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ミーアの「愛」

 私は予想外のアーシュの泣き顔に狼狽したが、ミーアはただ呆れたような笑みを深めるばかりだった。……きっと、こんなアーシュの姿は幼馴染であるミーアにとっては見慣れた姿であるのだろう。


「ミーア……俺の……俺のこと……覚えていて、くれるの?……忘れないでいて、くれるの?」


「だから覚えていたいといっているじゃない。そもそも、それをお願いしているのは私の方で、あんたがそんなことを言うのはおかしいでしょう」


「だって……だって……」


 アーシュはしゃくりあげながら、震える声で言った。


「だって……ミーアはきっと……俺のことなんて、忘れたいんだって……そう思っていた」


「……なんで、そんなこと思うのよ。私があんたのこと、忘れたいわけないじゃない」


 ミーアは再び大きく溜息を吐くと、棘がある口調とは裏腹の優しい手つきでアーシュの涙を拭った。


「だって……だって俺、自分で言うのもあれだけど……最低、でしょ?……ミーアにもミーアのご両親にも散々世話になっておきながら……俺の為に、ミーアとの婚約まで打診してもらいながら……勝手に他の女の人に恋をして、全部捨てて行くんだよ……こんな最低な男……忘れた方がいいかと……忘れた方が、ミーアは楽になるかと……そう、思ってた……」


「……あのねぇ。アーシュ。あんたへの婚約の打診はお父様とお母様が勝手に決めて、やったことよ。勿論一人ぼっちで苦しんでいるあんたへの愛情もあったかもしれないけど、そこに貴族的な打算が全くなかったわけじゃない。セドウィグ家と姻戚関係になることは、私の家にも大きな利益があることだし、あんたは水の愛し子だしね。あんたには、あんた自身が思っている以上に市場価値があるのよ。全くの無価値な存在だったら、お父様は流石に結婚なんて許さないわ。私だって同じ政略結婚なら、いくつ年上か分からない変な男より、あんたが相手の方がまだいいかと思って婚約を了承しだけで、けして自分で望んだことじゃない。……あんたがそんなに気にするようなことなんて何もないのよ」


「だけど……だけど俺は、ミーアに対しては……ミーア個人に対しては特別な価値なんて、なかったでしょう?……覚えていてもらう価値なんて、さ……」


「……なんで今の流れでそんな卑屈な発想になるのよ? あんた私の話ちゃんと聞いてた? そもそも価値があるとかないとか、そんなことを考えて幼馴染なんてやってないわ。私はただ、あんたと過ごすのが楽しかったから、あんたといた。それだけよ。………それだけで、私にとっては何よりも価値があることだったの。それだけで、あんたを覚えていたいと思うには十分過ぎる理由になるのよ」


 ミーアの言葉に、アーシュは涙で濡れた顔をくしゃくしゃにした。


「……ミーア……俺も、ね……俺もミーアと過ごした日々が、宝物なんだよ……ミーアは俺の大事な幼馴染で……大切な人だから」


「知っているわよ……そしてそのうえであんたは、ウンディーネを選ぶんでしょう? 私よりも、ウンディーネの隣で生きたいと思うんでしょう?」


「うん……ごめ……ミーア」


「謝ることじゃないわ……それがあんたの選んだ道なんだから」


 アーシュは鼻をすすりあげながら手の甲で溢れ出る涙を拭った。だけど次から次へと溢れ出る涙は、とてもそれだけでは拭いきれずに、アーシュの服を濡していく。


「ミーア……俺さ、ディアンヌを選んだら、全部捨てないといけないと思ってた。……人間であることも、人間でいる時に作った絆も、過去の記憶でさえ、全部捨ててディアンヌ一人を選ばないといけないと思ってた……愛しているなら、それくらいするべきだって、さ」


