第六章 背信(三)
イサセリたち四人は、川沿いを下流に向かって延々と歩かされた。
その間、口にしたのは喉を潤す程度のわずかな水のみ。
さすがのタケルも暴れては早々に体力が尽きると考えたのか、黙ってキビの兵士たちに従っていた。
ウメは長い行軍の途中で意識を取り戻した。
最初は茫然としていたウメだったが、兵士たちの腰で揺れる剣を目にした瞬間、表情が凍りついた。
何かを悟ったらしい。
ウメは仲間一人一人の顔を順に見つめ、かすかな笑顔を浮かべた。
勇気づけようとしてくれている。
気丈な人だとイサセリは思った。
一方で、トメタマは視線を泳がせ、ウメと目が合うのを全力で避けていた。
ウメはトメタマの不自然な態度に気づいていないようだった。
ウメはまだ、トメタマの裏切りを知らないのだ。
イサセリはその後も、疲れた足を引きずりながら、三人の様子を無気力に眺めていた。
行軍は二日に及んだ。
山の中腹の開けた場所で、兵士たちが休憩を取ることになった。
その場所からは、キビの里が一望できた。
それまで沈んでいたイサセリは目を見開いた。
眼下には灌漑技術を駆使して造られた田畑が広がっていた。
見たこともない広大な景色だ。
イサセリが幼少期を過ごしたヤマトの地でさえ、これほどの規模の田畑は見たことがなかった。
蛇の体のように曲がりくねった川からは水路が伸びていた。
畦で整然と区切られた田畑では、くすんだ金色の麦が風に揺れていた。
その隣では、まだ水が張られていない田んぼが、これから始まる稲作の季節を待っていた。
田植えの時期になれば、田んぼは鏡となり、この大空を映し出すだろう。
やがて赤く色づく稲穂が風に揺れる様も、美しいにちがいない。
田畑の彼方には海が青く広がっていた。
キビの穴海と呼ばれる内海である。
沿岸には、大小様々な船が停泊していた。
その中には、ネホコが乗っていたような、外つ国へ行くための大きな船もあった。
港には高床式の倉が等間隔に並んでいる。
人々が暮らす家は山際に集まっていた。
「おい!」と兵士に肩を掴まれても、イサセリは構わず景色に見入った。
家の形はサヌキのものと同じに見えたが、数が明らかに違った。
イサセリが今いる山の麓だけでなく、右の山の麓にも、田畑の向こうにある低い山の近くにも集落を作っていた。
イサセリは息を呑んだ。
国だった。
里と呼べる規模をとっくに超えている。
キビの財力、国力はこれほどのものか。
大王がキビを欲しがるのも無理はない。
海運を制すれば、これほどまでに栄えることができるのだから。
イサセリは足先から頭まで、じわりと震えが走るのを感じた。
麓に下りる一歩手前で、一行は細い獣道へと足を踏み入れた。
鬱蒼とした木々の間を縫うように進むと、やがて行き止まりになった。
イサセリたちの前に現れた洞穴は、奥こそ浅かったものの、横幅は成人の男六人ほどがゆったりと収まる広さがあった。
入り口には、不揃いな太さの枝を縄で編んだ粗野な格子が嵌められていた。
格子の端は地面と洞穴の壁にしっかりと食い込み、一見して容易には動かせそうにない。
格子は左右に分かれており、中央で太い丸太が両者をつなぎとめていた。
丸太と両脇の格子は、幾筋もの縄で結び付けられている。
四人の兵士が前に出ると、手分けをして縄を解いた。
全ての縄を解き終えると、兵士たちは掛け声と共に、ゆっくりと丸太を手前に倒した。
丸太が取り除かれた洞穴の入り口には、人一人が横を向けばかろうじて通れるほどの隙間ができていた。
イサセリたちは拘束されたまま、洞穴の中に押し込まれた。
粗い岩肌が衣を引き裂きそうになり、湿った空気が肌を這うように纏わりついてきた。
タケルが飛び出ようとしたが、格子の隙間から青銅の剣が何本も差し込まれ、身動きが取れなくなる。
冷たい剣先が肌に触れそうになった四人は息を呑んだ。
そうしている間に、再び丸太が立てられ、イサセリたちは洞穴の中に封じられてしまった。
見張りの兵士二人を残して、兵士たちは獣道を引き返していく。
タケルとトメタマが怒声を上げたが、去っていく兵士たちは振り返りもしなかった。
これからどうなってしまうのだろう。
イサセリは洞穴の奥の壁を背にして座り、空を眺めた。
晴れているのが、せめてもの救いだった。
これが曇天だったならば、イサセリの心はさらに深く沈んでしまっていたことだろう。
突然の鈍い音とともに、イサセリの目の前をトメタマの体が横切った。
タケルがトメタマを蹴り飛ばしたのだ。
線の細いトメタマは吹っ飛び、横の壁に激突した。
トメタマは激しく咳き込みながら、タケルを強く睨んだ。
タケルは犬のように唸った。
