自尊心が高く、話を聞き入れてくれないもの」
「それに比べて俺は、扱いやすい若輩者の長ってわけだ」
「協力しやすい、の間違いよ」
二人は微笑みを交わしているが、その目の奥には互いを警戒する鋭さが宿っていた。
「まあ、モモソヒメの思惑がなんであれ、ヤマトとの戦が止められるのであれば、俺は協力すべきだと考えた。
だから、個人的に交友があったイズモ族のイリネに話を持ちかけた」
「イリネって、大王に神宝を差し出してフルネに殺された人か?」
「ああ、そうだ」
イサセイの中に次々と疑問が湧いていた。
何が……己の旅の裏で何が起きていたのか、早く知りたかった。
知ることで、体のなかで暴れ回っているこの強烈な不安を、少しでも鎮めたかった。
「神宝の件も、姉上たちが指示したことなのですか」
モモソヒメは首を横に振った。
「違うわ。あれは勘違いが原因。イリネは、ヤマトは一枚岩だと思っていたみたい」
「つまり、モモソヒメや大王子に協力するつもりで、大王の使者に神宝を渡してしまったと?」
「そうよ」
「王位簒奪の件を伝えていなかったのですか」
「ヤマト族の未来に関わる繊細な問題だもの。話すことで大王に計画が露見することも避けたかったし」
ウラが頷く。
「俺も詳細を聞かされたのは、この前の秋だ。それまでは、ゆくゆくはヤマトの地に連合国家を作りたいから協力してほしいとだけ聞かされていた」
「連合国家ですか」
イサセリは膝上の拳を握りしめた。
西のツクシの地では大陸に対抗するため、小国が結びついて一つの大きな国を築いているという話をネホコから聞いていた。
同じことをヤマトの地でもしようというのか。
「誰か一人が支配するわけではない。協力しあう国よ。ヤマトの地に作るのは、いずれは東の国々も巻き込みたいと考えているから」
「壮大な話ですね」
モモソヒメは表情を輝かせた。
「夢があるでしょう?」
イサセリは床板の木目に目を落とした。
確かにその夢が叶えば、戦のない世が訪れるかもしれない。
ワカタケのように幼くして戦場へ駆り出される子どもや深手を負う兵士も減るだろう。
しかし――。
イサセリの胸に去来する最大の疑問は、ただ一つだった。
「なぜ、私を旅に出したのですか」




