彼が奪われた物
忘れる?
忘れる筈がない。こんなにも、胸が高鳴っているのに。
理想の王子様と出会えて、理想のロマンスを体験して、どうして忘れることが出来るの?
そう思ったのだけれど、それを口にするには、王子様の声があまりに掠れて震えていて。
私を見つめる瞳が、今にも泣きだしそうに潤んでいて。
なんで、貴方は今、そんな顔をしているの?
貴方は、今、私を見ているの?それとも私を通して、別の誰かを見ているの?
分からない。分からないけれど、ただ――胸が、苦しい。
やめて。そんな顔を、しないで。
そんな顔で、私を見つめないで。
貴方には、そんな表情、似合わない。
貴方に似合うのは、笑顔よ。……ちょっと人を馬鹿にしたように口端を吊り上げた、ちょっとだけ腹が立つ、そんな笑顔。
……あれ、おかしいわね。何で私は今、そんなことを思ったのかしら。王子様なら、似合うのは、もっと優しい笑顔な筈なのに。
慈しむような、女の子の全てを包み込む様な、柔らかい笑顔な筈なのに。
……ああ、でも、この人にはきっと、そんな笑顔似合わないわ。
ガラス細工のように、女の子を大切にする態度も、きっと似合わない。
王子様だけど、外見以外はきっと王子様らしくない気がするもの。
おかしいわ。おかしいわね。……私は、ずっと、そんな王子様を求めていた筈なのに。
そんな王子様を、幼い頃からずっと求めていた筈なのに。
『頼む……頼むから……忘れるな……お願いだから……俺を……俺を、忘れるな……!! ――俺は、お前には……お前にだけは、忘れられたくないんだ……!!……レイリア!!』
王子様の顔が、一層泣きそうに歪み、一層私の胸はきゅうきゅうに締め付けられた。
おかしいわ。おかしいわね。――だけど、おかしくても、いいわ。
彼が私の、理想通りの王子様でなくても、いいわ。
理想通りの王子様でなくてもいいから……そんな顔を、しないで。
そんな悲しそうな顔で、私のことを見つめないで。
王子様の頬を、そっと両手で包み込む。
王子様は、ちょっと驚いた顔をしたけれど、それでも私の手を振り払いはしなかった。
王子様。王子様。
私は……
私は、貴方の……
君の……
君の、そんな顔……
『――君に悲しそうな顔は似合わないよ。アルファンス。お願いだから、いつものように笑ってくれ』
私は君のそんな顔は、見たくないんだ。
『レイリア……?』
『……うん? あれ……何で、私は君に抱き締められているんだい?……いや、婚約者として、別にこれくらいの距離間普通なのかもしれないけれど、その……なんていうか、君が私に熱い抱擁をしてくれると思ってなかったから、その、ちょっと恥ずかしいんだけど』
『レイリア……お前、思い出したのか……』
『……思い出すって何が?……あれ、私、久しぶりにドレスを着ているね。今日って特別な式典か何かだったかな……おや、これは、ウィッグかい? それ程重要な式典があったなら忘れる筈ないんだと思うけど……』
『レイリア!!』
……何故か、感極まったような声を上げたアルファンスに一層強く抱きしめられた。
な、何が起こっているんだ?
正直、全く状況が分からないんだけどな……。
というか、アルファンスから顔を押し付けられた肩口が、なんだか濡れている気がするんだけど……もしかして、アルファンス、泣いている?
だとしたら、何で?
