第8話 目白で阿鼻叫喚
車は事故に遭うことも、道に迷うこともなく、順調に模試の会場となる大学へ向かって走っていた。
途中、車内でひと騒動あった。
母のスマホから着信音に設定されているショパンの『バラード第一番』が車内に流れた。
着信音をBGMに僕は窓の外をぼんやりと眺めていた。
最初は社長然として対応していた母の様子が、途中からおかしくなった。
必死で取り繕ってはいるが、僕にはわかる。
その証拠に母の声が僅かに上ずっている。
なんだ?
「ええ、それでは」
スマホを切った途端に歓声を上げた。
「きゃーっっ!!」
小山さんはその声に驚いたのか、ハンドルを切り損ね、車体が小さく左右にぶれた。
落ち着け、母、
僕たちを殺す気か?
「柚樹、あたしはあんたを産んで今日ほど良かったと思ったことはないわ」
いままでは思っていなかったのか?
半眼状態で母を見た。
小山さんが遠慮気味に声をかけていた。
「社長、なにかあったんですか?」
「よくぞ聞いてくれたわ。あの公共放送から夏樹に出演依頼が来たのよ。しかも、教育放送枠でのレギュラーでよ。アイドルが教育枠でレギュラーを取るなんて信じられないわ」
「やりましたね、社長」
「ええ。どんどん新境地を開拓してるわ。これでわが社も安泰よ〜」
いまにも祝杯をあげそうだな。
こっちは毒杯を煽りたいくらいなのに。
「ということで、柚樹」
「ということで」とは、どういうことだ。
主語や目的をはっきりさせてもらわないとわからないではないか。
「三割から五割に正解率を上げてね」
「正解率を五割だと?」
受験生で五割って正気か?
第一志望は間違いなく落ちるだろう。
遺憾ながら夏樹として受ける羽目になったが、僕は精励恪勤の精神で、持てる力のすべてを注ぎ、わき目も振らず挑むつもりだぞ。
「そう。教育放送で決まったレギュラーが、英語の長文解説番組なのよ。三割だとマズいわ。できる、五割?」
誰に言っているんだ。
百番以内を狙うなら最低でも九割以上はないと駄目だということを知らないのか、母よ。
バックミラーで僕の表情を見ていた小山さんが、釘を刺すように
「柚樹君、五割だよ、それ以上だと後が大変になるからね」
確かに。
いかに選択の女王夏樹とはいえ、五割以上は厳しいだろう。
長文は読んで訳してなんぼの世界だ。
受験生用の長文解説番組に選択形式はない。
「あっ、柚樹、花澤誠って知ってる?」
花澤誠だと?
知らいでかいっ!
有名進学塾で、受験英語を教えたら花澤講師の右に出る者はいないと言われる講師だぞ。
いまからでも受講できるなら受講したいくらいだ。
……まさか。
「夏樹と相性、合いそう?」
……。
sightseeingをサイトウシングテンと覚えて発音したあいつと?
無理だ。
花澤講師が壊れる。
「水と油、氷と炭だ」
「合わないのね」
「カンで長文は攻略不可能だ」
「探し出したら徹底的に勉強させるわ……いいえ、こっそりインカム付けさせて、答えを囁いた方がいい……その方が確実だわ」
諦めたな。
けど、花澤講師から手ほどきを受けられるのか……。
くっ。羨まし過ぎる。
そんな一幕があったが、幸いにも車は事故を起こすことなく、無事に目白の受験会場に着いた。
車を降りるとき、運転席から小山さんが振り返り、再度、念を押してきた。
「五割、五割だからね、柚樹君」
善処します。
母と受験会場に向かう。
コンクリートでできた六階建ての古い学舎は周囲を樹木に囲まれていた。
そのせいで低い階は日光が遮られ、廊下はひんやりとしていた。
休日の薄暗いリノリウムの廊下は人気が無く、物音ひとつしない。
「ねぇ、なんか不気味じゃない?ホラー映画に出てきそうよね。あの角からゾンビがってことないかしら?」
母が声を潜めて言った。
静寂に包まれ、受験にもってこいの環境を恐怖映画の舞台にするな。
「母さん、なにを――」
カツン、カツン――。
背後から近づく靴音。
僕の言葉が止まった。
母が僕の腕を握り締めた。
ゴクリ。
なんだ……?
