第9話 善処した結果……
「夏樹ちゃん、もうすぐ始まるよ。どこにいるのかな」
廊下に響く小山さんの声。
開始時間が迫っても教室に戻って来ない僕を心配して、探しに来たんだな。
助かった。
「こっち、こっち」
男子トイレの入り口から手だけを出して合図をする。
「こんなところに……」
僕の姿を見た小山さんが言葉に詰まった。
シャツはもともと僕が着ていた物なので問題はないが、デニムのショートパンツとスニーカーはサイズが小さく、身体に合っていない。
スニーカーは踵を潰せばなんとかなるが、デニムのショートパンツだけは如何ともしがたい。
ボタンを外し、チャックを全開しているがパツパツだ。
小山さんは慌てて、僕を個室に押し込んだ。
「いいかい、ここにいるんだ。絶対に出ては駄目だよ」
一発で職質されるこの姿で外に出る勇気は僕にはない。
「はぁっ……まったく、君たちに僕は振り回されっぱなしだよ……」
すみません。
小山さんは踵を返して、トイレを出ていった。
暫くして、小山さんが着替えの入ったバッグを片手に戻ってきた。
受け取り、ごそごそと着替える。
くっ。
脱げない。
こんなところで、男子高校生と女子高生の体格差を実感するとは。
窮屈だったデニムのショートパンツを脱ぎ、自分のチノパンに脚を通したとき、下半身の血流が改善されたのを感じた。
バッグに夏樹として着ていたものを入れ、スニーカーも履き替えた。
足も喜んでいる。
身体が解放された気分だ。
個室を出ると小山さんはトイレの入り口に立ち、廊下に目を配っていた。
「お待たせしました」
「ああ、着替え終わったんだ。よかった」
「母は?」
「社長は試験官を誤魔化してるよ」
必死だな。
仕方ない。
親孝行だ。
教室に戻るか。
廊下に出て、教室に向かおうとしたところを小山さんに待ったをかけられた。
「どこに行くんだい?出口はこっちだよ」
「えっ?まだ理科が残ってますよね」
「はっ?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする小山さんがいた。
なにを驚くことがあろうか。
模試を最後まで受けるのは当たり前だろうに。
「受ける気?」
「はい」
「いやいや、待とうか、柚樹君。いま、君は柚樹君だよね。夏樹ちゃんじゃない。それでどうやって受ける気なんだい?」
確かに。
だが、手段はある。
「怪しげな人物にはなるけど、マスクすれば何とかいけるかと……」
「理由は?」
「アレルギーが出て、顔の下半分が腫れたということで」
「夏樹ちゃんは健康優良児。アレルギーになったって聞いたことないよ」
ちっ。あいつ頭に行く栄養分が無駄に身体にいったな。
「第一、身長が違うよ」
こればかりは縮めることができない。
背を丸めても限界がある。
十センチの差が恨めしい。
「受けないとマズくないですか?」
「……それなんだよね。社長とも話しはしていたんだけど……ところで、手応えはどう?」
「楽勝ですね」
「そっか。よかった。あの番組の二の舞いになるかと心配してたんだ」
「予想採点ですが、英語は九十五、六。数学は満点でしょう。国語と社会も確実に九十点はありますよ」
「い、いや、待って、待って。えっ、自己採点で三百七十五点以上!?」
「そうなりますね」
「ちなみに、理科は何点とれそうなの?」
「傾向によりますが、九十点は取れるかと」
「あははは……」
小山さんが力なく笑ったと思った途端、僕の両腕をガシッと掴まえて、
「五割……あれほど五割って言ったじゃないか、柚樹君」
言ってましたね、そういえば。
覚えています。
しかしながら、僕としても鋭意努力はしました。
だが、諸事情がそれを許さなかったんだから仕方がない。
善処するとはそういうことも含めての意味だ。
「どうするんだい、これから」
簡単だ。
夏樹に猛勉強させれば済むことだ。
『一念岩をも通す』というではないか。
『為せば成る。成らぬは人の為さぬなりけり』と上杉鷹山も言っている。
まぁ、あいつがやればだが。
「もうこうなったら、最後まで受けても大勢に影響があるとは思いません。受けさせてください」
春野柚樹として、受験できないのならば、せめてこのまま夏樹として本懐を遂げたい。
僕は小山さんに真摯に頼んでみた。
小山さんの答えは……。
「人目のないうちに、車まで行こうか」
なぜそうなる。
ここは許可する場面ではないのか?
納得がいかず、眉根をよせていると、
「手遅れ感が凄いけど、九割超えよりまだ七割五分だよ」
諭すように言った。
「それとも、夏樹ちゃんが見つかった後も、柚樹君、君が夏樹ちゃんになって、教育系の仕事はするのかい?それならいいけど」
……。
それはごめん被りたい。
生産性のあるものならまだしも、中学生程度の問題に時間を割かれるなどたまったもんじゃない。
これ以上、勉強時間を強奪されるのは死んでも嫌だ。
頭では名誉ある撤退を選ぶべきだとはわかってはいるが、心情がいまひとつ納得しない。
僕の今日までの努力はなんだったんだろうか。
図書館の閉館時間まで参考書を読み込み、問題集を解いた日々。冬の朝早起きして単語帳をめくったこと。眠気を堪えてノートを纏めた夜。
やるせなさがずっしりと心にのしかかった。
だけど……。
僕は頭を振ると、断腸の思いで出口に向かった。
「人目のないうちに行きます」
「すまない。柚樹君」
心苦しそうな小山さんの声が耳に聞こえた。
教室から遠ざかる。
廊下を歩きながら、隣の小山さんに尋ねた。
「母さんに言って、試験問題を持って帰ってもらうことは可能ですかね?」
「無理だから!!」
ちえっ、ケチだな。