それから、後頭部を壁に擦りつけはじめた。
口に噛まされた布を取ろうとしているらしい。
壁では埒が明かないと思ったのか、タケルはイサセリの前に「ふん!」と鼻を鳴らしながらあぐらを掻いた。
振り返り、子どもが見たら泣き出すような恐ろしい形相で何かを伝えてくる。
タケルの後ろ手に縛られた手が、細かく動かされていた。
「おい、何をしている!」
見張りの若い方の兵が、厳しい口調でタケルの行動を咎める。
それに対し、隣の壮年の兵が制するように手を上げた。
「いい、いい。勝手にさせておけ」
「しかし……」
「拘束を解いたとて、罪人の穴からは出れやしないんだ。もし丸太の縄を解こうとしたら、その時は剣で刺してやればいい」
若い兵の顔は一瞬緊張した面持ちになると、柄から手を離した。
「ん!」
タケルがまた訴える。
イサセリは軽く息を吐くと、タケルと背中合わせになった。
縛られた手をなんとか動かし、横たわったタケルの後頭部を探った。
ウメは全身で身振り足振りを交えながら、「上です」「左です」と布の位置を教えてくれた。
固結びされた布を解くと、タケルは布を吐き捨てる。
唾液で濡れた布は重たい音を立てて、地面に落ちた。
濡れた布が土を黒く染めていた。
「はあー! 生き返った!」
タケルは晴々とした顔をしていた。
しかし、瞬く間に表情を一変させ、太い眉を寄せながらトメタマに詰め寄った。
「トメタマ、おまえよぉ!」
しかし、タケルの前にウメが立ちはだかった。
トメタマの裏切りを知らないウメからしてみれば、タケルの言動が意味不明なのだろう。
ウメは突然の仲間割れに困惑し、目に涙を浮かべていた。
タケルは子どもをあやすように弁明した。
「ウメ、違うんだ。そいつが俺たちを裏切ったんだ。だから俺は――」
ウメは眉をひそめ、布越しにもごもごと声を漏らした。
声の調子から
「裏切った?」
と言ったように思えた。
「くそっ、先にそれ取った方が早えな。イサセリ、俺の腕のも解いてくれ。そしたら、俺が二人の拘束も解く。トメタマ、お前はそのままな!」
タケルに睨まれたトメタマは顔を歪めると、寝返りを打ち、こちらに尻を向けた。
「たくっ!」
タケルは再びイサセリの前に座った。
イサセリは一瞬、兵士たちの様子を窺った。
若い兵はこちらの様子を見てはいたが、もう口を出してはこなかった。
再びウメの力を借りながら、タケルの拘束を解く。
指に痛みを感じながらも、時間をかければなんとか縄は解けた。
そこからは早かった。
自由の身になったタケルが、イサセリとウメの拘束を解く。
トメタマも、口の布だけは解いてやった。
約二日ぶりに自由になった体を、イサセリとウメは伸び縮みさせながらほぐした。
ひと息吐いてから、ウメが尋ねた。
「それで、トメタマが裏切ったとはどういうことですか」
「言葉のまんまだよ。こいつはイサセリをキビに売りやがったんだ」
「まさか」
ウメは信じられないという表情で笑った。
「だって、トメタマ自身もこうして捕まっているではありませんか」
「だからそれは、今度はこいつがキビに裏切られたんだって」
「そんな……」
ウメの口元が震え出す。
それから、まだこちらに背を向けて寝転がっているトメタマに駆け寄った。
「本当ですか、トメタマ」
ウメはトメタマの肩を激しく揺さぶった。
「キビの誰に話を持ちかけられたのです? ワカタケを探してくれると言ったのは嘘だったのですか。ワカタケの痕跡、探してくれたのではなかったのですか!」
ウメの発言にイサセリは、はっとした。
そうだ、ワカタケ。
今の今まで、完全に頭から消えていた。
トメタマに裏切られた衝撃で……いや、そんなのは言い訳だ。
私は私のことしか考えられなかったのに、ウメは裏切りを知った直後にワカタケのことを思い出したのだから。
私は、なんと薄情なのだ。
イサセリは激しい自己嫌悪に陥った。
「ねえ、トメタマ。ワカタケはどこにいるのです、ねえ」
強く揺さぶられたトメタマは肩を大きく動かし、ウメを押しのける。
上体を起こしたトメタマは、尻餅をつくウメに向かって唾を飛ばした。
「だから知らないって!」
「知らねえじゃねえだろ」
タケルが低い声で脅すように言った。
「おまえ、ウメの泣く顔を見たくねえって言ってたじゃねえか」
「だから探したんだよ! でも……」
トメタマの声が次第に小さくなっていった。
イサセリは固く拳を握っていた。
手のひらに爪を食い込ませる。
骨を砕かんばかりに親指に力をいれる。
体の中に破壊的な衝動が沸き起こっている。
それは、熟れ切った果実が皮を裂くように、抑えがたい激情であった。
トメタマに対して?
