第五章 トトリ(四)
イサセリは体を揺さぶられていること気づいて目を開けた。
洞窟の中は薄暗く、外の吹雪の音が遠くに聞こえる。
何かがおかしい。
そう感じた瞬間、ウメの泣き顔が視界に入った。
彼女の大きな目からこぼれ落ちた涙が、イサセリの鼻先に落ちてくる。
「どうした」
イサセリは体を起こした。
筵が肩から落ちる。
肌を刺すような冷たい空気に身震いをした。
「ウメ」
ウメは泣くばかりで喋らない。
そばで伏せていたタケルの犬・ツァーマが起きてきて、ウメの顔を舐めた。
「どうした」
タケルも身を起こす。
「ウメ。何か言わねばわからない」
しゃくりをあげるウメは、洞窟の入り口の方を指差した。
「外……?」
イサセリは嫌な予感がして、タケルの方を勢いよく振り返った。
彼の奥――いつもワカタケが寝ていた場所が空いている。
荷物も無くなっていた。
「まさか!」
イサセリはウメの顔を凝視した。
ウメはしきりに頷いている。
イサセリは慌てて駆け出した。
心臓が激しく鼓動していた。
ワカタケの身を案じる気持ちばかりが先走り、足が何度も縺れそうになった。
周りの声も、自分の足音も、全てが遠くに聞こえる。
外は吹雪だった。
「ワカタケ!」
焦るあまり毛皮を羽織り忘れたイサセリは、一歩外に出ただけで激しく歯を鳴らした。
強い風はイサセリに痛みを与え、瞬く間に体温を奪っていった。
月明かりも星明かりもない。
山は暗く、一切の音を消していた。
生き物の息吹を感じない。
「ワカタケ」
イサセリは硬直した足をなんとか動かした。
ゆっくりしか動かせないから、後を追ってきたタケルにすぐに捕まった。
「ばか! おまえまで死ぬぞ!」
「おまえまでって……」
「あ、いや、今のは……」
タケルは言葉を濁した。
「とにかく、捜すのは明るくなってからだ。里に降りただけかもしれないし、ツァーマたちもいる。今は中に入ろう」
イサセリはタケルに引き摺られるようにして洞窟に戻った。
中に戻ると、騒ぎを聞いたイヌカイ族の人々が起きていた。
火も焚かれている。
タケルに背を押され、イサセリは焚き火のそばに座った。
あたたかい。体がほぐれていく。
タキが白湯の入った木の器を渡してくれた。
「イサセリヒコ様、ごめんなさい……私、気が動転して」
ウメの目は真っ赤だった。
しかし、話せるようになっている。
「何があったのだ」
「私のせいなのです……。昨日彼に、ムキには行かず、一緒にキビに行けばいいと言ってしまって……」
「なぜそのようなことを」
「このところ、よく彼の昔の話を聞いていました。聞けば聞くほど、大王はワカタケを大切にしていなかったんじゃないかと思えてきて……」
大王は、たった九歳の息子を戦場に送り出す父親だ。
ワカタケが怪我を負った後も、新たな妻と息子ばかり優遇していたらしかった。
「だから、そんな大王を心配する必要はない。大王の元へ戻る必要はないって言ってしまったんです。彼のこれまでの生き様を否定するようなことを私は!」
ウメはまた泣きはじめる。
イサセリは唇を噛んだ。
ワカタケと大王の関係については、イサセリもウメと同じように感じていた。
彼女が言わなければ、イサセリが言っていたかもしれない。
ウメの気持ちが手に取るようにわかり、胸が締め付けられた。
同時に、ワカタケの気持ちをもっと考慮すべきだったという後悔の念が湧き上がってきた。
イサセリとウメの会話を黙って聞いていたタマルが、突然立ち上がった。
そして、よく通る声でみなに告げた。
「吹雪が止んだらワカタケを捜索する。それまでは誰一人、洞窟を出ることは許さん」
犬たちが吠えた。
イヌカイ族の人々は深く頷き、一斉に巣ごもりの支度を開始する。
タマルは、イサセリとウメを見下ろして「いいな」と念を押した。
吹雪が止んだのは、それから二日後のことだった。
ワカタケがいなくなってから三日目の朝、タマルはようやく外出を許可した。
