ミーアとアーシュ
放課後、わざわざ教室まで迎えに来たアーシュと共に、ミーアとの待ち合わせ場所の空き教室へと向かった。
……ミーアと同じクラスなんだから、一緒に行けばいいものを……そんなにミーアと二人きりになる勇気がないのか。君は。
「……レイ様」
先に部屋で待っていたミーアは、私の姿を見るなり、申し訳なさそうに眉を下げて唇を噛みながら頭を下げた。
「私とアーシュのことで迷惑ばかりお掛けして、本当申し訳ありませんでした……そのうえで、最後の話合いまで付き添って貰うなんて……本当、なんてお詫びをすればいいのか……」
「いいんだよ。ミーア。私が好きでしていることなんだから……ほら、アーシュ」
首を横に振りながら、私の後ろに隠れるようにして、いたたまれない様子で指遊びをしていたアーシュを肘で突く。
……女の子ならともかく、私よりでかい男にそんな風にもじもじされても可愛くないし、私は庇いきれないぞ。
アーシュは少し躊躇った後、ようやく覚悟を決めたのか拳を握って頷くと、一歩私の前に踏み出した。
「ミーア……その、心配掛けてごめんね」
「……本当にね。話を聞こうとしても、いつも言い訳作って逃げるし。……それで? 今回こそは全部話してくれるんでしょうね」
「うん……話すよ。……全部は言えない所もあるけれど」
「……そこは嘘でも全部と言っておきなさいよ」
ミーアは呆れたように肩を竦めたが、それでもアーシュが言いたくないことまでは突っ込む気はないようだ。
そんなミーアの態度に背中を押されるように、アーシュはおずおずと喋り出した。
幼い頃、偶然見かけた水の精霊ウンディーネに恋をしたこと。
ウンディーネと一緒になる為には、自分が人間を捨てるしか術がないこと。
迷った末に……アーシュは人間をやめて、水の眷属になる道を選んだこと。
兄の死やウンディーネの宿命までは、ディアンヌのことを気遣ってか流石に言えなかったようだけど、それでもアーシュは伝えられることは精一杯全部伝えていた。
「――それでね……俺は明日から、人間じゃなくなって、多分ミーアの記憶からも消えてしまうんだ……だから、今日はお別れを言いに来た」
歯切れが悪く告げられた言葉に、それまで黙って聞アーシュの話をいていたミーアは、眉間にくっきり皺を刻みながらアーシュを睨みつけた。
「――馬鹿!! 何でそんな大変なこと、もっと早く私に相談しないのよ!!」
「うう……だってミーア。俺が人間じゃなくなるなんて言ったら、きっと反対したでしょ」
「それは反対したわよ!! 精霊を好きになって、人間をやめるなんて、反対するに決まっているじゃないの!!」
おさげを逆立てて怒るミーアに、アーシュはしゅんと体を縮めて俯いた。
……身長はアーシュの方がずっと大きい筈なのに、何だか完全に逆転して見えるな。
ミーアはそんなアーシュを暫く睨み付けていたが、やがて大きく溜息を吐くと、苦笑を浮かべた。
「……まあ、いくら私が反対した所で、あんたが考えを曲げるとは思えないけれどね。あんたは昔から変な所で頑固なんだから」
「……ミーア」
「分かってるわよ。私の意見なんて、意味がないって。それでも反対くらいさせなさいよ……私はあんたの幼馴染で……家族だと思っているんだから」
そう言ってミーアは、アーシュの体を抱きしめた。
まるで母親が子供を慈しむような、そんな優しい抱擁だった。
「馬鹿アーシュ。……ねぇ。私はどうしても、あんたのことを忘れないといけないの? 今忘れている思い出を、取り戻すことは出来ないの?」
「だけど俺はミーア……明日になれば、人間じゃ……」
「そんなこと、どうでもいいのよ。あんたが人間じゃなくなろうが、何になろうが、アーシュはアーシュでしょう。私の大切な幼馴染で……大切な弟分よ。今までと何も変わりはないわ」
「え……俺が、お兄ちゃんじゃなくて?」
「幼馴染と一対一で向き合うのも怖がるような情けない兄なんて、いらないわ。あんたなんて弟扱いで十分よ」