カツン、カツン、カツン。
さらに近づいてくる足音……。
「社長」
「「ぎゃぁっっ」」
母と二人して飛び上がった。
見ると、万が一のときの着替えが入ったバッグを手に持った小山さんが、目を見開いていた。
「脅かさないでよ、小山君」
「すみません」
まったくだ。
デリケートな受験生を脅かさないで欲しい。
僕たち三人は指定された教室へと向かった。
木製のドアを開けると、机が黒板の方を向いて並べられていた。
窓から射しこむ一筋の光の中に埃が舞っている。
すでに試験監督官として派遣されている初老の男性が教卓横の椅子に座っていた。
教卓の上には茶封筒が置かれていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶をして、受験番号が印刷された白いシールが貼られている机に向かった。
本来の番号と違うシールを指で一撫でした。
往生際が悪いなと我ながら思う。
だが、積み上げてきた時間が長い分、人間、そうそう切り替えられるわけはない。
誰にも分からないように小さなため息を一つ吐いて、椅子に座った。
受験票を右端に置いた。
緊急事態に備えて、母と小山さんはごり押しに近い形で教室の後方に控える許可を得ていた。
転ばぬ先の杖。
とはいうものの、二人がいたところで、試験中に薬の効果が切れたらどうしようもないが。
まぁ、精神的には助かる。
一科目目開始五分前。
試験監督官の手によって問題用紙と解答シートが配られた。
『第一回全国共通模試 英語』と記載された問題用紙の表紙を見て、花澤講師の顔が浮かんだ。
人気があり過ぎて受講することが困難な講師の科目を五割の正解率でいいのか?
失礼過ぎるだろう。
受験科目は五科目ある。
英語一科目くらい本気を出しても残りの科目で挽回はできるはずだ。
五割を四割あるかないかにすればいいだけだ。
よし。
全力で解く。
解答シートに春野夏樹と記入し、受験番号の該当欄を塗り潰すと僕は本気を出した。
「そこまで」
試験監督官の声で僕はシャーペンを置いた。
ふうっ、やり遂げた……
第三問目はもう一度見直したかったな。
休憩時間を挟んで二科目目が始まった。
二科目目、数学。
正解率を四割……。
いいのか、柚樹。
花澤講師の科目を全力で解いて、個人教授を受けた神、赤井様の科目に手を抜く……。
そんな人として道に外れたことは、神に対して失礼千万。
許されないことだ。
残り三科目で調整すればいい。
正解率は……
暗算して愕然となる。
二割ないだと!?
いや、いま僕は夏樹だ。
二割なくて上等だ。
ああ、この問題、数字は違えど教えていただいたものじゃないか。
解かねば。
解答シートが気持ちいいほど埋まっていく。
勝った。
三科目目、国語。
第一問目の漢文で四面楚歌を目にした瞬間、項羽の心情が僕のそれと重なった。
『力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝――』
私の力は山を引き抜き、気は世を圧倒するほどだった。だが、時が私に味方せず、愛馬の騅も進もうとしない。
わかる。
わかるぞ、項羽。
僕だってこの模試のために努力してきたんだ。
なのに、あいつは僕に丸投げして消えるわ、僕は変な薬を飲むわ、挙句に、今朝、出がけになってあいつの姿になっているとか。
『時不利兮』
まったく、その通り。
時が悪すぎる。
こんな問題が出題されたのは、僕に実力を出せという天啓かもしれない。
残りの二科目で調整だ。
将来、公務員になった時の年度末予算調整の練習と思えばいい。
四科目目、社会。
マグナ・カルタ……あいつ、カーネル・サンダースと書いてたな。
思い出した……。
有名な桃園の契りもブロマンスからの三角関係とかふざけたことを書いていたな。
兄として、申し訳ない。
きちんと解答しよう。
四科目目が終わり、僕は気分転換にお手洗いに立った。
あと一科目。気を引き締めるために水で顔を洗った。
水の冷たさ故か、ぶるりと震える。
ハンカチで顔を拭き、鏡を見た。
……
「!!」
そこには僕がいた。




