第八章 イズモ(二)
会談を終えたモモソヒメとウラは、イズモに兵を送ることを渋った。
派手な動きは避けたいらしい。
彼らはカラヒサたちを助けたいものの、慎重に動かなければならないと言う。
これ以上待てるものか!
焦慮に駆られたイサセリは、神託の仲間だけを伴い、イズモに向けて出発した。
キビの晴天とは打って変わり、イズモでは鉛色の空が重く垂れこめていた。
三日三晩の道のりで疲れ果てていたイサセリたちは、高台で休息を取ることにした。
水が沸くのを待つ間、イサセリは崖上の岩に腰を下ろし、北の地を見つめていた。
真下から続く森の先には、二つの巨大な水海があり、そのさらに奥には連山の影が見えた。
水海を行き交う小舟の群れは、まるで水面に浮かぶ落ち葉のようだった。
イズモの里は、二つの水海の間に広がっていた。
丘陵が立ち塞がっているため、右の水海から里へ上陸するのは難しそうだった。
「二つの水海は川で繋がっているんだ」
イサセリの隣に来たトメタマが告げた。
「北海から来た船は、外の水海を通って、川を抜けて、内の水海に入るんだ。そっち側に、イズモの里の港があるからね」
「少々、不便だな」
「まあ、攻められにくくする方が大事なんじゃない? 入り口も狭いしさ」
トメタマは右の水海よりもさらに右を指さした。
細長い陸地が南から伸びており、その先端は北の山々に届きそうだが、わずかに離れていた。
あの細長い陸地で分断された奥が北海ということだろう。
「右の水海は、海なのだろうか、川なのだろうか」
「さあ。でも、海水ほど塩辛くないらしいよ」
奇妙な地形だと思った。
四方を水海、川、山に囲まれた自然の要塞。
大王が長年イズモを攻略できない理由がひとつ見えた気がした。
「おーい、沸いたぞ」
タケルの声にイサセリたちは、焚き火の場所へ戻った。
火の周りにはウメとタケルが座っている。
木の器に乾飯を入れ、お湯を注いだイサセリは、米粒がふやけるのを待つ間、隣に横たわっているツァーマの体を撫でた。
イサセリたちが出発する前日、ツァーマはタケルの言う通り、イヌカイ族を連れてきた。タケルの相棒は本当に賢い。
「山を下りたら、頼むぞ」
イズモの里に近づいてからは、ツァーマの力を借りる計画だった。
血文字が書かれた布切れの一部を持参している。
これをツァーマに嗅がせ、カラヒサの居所を探す算段だった。
カラヒサと同じ場所に、ワカタケもいるはずだ。
休息を終えたイサセリたちは山を下り、右の水海のほとりまでやってきた。
イズモの里からは、かなり東にずれた場所だった。
森や丘に遮られていた川は、近づいてみると想像以上の幅があった。
船が行き交えるのだから当然のことかもしれない。
日が沈みはじめ、雲の合間から西日が差した。
川面が茜色に染まり、黄金色の筋が輝いていた。
船の往来が急激に減っていくのを見計らい、イサセリたちは笠で顔を隠すようにして、川に近づいた。
川岸には、古びた小舟が一艘。
痩せた老人が、釣り人さながらに佇んでいた。
「へぇ、こんなところにも商売人がいるんだな」
イサセリは驚いて呟いた。
トメタマは肩をすくめた。
「当たり前さ。見張りに捕まりたくない連中もいれば、夜陰に紛れて荷を運ぶ商人たちだっている。そういう時は、この『密かの渡し』を使うのさ」
「見張りたちは気づいていないのか?」
「ある程度は黙認してるんだよ。里の偉い連中も、たまには使うんでしょ」
老人は相変わらず川面を見つめたまま、素っ気なく言った。
「渡るなら早う決めや。おちらとしちょったら、他が来るだに」
トメタマは用意していた駄賃を差し出した。
「ほら」
老人の手の上に乗せられたのは、貝製の腕輪だった。
「これで俺以外の三人と一匹を渡して」
イズモの里人と顔見知りのトメタマは、商売に来たふりをして、正面から堂々と里へ入ることになっていた。
「ふむ」
老人は皺の刻まれた目でイサセリたちを見上げた。
その視線は、イサセリの手にした弓と靭、タケルの腰の鉄剣を値踏みするように這う。
トメタマは大げさにため息をつくと、小さな鉄片を数個、老人の掌へ落とした。
