第七章 キビ(二)
一番に動いたのはタケルだった。
格子に縋り付いていた兵二人を勢いよく蹴り飛ばすと、地に座り込んだ弓の兵士へ向かっていく。
弓の兵士にもはや戦意はなく、肩を震わせ泣いていた。
タケルに剣を奪われても、一切の抵抗もない。
続いて、イサセリも洞穴を飛び出した。
焚き火の熱気の混じった風が肌を撫でる。
出っ歯の兵士に向かって駆けながら、相手の動きを注意深く観察した。
矢が飛んできた。
イサセリは身を屈めて躱し、一気に距離を詰める。
弓に慣れていないのか、出っ歯の兵士は二本目をつがえるのが遅い。
その隙を突き、イサセリは剣の間合いまで踏み込んだ。
剣の柄を強く握りしめる。
――あんたに、人が斬れるのか?
ワカタケの言葉が耳元で蘇った。
喉が乾く。
兵士が弓を投げ捨て、剣を引き抜こうとしている。
考えている暇はない。
イサセリは一瞬目を閉じ、訓練した通りに薙ぎ払った。
肉を断つ重い感触が手のひらに伝わる。
生温かいものが顔や腕にかかる。
背中から倒れていく兵士から、イサセリは目を離さなかった。
地面にゆっくりと広がる血溜まりが、兵士の小指まで到達した。
イサセリは虚空に向かってぽつりと呟いた。
「斬ったぞ」
後ろを振り向くと、タケルが最後の兵士を斬っているところだった。
ウメが恐る恐る洞穴から出てきた。
久しぶりの外気に、四人は思わず体を伸ばした。
「やっぱ、自由に動けるっていいな!」
タケルがその場で飛び跳ねた。
トメタマは兵士たちの亡き骸から皮鞘などを回収していく。
「慣れているのだな」
トメタマがイサセリを見上げた。
焚き火に照らされた右の目よりも、影が落ちた左の目の方が強く光っているように見えた。
「生きていくためだから」
タケルが松明を掲げて言った。
「取ったらさっさと移動するぞ。もたもたしてたら、兵士長とやらがきちまう」
「どこへ行くべきか」
イサセリの問いに、タケルは即座に答えた。
「北に決まってんだろ」
「待って」
トメタマが首を振った。
「敵もそう思っているんだから、北に行ったらすぐに捕まっちゃうよ。それに荷物だって取られたままだし……」
「おまえ、そっちが本音だろ」
「だって、商品は商売人の命だよ! あれがないと、俺はこの先どう生きていけばいいんだよ!」
「元はと言えば、おまえのせいだろ!」
熱くなる二人の間に、イサセリは「まあまあ」と割って入った。
「ウメはどう思う? 導きの神は何と言っている?」
ウメは疲れているのか、表情を固めたまま答えた。
「神は何もおっしゃっていませんが、私もキビへ向かうべきかと」
ウメにまで突っかかりそうなタケルを押さえ、イサセリは理由を尋ねた。
「イサセリヒコ様も気づかれているかもしれませんが、私たちを捕らえた里長と、キビの首長は対立しているのではないでしょうか」
「そうだな」
壮年の兵士の言動から、イサセリも同じことを感じていた。
「山を進んでもいずれ捕まるでしょうし、それであれば、キビの首長の邸宅へ逃げ込むべきだと考えたのです」
「俺、商売で行ったことがあるから、キビの里の中はわかるよ」
ウメという賛同者を得たトメタマの頬は緩んでいる。
対してタケルは小鼻を膨らませた。
「なんだよ。みんな口裏合わせたみてぇに」
イサセリは説得を試みた。
「頼む、タケル。私たちの案に乗ってはくれないか。正直、私には山を駆けつづけられる体力は残っていないのだ」
タケルは固く目を瞑った後、水瓶を掴み上げ、呷った。
喉仏が上下した。
「ほら、お前らも飲んどけよ。里まで飲めねえかもしれねえんだからな!」
トメタマ、イサセリ、ウメ、タケルの順に縦一列。
雨上がりの泥濘んだ地面に滑りそうになりながら、闇に包まれた道なき道を進んでいく。
絶え間なく梟の声が響いていた。
突然、茂みが大きく揺れる。
イサセリたちは息をひそめた。
飛び出てくるものはない。