いや、違う。己に対してだ。
未熟で、愚鈍で、薄情で、身勝手な己に対する怒りだ。
熱い。体が、熱くてたまらない。
とうとう堪えきれなくなったイサセリは咆哮した。
喉が裂けそうな叫びが洞穴の壁に跳ね返り、何重にも重なって響き渡る。
獣のような声で何度も、何度も叫んだ。
これまで押し殺してきた様々な感情が、堰を切ったように溢れ出した。
気が済むまで叫び続けたイサセリは、肩を激しく上下させながら息をした。
自然と溢れ出した涙を拭う。
すべてを出し切った。
ふと周りを見渡すと、みな同じ表情をしていた。
ウメも、トメタマも、タケルも、壮年の兵士も、若い兵士も――驚きと恐怖が入り混じった顔でイサセリを凝視している。
彼らの顔を見て、イサセリの体から力が抜けた。
同じだ。
ここにいるみんな、顔立ちも服装も、祖先も信仰も、生まれ育った土地も環境も、何もかも違うのに、同じだ。
何もかも違うのに、私たちは同じ人なのだ。
その事実に気づいたイサセリから笑みがこぼれた。
「イ、イサセリヒコ様?」
戸惑いの声を上げるウメに、イサセリは静かに言った。
喉は枯れていたが、それでもなんとか言葉を絞り出した。
「私は矮小な人間だ」
「そんなこと……」
「いや、そうなのだ。ウメがワカタケのことを話すまで、私はすっかり失念していた。己のことばかりで、あれだけ気にしていたはずの弟のことを、忘れてしまうような人間なのだ」
イサセリの声は壁に反響して洞穴内に広がった。
まるで、もう一人の自分が語りかけてくるようだった。
「結局、ワカタケを探したかったのも、身勝手な理由だったのだ。己の都合に付き合わせてしまったワカタケに謝りたい。謝って許してもらいたい。そんな願いからだった。
ずっと自信のなさを言い訳にしていた。人から責められるのが怖かったから、本音で語らず、万人にとっていい人であろうとしてきた。
感情を抑え、口先ばかりのことを言って……でも、本当はこんな私が嫌だった!」
イサセリは目を震わせた。
語気が強まるにつれ、息遣いも荒くなっていった。
「私も、ウメのように本気で心配できる人になりたいし、タケルのように本気で怒れる人になりたい。トメタマのように、自立した人にもなりたい。
ずっと、私にはできない、できるはずがないって考えていたが……」
イサセリは全員の顔を見回す。
「みな同じだと気づいたから。
私の中に溢れてくる醜い感情も、喜びも、悲しみも、誰もが表に出さないだけで抱いているとしたら、私はそれを理解したいし、知りたいと思ったんだ。
……トメタマ」
俯いていたトメタマが顔を上げる。
トメタマの目には困惑の色が浮かんでいた。
「確かに私は、何も持たない人間だ。だけど、今は何も持たずとも、いずれ何かを成し得る者になりたいと、強く思う」
トメタマは黙っていた。
イサセリはゆっくりとトメタマに近づいた。
トメタマは壁に背をつけ、威嚇するようにイサセリを睨み上げる。
「ツル山の洞窟で、私のことを嫌いじゃないと言ってくれたな」
イサセリは話しかけながら、トメタマの上体を縛る縄に手をかけた。
トメタマは一瞬体を強張らせたが、意外にも抵抗せずに身を任せていた。
「私もトメタマのことが嫌いじゃないよ」
イサセリはトメタマを抱きしめるようにして、後ろ手に縛られた縄を解きはじめる。
「裏切られたと聞いて、本当に衝撃を受けたけど、それだけトメタマを信じていたということだ。信用して仲間だと信じていたから、その分、衝撃も大きかった」
トメタマが視線を下げる。
イサセリの胸にトメタマの額が押しつけられた。
「トメタマがキビに手を貸したのは、本当に利があるからだけだったのか? トメタマは優秀な商人なんだろう?
商人は信用が命だと、昔ネホコ……他の商人に聞いたことがあってな。よく考えてみたら、目先の利益のためだけにトメタマがこんなことをしたとは思えないんだ」
縄が解け、イサセリはトメタマから離れる。
トメタマは久方ぶりに解放された腕を脱力したまま地面に垂らした。
震える指先が、わずかに地面をかく。
トメタマの上衣の裾に、涙の染みが広がっていく。
点々と、まるで雨が降るように。
イサセリがそっと肩を撫でてやると、嗚咽が漏れた。
「……なんでっ、ひさしぶりの熱が……なんで、あんたなんだよぉ」
トメタマは年相応の幼さを宿して泣きつづける。
これまでの無表情は、彼の強がりだったのだとイサセリは悟った。