……状況が、全く分からない。分からないけれど。
『…………』
泣いているの? なんて聞いたところでこの素直じゃない王子様が、肯定なんてするわけがないから、取りあえずその背中に手を回して、アルファンスが落ち着くまで撫でることにした。
背中を撫でていたら急に視界が滲んで、ほろりと目から何かが零れ落ちた。
――なんで私まで、アルファンスに吊られて泣いているんだろう。
分からないけれど、勝手に涙が零れ落ちて止まらなくて。
そのまま暫く、すっかり隣にいることを忘れていたお父様が口を挟むまで、お互いに涙を流しながら抱きしめあっていたのだった。
「――これは、実際にあったことなのか……?」
目が醒めると、泣いていた。
私は、頬を濡らす涙を手の甲で拭いながら、夢で見た記憶を反芻した。
「だとしたらなんで、今頃、こんな記憶思い出すんだろう……」
夢に見たあの記憶はきっと、アルファンスが精霊憑きにあった時の記憶だ。
……精霊による記憶操作が解けた後の記憶でさえも、今までずっと忘れていた……否、きっと忘れさせられていた、昔の記憶。
どうして、今頃、こんな記憶を思い出すのだろう。
どうして、大精霊は今になって、この記憶を思い出すことを許したのだろう。
分からない。分からないけれど、溢れ出る涙が止まらない。
夢の中で聞いた、アルファンスの声があまりに切なくて。
アルファンスが私に向けた言葉が、あまりに苦しくて。
――アルファンス、ごめん。……私は、何にも分かっていなかったんだね。
昨日も、君が精霊憑きに遭った時も……そして、もしかしたらそれ以上に何度も、君を傷つけてきたんだね。
そう思うと涙が止まらなくて。
私はベッドの上で、両手で顔を覆いながら、暫くの間そのまま泣き続けた。
泣き腫らした顔で、教室に向かうと、まだ始業時間には随分早いのに、既にアルファンスは一人で教室の中にいた。
「……おはよう。アルファンス」
「……ああ。おはよう」
私は視線を合わせないまま、顔を逸らしたアルファンスの隣の席にいったん腰を降ろした。
……もうしばらくこの席の持ち主は登校しない筈だから、暫く席を貸して貰おう。
改めて見ると、アルファンスの目は少し充血していた。もしかしたら、昨日のことのせいであまり眠れなかったかのかもしれない。
「昨日は、ごめんね。アルファンス。……君は私を助けに来てくれた筈なのに、あんな風に君を責め立てるようなことを言って」
「…………」
「あの言葉は、八つ当たりというか……ううん、違うな。あれは私の価値観の押し付けだったよ。あくまであれは、私が感じた意見であって、君に同じ考えを強制するべきものではなかったよ。君には君の事情があって、だからこそ、考えることもあるのだろうから」
あの言葉が全て間違っていたとは言わない。……私は一晩経ってもなお、ディアンヌを一方的に責め立てる気にはなれないし、高位精霊全てを嫌いにはなれなかった。
けれども、それはあくまで私個人の意見であって、アルファンスに同じ考えを押し付ける権利なんてなかったのだ。一晩経って冷静になって、ようやくそのことに気が付けた。
私とアルファンスは別の人間だから、体験して来たことも感じたことも違うのだから、考えが違っても仕方ないのだ。……感情的になっていたあの時の私には、そんな当たり前のことに気がつけなかったのだけど。
アルファンスは私の言葉に、暫く黙り込んだ後、視線を合わせないままに気まずげな口調で口を開いた。
「――そもそも、最初に高位精霊に関する自分の考えを押し付けようとしたのは俺の方だ」
「…………」
「だから……謝るべきなのは、きっと俺の方だ。……悪かった。レイリア。……お前がウンディーネに同情を抱いてしまうことなんて、よくよく考えば分かりきっていたことなのに。昨日の俺は、俺自身の個人的な感情に囚われていた」
そこで、アルファンスは一度言葉を切って、ようやくその視線を私の方に向けた。
「……一晩、冷静になって昨日お前に言われたことを考えていた」
「…………」
「お前が言う通り、俺が炎の大精霊によって与えられているものを甘受していることも事実だ。……だから、俺はその点だけでもちゃんと、大精霊には感謝するべきなんだろうとは思う」
「……アルファンス」
「だけど、俺は……頭ではそれが分かっていても、あいつにそれを素直に感謝することが出来ない……素直に感謝するには、俺があいつに奪われたものは大きくて……人によっては大したものではないと笑うかもしれないが、俺にとってはそれが、あまりに大切過ぎて……どうしたって感謝よりも、憎しみに囚われてしまうんだ」




