第六章 背信(二)
朝もやの中、一行は黙々と歩を重ねていた。
しっとりと湿った蓑が重く肩にのしかかる。
イサセリは唇を引き締めた。
しばらく木々の間を進み、やがて茂みをかきわけると、大きな川が姿を現した。
ワカタケが姿を消したというキビ川だった。
土の匂いが鼻をついた。
川面を渡る風が頬を撫でる。
心地良いせせらぎが、しばし緊張を解いてくれた。
キビ川は予想以上に大きかった。
上流とは思えない五十歩もの川幅が、目の前に広がっている。
イサセリは驚嘆の息を漏らした。
キビは水が豊かな地だ。これほどの水がサヌキにもあれば、溜池は必要なくなるだろうに。
「このあたりで追えなくなったんだよね」
トメタマの言葉に、イサセリは弓幹を強く握りしめた。
ワカタケは一体どこへ行ってしまったのだろう。
「やっぱりだめだな」
タケルは、ワカタケが着ていた服の匂いをツァーマに嗅がせていた。
しかしツァーマは動かない。
数ヶ月前の匂いを追わせるのは、所詮無理な話だった。
ウメとイサセリは黙って川面を見つめた。
「これだけ川幅があれば、確かに船を使えますね」
「船で人を運ぶことも、荷を運ぶことも簡単にできる」
人攫いの話が、急に現実味を帯びてきた。
ワカタケの剣の腕は確かだが、一人だった。
もし複数人に襲いかかられたら?
遠くから矢を射られたら?
おだやかでない想像が次々と浮かび、イサセリは眉をひそめた。
不安に沈むイサセリの横で、トメタマが声を上げた。
「対岸にも行ってみる?」
イサセリは対岸を見渡した。
朝もやは薄れてきたものの、生い茂った草木に遮られ、向こうの様子はわからなかった。
トメタマの提案に、タケルが鼻を鳴らした。
「行くっておまえ、この川を泳ぐつもりかよ」
イサセリも気が進まなかった。
春とはいえ、まだ空気は冷たい。
全身が濡れるのはごめんだった。
しかめ面の一同に、トメタマは呆れた声を発した。
「なに言ってるの。橋を渡るに決まってるじゃん」
トメタマの案内で上流へ進むと、川中の岩に渡された丸太が見えた。
川中には二つの岩があり、合わせて三本の丸太が両岸を繋いでいた。
丸太を見たウメが絶望の声を上げた。
「橋って、これですか」
「そうだよ。丸太の真ん中を歩けば落ちないから。不安だったら、腕を横に伸ばすといいよ」
珍しく親切なトメタマの助言だったが、ウメの青ざめた顔は変わらなかった。
「ツァーマみたいに四つ足で這っていけよ」
タケルの提案に、ツァーマが元気よく吠える。
結局ウメは、身を低くし、丸太にしがみつくようにして対岸を目指すことになった。
イサセリ、タケル、ツァーマは早々に対岸に渡り終えた。
トメタマはウメの後ろに付いている。
彼は何度か元いた岸の方を振り返っていた。
もしウメが引き返すと言い出したら、と考えているのかもしれない。
「おい、ウメ! 舞のときの軽やかさはどこいった?」
タケルの野次に、ウメは顔を真っ赤にして睨み返す。
「それと、これとは……別です!」
息を切らすウメとは対照的に、トメタマは雑談する余裕まであった。
「へえ、ウメさん踊るんだ。見てみたいな」
イサセリは、あの神秘的な夜の光景を思い返した。
「そういえば、ウメが踊ったのはトメタマと出会う前だったな」
「きれいだった?」
「ああ。今の様子からは想像できないくらい」
「イサセリヒコ様!」
ウメが喚声を上げると、一同から笑いが漏れた。
ようやく対岸に辿り着いたウメは、衣装が汚れることも構わず地面に倒れ込んだ。
「もう、川はごめんです」
イサセリはウメに手を貸す。
「ヒ川の時は大丈夫だったのにな」
「あの時は、私は浮いているだけでしたから」
「ああ、そうだったな」
イサセリの脳裏に、仰向けに浮かんだウメの肩を掴んで泳ぐワカタケの姿が蘇る。
当時はまだ打ち解けていなかった二人が、同じような渋い表情をしていた光景が懐かしい。
三人の旅もなかなか愉快だったと感慨深くなっていると、不意に数羽の小鳥が羽ばたいた。
不自然な静けさが辺りを包む。
イサセリはぞくりと身を震わせた。
ツァーマが唸りはじめる。
河原に広がる枯れたヨシに向かって、ツァーマは歯を剥いていた。
ヨシはイサセリたちの背丈よりもうんと高い。
あの向こうに、何かがいるのだろうか。
タケルは短刀を構えた。
イサセリはウメを後ろに下がらせ、靭から矢を一本抜く。
弓に矢をつがえ、引絞った。
「何者だ」
イサセリの問いかけに答える声はない。
しかし、ツァーマは未だ唸り声を上げている。
獣であれば、ここまで過剰な反応はしない。
間違いなく、人がいる。
風が吹き抜け、ヨシがサワサワと音を立てる。
後退すべきか?
