第八章 イズモ(三)
長期の幽閉で足腰が弱っていたカラヒサは、イサセリが肩を貸すことでようやく山道を進むことができた。
カラヒサは荒い呼吸を繰り返しながらも、いきさつを話した。
「神の谷は、内の水海の南西にある祭祀場でな。なだらかな丘陵の谷間にあることから、そう呼ばれるようになったんだ」
「なぜワカタケをそこに?」
イサセリの問いには、ウメが応じた。
「儀式ですね」
カラヒサは深く頷いた。
「そうだ。そのトメタマとやらがヤマトの間者だと気づいて、ヤマトへの見せしめに、神へ王子の血を捧げようとしているんだ」
イサセリの顔が一瞬で青ざめた。
「血を捧げるって……時間がないって、そういうことですか!」
「ああ。だが、まだ間に合う。我々の儀式は月の神に捧げるもの。必ず日の入りとともに始めることになっている」
先頭を行くタケルがツァーマとともに振り返った。
「神の谷まではどのくらいかかる?」
「急げば半日」
カラヒサの言葉に、タケルは舌を鳴らした。
「結構ぎりぎりだな」
「里へ戻ったら案内役をつけるから、先に向かってほしい。私も、みなを説得して必ず駆けつける」
カラヒサは苦痛に顔を歪めながらも、前方を強く見据えていた。
ウメは不安そうな声を上げた。
「けれど、里へ戻ったら、カラヒサ様はまた捕らえられてしまうのでは?」
「問題ない。里の者は、私が兄上に捕らえられていたことを知らないはずだ」
カラヒサは伸び放題の髭の下で、苦みばしった笑みを浮かべた。
「こう見えて、兄上より人望があるからな」
イズモの首長とはどのような人物なのか。
イサセリは尋ねた。
「首長は、なぜワカタケを……弟を攫ったのでしょうか」
「最初は偶然だったようだ。これはワカタケ本人から聞いた話なのだが……」
カラヒサは息を整えてから続けた。
「ある母娘を人攫いから救おうとしたらしい。五人は切り伏せたが、追加でやってきた仲間に捕まったと言っていた。
大陸へ送る奴婢にするため、強い武者も集めているようでな」
「ちょっと待ってください」
イサセリは声が上擦るのを抑えられなかった。
「集めているって、もしかして、キビの人攫いはイズモの仕業なのですか?」
「恥ずかしながらな……。全員ではないかもしれないが、一部はそうだろう。兄上が、大陸やツクシとの関係を保つためにしていることだ」
「では、ワカタケは大陸へ送られるところだったと……」
イサセリの背筋が凍った。
もし大陸に送られていれば、二度と会えなかっただろう。
だが、カラヒサはこれを否定した。
「いや、それは最初だけの話だ。兄上はワカタケの顔を見て、すぐにヤマトの大王の息子だと見抜いた。そして、彼の髪を切って大王に送りつけたらしい」
「そんな!」
ウメは声を張り上げた。
「神宝を取り戻す手段にしようと考えたのだろう。しかし、大王からの返事は未だないようだった」
タケルが舌打ちをする。
「くそだな」
イサセリも強い怒りを感じていた。
大王はどこまでワカタケを蔑ろにすれば気が済むのだろう。
きつく奥歯を噛み締める。
「このところ兄上の苛立ちは募る一方だった。王子を神に捧げたという知らせを大王に送り、挑発するつもりなのだろう。
さすがに実の息子の命が奪われたとなれば、大王も動かざるを得まい」
いや、違う。
イサセリは胸の内でカラヒサの言葉を否定した。
たとえワカタケやイサセリが殺されたとしても、大王は何の反応も示さないだろう。
そんな暗い確信がイサセリにはあった。
カラヒサを里に送り届けたイサセリは、タケル、ツァーマ、俊足自慢のイズモの若い兵とともに祭祀場へ向かった。
ウメは足の速さを気にしたのか、トメタマと落ち合ってから向かうと言い、里に残った。
内の水海に沿って走った。
目前に広がる水海は想像以上の広大さで、イズモの里の対岸にも集落が点在していた。
丸太船が絶えず行き交う水面は、活気に満ちている。
この船たちの往来が途絶えれば、それは夕暮れが迫っているという意味だった。
空を見上げると、西の方で雲が途切れ、久しぶりの青空が覗いていた。
イサセリは上衣を強く握りしめ、大神にワカタケの無事を祈った。
イサセリの胸も、足も、靭を背負う肩も、すべてが軋みをあげていた。
右手の弓と帯に差した鉄剣は邪魔でしかなく、何度も投げ捨てたくなった。
だが、ワカタケを救うための武器だと胸に刻むたび、より強く握り直した。
水を飲む時も、歩みを緩めはしたが、決して足は止めなかった。
一度止まってしまえば、もう動けなくなる気がしたからだ。
今はただ気力だけが、限界を迎えた体を動かし続けていた。
その甲斐あって、日没前に祭祀場のある山の麓へと辿り着いた。
だが、空はすでに茜色に染まりはじめ、谷間は平地より一足早く闇を帯びはじめていた。
イサセリたちは息を切らしながら、最後の力を振り絞って坂を駆け上がった。
まだ間に合う。
そう信じようとした矢先、 遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
儀式の始まりを告げる音だった。
ワカタケ!
太鼓に重なるように銅鐸の澄んだ音が谷に満ち、祝詞の声が幾重にも反響して轟いていた。
焦りに震えるイサセリの視界に、一枚の旗が飛び込んでくる。
生い茂る木々の葉の向こうで、谷風に揺れる白い旗には青い文様が刻まれていた。
横に倒した細長い勾玉が二つ、互いに向き合うように縦に並んだそれは、イズモ族を表すものだった。
あそこが祭祀場に違いない。
耳に迫る音の波が、その確信を深めていく。
曲がり道に沿って進み、イサセリたちは祭祀場を見下ろせる高みに身を潜めた。
祭祀場の四隅で巨大な篝火が揺らめいていた。
篝と篝の間には、まるで地面から生えた木々のように何百本もの銅剣が立ち並び、祭祀場を取り囲んでいる。
その青銅の刃は赤い炎を映して輝き、不気味な光で場を照らす。
三十人ほどの人々が祭祀場の中心に集まり、円を作っていた。
ワカタケの姿が見えない。
人々の群れの中にいるのだろうか。
イサセリが歯噛みしながら見つめていると、人々は中心から離れ、銅剣へと向かった。
いた!
ワカタケは、祭祀場の中心に置かれた石の台座に仰向けになっていた。
手足を四人がかりで押さえられているものの、身動き一つしないことが気になった。
意識がないのだろうか。
イサセリは叫び出したい衝動を、唇を噛むことで抑えた。
舌の上に血の味が広がる。
円を広げた人々は銅剣を手に取り、それを胸の前に掲げたまま、右回りに歩を進めた。
篝火の傍らで太鼓と銅鐸を打ち鳴らす四人の音が激しさを増し、人々の気持ちを昂らせた。
高まる祭祀場の熱気とは裏腹に、西の空は刻々と光を失い、薄闇の支配が強まっていく。
銅剣を持った一人が前へ歩み出た。
絹製の衣装に豪華な装飾品、手入れの行き届いた口髭を蓄えた、鋭い眼光の男。
フルネに違いなかった。
「我らの神に――」
フルネの荘厳な声が谷間に響いた。
「ヤマトの血を――」
光を帯びた銅剣がゆっくりと、宵闇の空へと掲げられる。
やめろ!
イサセリの弓が唸りを上げた。