軽口を叩きながらくすくすと喉を鳴らして笑うミーアの目は、それでもどうしても堪えきれない涙で潤んでいた。
「あんたがウンディーネと一緒になりたいから、人間を止めるっていうこと自体は、もう止めないわ。止めても無駄だとは分かりきっているもの……だけど、私にアーシュ・セドウィグという人間を、そして彼と過ごした日々を、忘れさせないで。……覚えていたいのよ。私にとっては大切な、かけがえがない記憶だから。……それに私くらいは、人間だった頃のあんたを覚えていないと、それも淋しいでしょう? 例え望んだことであったても、誰からも忘れ去られるのはきっと淋しいわ」
「ミーア……」
「駄目かしら? あんたの愛しい人は、愛した人の記憶が他の人間に残っていることすら許せないの?」
「そんなことはないと思うけど……」
そんなことはないだろうと、私も思う。
だってディアンヌは愛した人を、大切だった人を忘れる恐怖を知っているから。
記憶だけでいいと言うミーアに、自分と同じ痛みを味わわせようとは思わないだろう。
「……そうだ。アーシュ。良い考えがあるわ。これから私を、ウンディーネが住む湖に連れて行ってよ。私は精霊の姿は見えないけれど、それでもきっと一方的に声を届けることはできるでしょう? ウンディーネに私の記憶を残してくれるようにお願いしに行くわ。……そのついでに、ちゃんとあんたのこともよろしくって言っておかなきゃ。私にそんなこと言われるのは、あんたの愛しい人にとってあんまり気分が良くないのかもしれないけれど、人の大切な幼馴染を記憶ごと奪って行こうとしているんだから、それくらい許されるでしょ?」
「……え……でも……」
「なによ、アーシュ。……もしかして私があんたの愛しい人を害すような真似をするとでも疑っているの?」
「……そんなことない!! ミーアはそんなことしないって知っているよ!!」
「ならいいけど……それに挨拶だけでなくて、私はあんたが住むことになる湖をちゃんと知っておきたいのよ。……そこは、私にとって人間だったあんたの、墓標になるんだから」
ミーアは口元の微笑を浮かべたまま手を伸ばして、優しくアーシュの藍色の髪を撫でた。
「……長期休暇とか時間を見つけて、私は一人であんた達が住む湖に足を運ぶわ。多分あんたの愛しい人は良い気分をしないだろうから、あんたは無理に私の前に無理に姿を現せなくてもいいわ。ただ一方的に話す、私の近況報告を聞いてなさい。……ああ、でも少しくらいサービスして、風がなくても水面を揺らすくらいはしなさいよ。あんたが湖の中で幸福に暮らしている証にさ」
「…………」
「その季節が初夏だったら、私はあんたが好きなチエニーの実で作ったパイを焼いて持っていくわ。水の中ではパイなんて手に入らないだろうから、たまには人間の食べ物を口にするのだって悪くないでしょう? あんたの愛しい人と分け合って食べなさい。そうやって人間だった頃を懐かしむイベントが年に一回くらいあってもいいでしょ」
「……ミーア」
「勿論私が結婚して家庭を持ったら、そうそう湖に足を運ぶこともできなくなるでしょうけど……それでもウンディーネが許してくれるならば、私は死ぬまであんたのことを忘れないわ。他のみんなが忘れても、あんたが生きた痕跡が何も残ってなくても、私だけはちゃんとあんたのことを覚えてる。私の心の中で、人間だった頃のあんたはちゃんと生き続けるのよ。私が死ぬまではずっと……それなら、あんたも淋しくないでしょう」
アーシュはミーアの言葉に、何の反応も返すこともないまま黙り込んでいた。
怪訝に思って、アーシュの顔に視線をやって、思わずぎょっとした。
アーシュは、泣いていた。その灰色の瞳からぼろぼろと大粒の涙を流して。
だらだらと鼻水すら垂らした、とても美しいとは言い難い、子どものような素直でみっともない顔で、ただ嗚咽に耐えていた。