「武器は身を守るためさ。これ以上は持ち合わせがないよ」
老人は品物を吟味する素振りも見せず、さっと懐に納めた。
「早う乗れや」
対岸に渡り立つと、タケルはツァーマに布切れの匂いを嗅がせた。
ツァーマは地面に顔を近づけ、鼻をひくつかせながら確かな足取りで進んでいく。
彼が進んでいくのは、右の水海と里の間にそびえる山の斜面だった。
日が沈みきると、タケルが見つけた洞窟に身を寄せた。
硬い岩。
肌寒い空気。
イサセリはなかなか寝付けなかった。
トメタマは無事イズモの里に潜り込めただろうか。
トメタマが首長フルネの注意を引いている間に、必ずワカタケを見つけ出さねばならない。
気ばかりが急く。
無事でいてくれと願いながら、イサセリは無理やり目を閉じた。
鳥がけたたましく鳴いていた。
東の空が白みはじめている。
イサセリたちは、固まった体をうんと伸ばしてから、捜索を再開した。
イズモの空は相変わらず曇り、山の中は、朝方なのに夕暮れ時のような薄暗さに包まれていた。
太陽が見えないため方角を定めることもできず、ツァーマの嗅覚だけが頼りだった。
不意にツァーマが立ち止まり、低く警戒するような声を上げた。
イサセリたちは、慎重に前方の茂みをかき分けた。
すると、木々の間に一軒の高床の建物が佇んでいた。
風雨に晒されつづけた木の壁は黒く変色し、蔦に覆われている。
見捨てられた古い貯蔵庫のようだった。
「あの中か?」
タケルはもう一度ツァーマに布切れの匂いを嗅がせた。
ツァーマは息混じりの声を上げた後、落ち着かない様子でタケルの周りを旋回した。
貯蔵庫の周りに見張りの姿はない。
山奥とあって、見張る必要もないと考えているのだろう。
一同はゆっくりと茂みを抜け出し、貯蔵庫に近づいた。
粗く削られた丸太の梯子は、入り口ではなく横の壁に立てかけられていた。
入り口の扉の取手には、二本の真新しい竹棒が差し込まれている。
中から開けられないようにするための仕掛けらしい。
これで確信に変わった。
誰かが中に監禁されている。
タケルは慎重に梯子を入り口に移動させた。
梯子を上り、竹棒を抜き取る。
その間イサセリは、地表に残り、万が一の事態に備えていた。
すると、貯蔵庫の中から低い男の声が響いた。
「また来たのか」
タケルがゆっくりと扉を開く。
奥から先ほどと同じ声がした。
「誰だ、お前は?」
男は動揺しているようだった。
タケルが問いかけた。
「あんたがカラヒサか?」
「そうだが、おまえは何者だ?」
タケルは懐から布切れを取り出して男の前に掲げた。
「それは……!」
カラヒサの声が震えた。
「これ書いたの、あんただろ?」
「ウカは!」
切迫した声でカラヒサが続けた。
「ウカは無事キビへ辿り着いたのだな!」
ウカとは布切れをキビに届けた少年のことだろう。
「これに書かれてたヤマトの王子ってのは、ワカタケのことか?」
カラヒサの声が途絶えた。
我慢できなくなったイサセリは、素早く梯子を上った。
「ワカタケはここにいないのか?」
貯蔵庫内は空虚で、入り口からの光だけでは闇を払うには至らなかった。
人影程度は見分けられたが、そこにいるのはカラヒサ一人だけだった。
「ワカタケはどこだ?」
イサセリの声が強まった。
「……今朝、連れて行かれたよ」
「どこへ?」
「たぶん神の谷だ」
「神の谷?」
イサセリは聞き慣れない場所の名に眉をひそめた。
カラヒサの声が鋭くなった。
「あんたら、二人だけで来たのか?」
「いや……」
梯子の下には、不安げな表情のウメと、耳を立てて周囲を警戒しているツァーマがいた。
「ここに二人と、あと一人は引きつけ役として里に向かった」
「そいつだな」
カラヒサはため息まじりに言った。
「たぶん、その引きつけ役が来たことで、兄上はワカタケを移動させたんだ。早くしないと間に合わない。私の拘束を解いてくれないか?」
「間に合わないとは、どういうことだ?」
「時間がない」
カラヒサは焦りを帯びた声で言った。
「行きながら話すから、先にこの縄を」