「うん……」


「だけど……本当は俺は捨てたくないんだ……これからの人間としての生は捨てられる……さして深い交流がなかった人達から忘れ去られても、俺を愛していない家族の記憶から消えても構わない……だけどミーア。俺はね。ミーアから忘れ去られることだけは、嫌だった……ミーアと過ごした大切な思い出を捨てるのは、嫌だった……それがミーアにとって一番良いことだと、俺がそんなこと望むのは身勝手なことだと思っていても……だから俺を忘れて行くミーアが直視できないで、今日までずっと逃げていたんだ……」


 母親を早くに亡くし、愛がない冷たい家庭の中で育ったアーシュ。そんな彼にとって、家族のように優しくしてくれたミーアはやっぱり特別な存在だったのだろう。それは異性に向けるような愛ではなかったとしても……それでもアーシュはアーシュなりに、ミーアを想っていたんだ。

 そんな相手に忘れ去られるのは、例え自業自得だと分かっていたとしても、きっととても辛い。

 だけどそれはすべてを捨ててディアンヌと共にいることを選んだアーシュが口にするのは、やっぱり勝手な願いで。アーシュ自身それが分かっていたからこそ、今の今まで言えなかったのだろう。


「……ねえ、ミーア。俺は、無理に選ばなくてもいいの? ……ミーアに俺を覚えて貰っていても、いいの? ミーアと過ごした過去を捨てなくてもいいの?」


「……それは私でなくて、あんたの愛しい人が決めることでしょう。だから、今から二人で湖に頼みに行くわよ」


「そうじゃなくて……今はディアンヌのことじゃなくて、ミーアの気持ちが知りたいんだ……」


 そう言って、アーシュは縋るように、小柄なミーアの体を抱きしめ返した。


「……ミーア。俺を許してくれる?……ミーアよりも別の人を選んだ俺を……そして、その癖ミーアが俺の記憶を望んでくれることを、喜んでしまう最低な俺を、許してくれるの……?」


「だから謝ることじゃないと、何度私に言わせれば理解するのよ。本当仕方ないわね、あんたって人は……。そんな情けない姿、好きな人には見せるんじゃないわよ。人であることをやめて好きな人の元に行ったのに、幻滅されましたじゃ笑い話にもならないわ。……アーシュ。許すも何も、私が許すようなことは何一つないでしょう? ……私があんたに好きな人が出来たと最初に聞いた時、言った言葉を忘れたの?」


 ミーアは泣いている子どもをあやすように、アーシュの背中をぽんぽんとはたきながら目を細めた。


「『あんたが幸せだったら、それでいい』って、そう言ったのよ。……その気持ちは今でも変わりないわ。あんたを憎む気持ちなんて、これっぽっちもないの。……だからアーシュ。あんたは自分と愛する人の幸せだけ考えてなさい。私はあんたの思い出さえあればそれで良いから、私のことなんて変に気にしないで幸せになりなさい。私も絶対あんたよりも幸せになって、湖まで報告に行くから」




 それだけ聞いて、私は音を立てないように気をつけながら教室を後にした。

 もう、アーシュには私の付き添いは必要ないだろう。……幼馴染二人にしてあげよう。まだまだきっと話足りないことはたくさんある筈だから。


 廊下を歩きながら、ミーアのことを考えた。


 アーシュが幸せであれば、思い出さえあれば良いと言ったミーア。


 正直私には、ミーアの言葉が本心からのもので、ミーアが本当にアーシュを家族のようにしか思っていなかったのか、それとも本当は異性としても好きだったのかは分からない。


 ───だけどそれがどんな種類のものであれ、あの二人の間には、確かに「愛」があったのだと思う。




 翌日。

 アーシュ・セドウィグという人間は、人々の記憶から消え去った。


 学園の誰もがもう、アーシュという人間が存在していたことすら、忘れてしまった。

 アーシュの生きた軌跡は、何かに取って代わられるようにして消えてしまった。


 人一人が消えても、さもそれが何も変わっていないかのように、世界は昨日の続きを紡いで動き出す。


 ……胸にぽっかり空白ができたような喪失感を抱いたままの、ごく一部の例外を除いては。


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