丸太橋に目をやったイサセリは、愕然とした。
対岸に人影があった。木製鎧に身を包んだ兵士たちが三十人ほど並んでいる。
次の瞬間、ヨシの群れが割れ、正面からも兵士たちが姿を現した。全方位を囲まれ、人数で圧倒される。
あっという間に武器も荷物も奪われ、イサセリたちはヨシの間を引きずられた。
開けた河原に粗暴に投げ出される。
あちこちに擦り傷ができ、肌がひりひりと痛んだ。
何が起きているのか、わからなかった。
屈強な兵士二人がイサセリの体を地面に押しつけた。
抵抗する間もなく、後ろ手に縄で縛られる。
タケルは獣のように暴れまわっていたが、最終的に五人がかりで押さえつけられ、抵抗虚しく捕らえられてしまった。
ウメはイサセリの背後に倒されたらしく、様子がわからない。
声がしないことが気がかりだった。
タケルの横でトメタマが叫んだ。
「ちょっと! なんで俺まで縛るの!」
イサセリの頭が真っ白になった。
俺まで、とは?
トメタマは太々しく叫んだ。
「俺は注文通りの品を届けにきただけだよ。こんな仕打ちを受けるなら、もっと礼を積んでもらわないと!」
「てめえ、トメタマ! 裏切ったのか!」
タケルが吠える。
同時に、イサセリの世界がゆっくりと傾いていった。
視界が歪み、耳鳴りがする。
今まで信じていた人の、信じていた言葉が、土器が砕けるように激しい音を立てて崩れていく。
口が乾き、喉が締め付けられる。
満足に呼吸をすることさえ難しかった。
トメタマは――その表情はいつもの飄々としたものとは違って、どこか冷たい影を帯びていた。
「別に。商人としてどちらが得か、秤に掛けただけだよ」
「あぁ? はかりだぁ?」
「だって、ヤマトの王子って言ったって、イサセリさんには何もないわけじゃん。土地も、財産も、率いる民も。
そんな人より、ずっと豪華な礼を用意してくれるキビに手を貸すのは、商人として当然でしょ」
やはり、彼らはキビの兵士なのか。
イサセリは青い顔をゆっくりと持ち上げた。
整列する兵士たちの頭には、白い鉢巻が巻かれている。
鉢巻には朱糸で刺繍が施され、左右に並んだ二つの右巻きの渦が浮かび上がっていた。
それぞれの渦の一番外の線が、もう一方の渦の線と繋がっており、全体として連続した一本の線になっている。
それは身をくねらせた蛇のようにも見えた。
キビ族が好んで使っている文様だった。
「捕らえたか」
威厳のある声が前方から聞こえた。
兵士たちが道を作ると、口髭を生やした中年の男が姿を現した。
男の木製鎧は漆だろうか、全体が朱色に塗られ、縁を黒い線で装飾してある。
鉢巻と同じ二つの渦が鎧全体に彫り込まれ、豪奢な印象を与えていた。
「あんたが長か! 早く放しやがれ!」
タケルが怒声を上げる。
トメタマも続いた。
「そうだよ! あんたたちに言われた通り、ヤマトの王子を連れてきた。みずらに結っているそこの男がそうだよ。
俺やタケル、ウメさんは関係ないんだから、早く解放してよ!」
「おい、イサセリだけを売る気か!」
タケルとトメタマの怒号は、イサセリの耳には遠い反響のように届いた。
イサセリに何もないことは事実だ。
トメタマの商人としての勘は正しいのかもしれない。
しかし、仲間だと思っていた人に裏切られた衝撃は計り知れなかった。
怒りではなく、自己嫌悪がイサセリの中で膨らみ、旅で得た自信が急速に萎んでいく。
やはり、お前は何の価値もない人間なのだと、心の奥底から湧き上がる声が告げている。
幼いころから、優秀なモモソヒメの傍らで積み重ねてきた劣等感が蘇ってきた。
兵士長が腕を振った。
その合図で兵士はイサセリたちの口に布を噛ませる。
布は粗く、舌に引っかかるような感触だった。
口の中に広がる苦みと、喉の奥をくすぐる麻特有の匂いに、イサセリは吐き気を催した。
タケルとトメタマの声にならない唸り声が河原に響く。
そういえば、ツァーマの声がしない。
酷い目に遭わされたのだろうか。
それとも、隙を見て逃げたのだろうか。
今のイサセリには、体を押さえつけてくる兵士の縛めを振り払ってまで確かめる気力もなかった。
兵士長が低い声で言った。
「関係ないと言ったが、ヤマトの神が下した神託を我々は知っている。
トトリ族のトメタマ、犬を連れていたそこの男、女については知らんが、残りのサルということだろう。お前たちも含め、キビに連行する」
トメタマの呻き声が大きくなったが、兵士長は一顧だにせず、踵を返した。
兵士二人に両腕を引かれ、イサセリは無理やり立たせられる。
後ろを振り返ると、ウメは気を失い、兵士に担がれていた。