周囲を警戒しながら、再び歩を進めた。
「今の時期は熊もいるだろうか」
イサセリは喉が震えるのを感じた。
熊に喰われた狩人の話が、暗闇の中で急に生々しく蘇ってきた。
「こんな麓まで降りてこねえだろ」
タケルが言う。
「そうそう。火も持ってるし」
トメタマも同意した。
旅慣れた二人が言うのだから、そうなのだろう。
サヌキで狩猟をしていた時は、木に引っ掻き傷を見つければ、すぐにその場を離れるようにしていた。
そのおかげか、イサセリは熊に遭遇したことはなかった。
「ツァーマがいりゃあ、熊肉が食えるけどな」
タケルの発言に、イサセリは目を丸くする。
「ツァーマは熊を狩れるのか?」
「ああ。ほらよ」
後ろからタケルの右腕が伸びてくる。
手首に近いところに三本の横線が刻まれていた。
「俺とツァーマで狩った熊の数だ」
「そういう意味だったのか」
イサセリはタマルの腕に二十本ほどの横線が入っていたことを思い出した。
冬に出会ったためイヌカイ族の狩りの腕前を見たことがなかったが、想像以上の手並みらしい。
「俺たち二人にかかれば、狩れねえ獣なんていねえよ」
「機会があれば、ぜひ狩りに参加させてほしいものだ」
「そりゃいい。イサセリの弓の腕前が加われば怖いもんなしだぜ」
イサセリは軽く笑った。
雑談をしていると気が紛れた。
少しでも黙ると、初めて人の命を奪った恐怖心にのみ込まれそうになる。
兵士の血が飛んだ箇所を隠すように、上衣を強く握りしめた。
遠くに、篝火が揺らいでいるのが見えた。
里に近づくにつれ、足音を殺し、口を閉ざした。
分かれ道になると、トメタマは無言で腕を伸ばし、進む方向を指し示した。
里の明かりが届くようになってからは、松明の火も消した。
木の影から里の様子を窺った。
里の周りには深い水堀が巡っていた。
堀の外側には木の棒が斜めに突き立てられている。
侵入者を拒むしかけなのだろう。
こちらに向いた先端は鋭く尖っていた。
堀の内側には背丈ほどの棒杭が隙間なく並び、その合間からやわらかな明かりが漏れている。
今まで訪れたどの里と比べても、規模も守りも桁違いだった。
里人たちは寝静まっているようだったが、里の中にそびえ立つ見張り台には人影が動いていた。
トメタマは、水堀に渡された橋を指差した。
「里に入るにはあそこを渡るしかないけど、見つかるのは確実。中央の高床造りが首長の家だから、そこまで全力で走ろう。なるべく戦いは避けること。いいね」
イサセリたちは無言で頷いた。
「ウメは俺が背負っていく」
タケルの言葉にウメは遠慮したが、抵抗する力は残っていなかったようで、すぐにタケルに背負われた。
「いくよ」
四人が木の影から飛び出た瞬間、見張台から
「敵襲!」
の声が響いた。
銅鐸が高らかに鳴り響き、里全体が揺れ動いた。
家々から人の気配が溢れ、兵士たちが次々と姿を現す。
その数の多さに、イサセリは息を呑んだ。
「トメタマです! 商人のトメタマです!」
トメタマは名を叫びながら先頭を切った。
「なんでお前が?」
と首を傾げる人もいたが、ほとんどの兵士たちは迷わず剣を抜いた。
その中には見覚えのある顔が数人いた。
洞穴で見張りをしていた連中だ。
「脱走者だ」と喚き立てるかと思ったが、彼らは黙ったままだった。
首長の家は、里に足を踏み入れてすぐ視界に入っていた。
二階建ての建物が三棟、屋根つきの通路で繋がる広大な邸だ。
胸高の土塀、入り口の篝火までもう少し――。
だが、土塀まであと一歩というところで兵士たちに取り囲まれた。
ウメ以外の三人は剣を抜いたが、仮にも首長側の人に助けを求める身で、里の兵士を斬ることはできない。
じりじりと兵士たちが迫ってきた。
イサセリが唾を飲み込んだその瞬間、ウメが力強く叫んだ。
「私たちはキビの仲間です! ヤマトの姫巫女モモソヒメ様の使いです! 首長に近い方に話を通していただければわかります!」