外には分厚い雪の層ができていた。
木鋤で雪かきをする。
木鋤は櫂の形に似ていた。
船上での潮の匂いが鼻の奥に蘇った気がして、イサセリは一度固く目を瞑った。
里に降り、里長にワカタケが来なかったか尋ねた。
「誰も来ていません。あ、ただ、もしかするとあれは、彼のしわざでしょうか」
「あれとは?」
イサセリは詰め寄った。
「二日前、いや三日前か。里人の雪沓とかんじきが一組盗まれたのです。
また山賊のしわざかと思いましたが、以前、里に侵入した者は捕らえたままですし、他の山賊だとしたら、食料などを盗んでいないのが不思議だと思っていたのですが」
食料はイヌカイ族の貯蔵庫のものが減っていた。
藁製の沓など里にしかなかった物だけ持っていったのだろう。
「申し訳ありません。新しいものを作り直してお返しします」
「ああ、まあ、持ち主も予備の方だったって言っているから。新しく作っていただけるならその方がいいですけどね」
イサセリは雪沓とかんじきの持ち主に謝罪した後、里を出た。
胸の中で希望と不安が入り混じっている。
ワカタケの足取りが掴めたことは良かったが、彼が一人で雪山を歩いている姿を想像すると、落ち着かなくなった。
「イサセリ!」
山に入ったところで、前方からタケルと相棒のツァーマが駆けてきた。
「いたか?」
「いや、さすがにまだ探し中。でも匂いは少しだけ辿れた。大木のうろとか小さな洞窟に身を隠して吹雪を凌いだみてえだ。里の方はなんか手がかりあったか」
「雪沓とかんじきを持っていったらしい」
「ちゃっかりしてんな。なんか俺、あいつなら大丈夫なんじゃないかって気がしてきたぞ」
「私もだ」
ワカタケはしっかりしている。
もともと、雪山と隣り合わせのムキで暮らしてきたのだ。
行軍で雪道を進むこともあっただろう。
秋に主張していたとおり、あの時出発してもムキに辿り着けたのかもしれない。
ワカタケだけならば。
「私の都合に合わせて、つらい思いをさせてしまった」
イサセリは肩を落とした。
ツァーマが茶色い体を足に押し付けてくる。
犬は人の感情に敏感だ。
「でもよ」
タケルはイサセリの胸に拳を押し当てた。
「こんな仲間がいるのに一人で行くことないよな。な、ツァーマ」
ツァーマは返事をするように一回吠えた。
洞窟に戻ったイサセリたちは、これからのことを話し合った。
タマルが言う。
「少なくとも、今すぐ命の危険に晒される心配はないだろう。やはり、イサセリたちは春までここにいるべきだ」
「それではワカタケの足取りが掴めなくなります」
イサセリは、タマルの眉骨の影の中で鋭く光る目を睨んだ。
まっすぐムキに行っていればいいが、途中で大王の居場所を知ったら、他のところへ行ってしまうかもしれない。
しかし、タマルは頑なにイサセリたちが旅立つことを許さなかった。
硬直した場を動かしたのは、編布作りに勤しんでいたトメタマの言葉だった。
「俺が探しとくよ」
「おまえがぁ?」
タケルは素っ頓狂な声を上げた。
イサセリとウメは顔を見合わせる。
まさか彼がそんな提案をするとは思ってもみなかった。
「おまえ、ワカタケが嫌いって言ってたじゃん」
「あの人は嫌いだけど、ウメさんが悲しむし。一応、イサセリさんも嫌いじゃないし」
トメタマは手を動かしたまま続けた。
「もともと、冬の間ずっとここにいるつもりはなかったから」
ウメが心配そうに問いかける。
「そうなのですか?」
「うん。冬は資源が不足するだろ。そういう時こそ商人の出番なんだ。新しい交易ルートを開拓する良い機会でもあるしね」
「ワカタケの後を追うってのは、一人で大丈夫なのか」
タケルが問うと、トメタマは顔をあげた。
「俺はトトリだよ。鳥より人を探す方が、ずっと簡単に決まってるでしょ」
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