第5話 この僕に死角は……ない!?
電話の向こうでの母の盛り上がり方から察するに一刻も早く釘を刺しておかないととんでもないことになるのは明白だ。僕は焦りで顔をこわばらせながら家に帰った。
玄関の扉を開けると三和土に母のヒールはなかった。
僕が人生の岐路に立たされているというのに、何を呑気に仕事をしているのかと地団駄を踏みたい。
いや、落ち着け、柚樹。
まだ母が帰ってないのは、天の采配かも知れないぞ。
頭に血が上ったままで話を進めるなど、碌な結果にはならない。それは歴史が証明しているではないか。
いい機会だ。
もう一度、母には僕は夏樹を見つけるまでの代わりであって、夏樹ではない。
従って、受験に差し障りのある事象に関しては断固拒否すると言っておこう。
僕はリビングで単語帳をめくりつつ、母の帰りを待つことにした。だが、いまいち頭に入ってこない。
ならばと、問題集に手を伸ばすが、集中できず、間違ってばかりいた。
イライラがピークに達しようとしていた頃、
「ただいま〜」
母が呑気に帰宅してきた。
ご機嫌なのは口調からしてわかった。
母がリビングに入ってきたところを捕まえる。
「母さん、話がある」
「私もあるのよ、柚樹」
満面の笑みだ。
この笑み……気を引き締めなければ。
ソファに座り、仕切り直した。
「模試は僕の人生だ」
「知ってるわ。それよりも、決まったのよ、柚樹。レギュラーが二本も。しかもまだまだオファーが来てるのよ。よくやったわ、柚樹。さすが私の子よ」
「レギュラーだかイレギュラーだか知らないけど、そんなことよりも模試だよ、模試。僕の人生設計をどう見てるんだよ、母さん」
「『アイドルの学力はどのくらい?』のレギュラーと『夏休み学生クイズ大会』の司会よ、司会!」
「聞けよ、僕の話を!大体、受験を控えた身で、貴重な夏休みにクイズに出てる学生は推薦確定か浪人を覚悟しているかのどっちかに決まってる」
「だからね、模試受けてね」
「言われなくとも受ける」
「良かったわ。嫌だって言われたらどうしようかと思ってたのよ」
「この春野柚樹、百位以内を目指す!」
「えっ、夏樹よ、春野夏樹で受けるのよ、当たり前でしょ」
「なにが当たり前だ。受験票は僕の名前だ」
「えっ、書き換えたら良くない?」
「書き換えられるかっ!」
「ケチ。いいわよ、夏樹の名前で申し込むから」
母が拗ねたように言った。
「残念。個人の申し込み締切は、今日の三時までだよ」
僕は勝ち誇ったように言った。
「ウソっ!?……じゃぁ、模試を受けることは……」
「できません」
「そんな……」
「なにが、そんなだよ。大体、母さんがネットに夏樹が模試を受けるなんてニセ情報を流すからだろ」
母がぽかんとする。
「えっ?私、そんなこと流してないわよ」
「はっ?」
ニセ情報を流してない……。
「何人ものタレントを抱えている事務所の社長なのよ。そりゃ、夏樹のことは正直、気になるけど、夏樹にかかりっきりになるわけにはいかないわ。模試だって、柚樹から日にちを聞かされなきゃ、日程なんか知らないわよ」
そう言われればそうだ。
タレントのスケジュールは把握しても、この母が全国模試の日程を知るはずがない。
一番やりそうな母が白となると、夏樹が模試を受けるって、ネットで流したのは誰なんだろう。
ここは一つ、順路立てて考えるべきだ。
千里の道も一歩から。
まず、僕だ。
僕が模試を受けることは学校の連中なら誰でも知っているし、隠してもない。
それは、僕、春野柚樹が受けることを隠す必要がないからだ。
春野柚樹。
春野夏樹。
名前が一文字違いだから僕と夏樹を間違ったとか?
いや、進学校に通う男子高校生とアイドルの夏樹を間違うか?
間違う方がおかしいだろう。
はっ!?
もしかして、百番以内を争うライバルたちが、僕に精神的揺さぶりをかけ、順位を落とさせることが目的なのか?
ふふふ、馬鹿め。
この僕に死角はない。
待て待て。
話が横道に逸れているぞ。
いま、重要なのは、ネットに夏樹が模試を受けるという噂が何処から流れたかだ。
「まったく、夏樹がいないのに模試を受けるって言うはずないじゃないの。夏樹の居場所知ってるなら教えて欲しいわよ」
母がぷりぷり怒って、キッチンの鍋を覗き込んだ。
まったくだ。
夏樹がいないから僕が夏樹になって――
あっ。
……。
嫌な汗が額に浮かんだ。
思い出した。
夏樹に代わって初めて収録に行った日に、早坂久美子がウザ絡みしてきたんだ。
『ふ〜ん。頭いいんだ。でも、夏樹ちゃん、実力を証明するための全国模試は受けてないよね』
『全国模試?』
『そう、全国模試。たまたま解けただけで、本当は違うのがバレるのが怖いから受けないとか?』
『いや、模試は受けるけど?』
『ウソっ?!』
『すでに申し込み済だし、受験票も受け取り済だ』
思い出して、僕は頭を抱えた。
言った。
確かに言った。
春野柚樹としては嘘を言ってない。
が、あのときの僕は夏樹だった。
周りから見れば、そりゃ、夏樹自身が言ったことになる。
……。
「母さん、わかった……」
ダイニングテーブルでご飯と肉じゃがを食べていた母がじゃがいもを箸で挟んだまま僕を見た。
その態勢で聞くのもどうかと思うが、懺悔は早いほどいい。
「流した犯人は、早坂久美子だ」
箸からじゃがいもがぽろりと落ちた。
「なんですって!」
母の柳眉が跳ね上がった。
「待て、落ち着いて聞いて欲しい。で、そのネタを提供したのは、慚愧に堪えないが、僕だ」
「……柚樹、あんた自分で自分の首を絞めたの?」
「そうなる」
「なんでまた?」
「誠に遺憾ながら、夏樹になっていたことをすっかり忘れてたんだ」
「ならデマでもなくなるわね」
母が天井を仰いだ。
「はあ〜っ、柚樹は頭がいいのに、たまに抜けてるとこがあるの忘れてたわ」
母よ、すまない。
「そうなると、夏樹も模試を受けないとマズいわ。なにせ、本人が言っちゃったんだもの」
「受けないという選択肢は……?」
「馬鹿言わないでよ。イメージダウンになるでしょうが!」
母が沈思黙考タイムに入った。
長年の親子関係だからこそわかる爆弾発言へのカウントダウン。
僕の背筋に嫌な汗が流れた。
「……受験票は一枚、しかも受験者は柚樹の名前」
「そうだな、僕の名前だ」
母が真剣な目で僕を見た。
「柚の一文字を夏に改ざんするしかないわ」
「できるかーっ!」




