第22話 残り一回。原因は水着
あと二回。
カウントダウンなんてものすらもう無意味な状況だ。
無責任なことはしたくない。
だが、物理的に無理だ。
眉間に皺が寄った。
「柚樹〜仕事行くわよ〜」
「なぜ母さんが呼びに来る。小山さんはどうしたんだ?」
「体調不良?で、早退」
早退理由が疑問符でいいのか?
まぁ、昨日は白目を剥いていたしな。胃腸の不調もあるだろうし。
体調不良は事実だな。
仕事かぁ……。
「待て、母さん。今日はオフだったはずだ」
「急遽入ったのよ。辛いわ〜新人アイドルって」
母が笑みを深くして答えてきた。
噓くさい。
「夏樹は新人じゃないだろう」
「あら、知らないの?この業界では新人の範囲なのよ」
「デビューして三年が?」
「そう。ほら、時間がないから支度してちょうだい」
TXーⅠを飲んだ僕は追い立てられるように支度をさせられ、車に押し込められた。
運転席の母が妙にご機嫌なのが気にかかる。
昨日は敦盛を踊ってそのまま辞世の句を詠みそうな雰囲気だったのに。
おかしい……。
それに急な収録で貴重な薬を使うか?
あと二回しかないのに。
「母さん、仕事の内容は?」
「あっ、そうだ! 時間読めないんだけど、柚樹、あんたいつもの勉強道具は持ってきた?」
「?ああ。持ってきてるが……それより」
「単語帳、リビングの机にあったようなんだけど?」
「いや、そんなことは……」
「確かめた方がよくない?」
それもそうか。
家を出る前に確認はしたが、再確認をしてはいけないという法律はない。
もうそんなことはないと思うが、中身が大金になっていたりしたら困る。
あれは、いざというときに役に立たない。
僕はカバンを開けて確認した。
単語帳OK。
問題集OK。
筆箱OK。
緊急時の着替えOK。
よし、完璧だ。
……いや、待て。
母の態度がおかしいので、問い詰めようとしていたんだ。
危うく有耶無耶にされるところだった。
「それと、柚樹、夏樹の件だけど」
「なにか進展があったのか?」
「それがね……」
母が困ったようにため息を吐いた。
なんだ?
なにがあった?
「あのスーパーってどこだか知ってる?」
今ごろか。
今ごろそれを聞くのか?
僕はもう特定されているものとばかり思っていたんだが。
「……知ってる。っていうか、本気で捜索してるのか、母さん」
「やってるわよ。小山君が」
小山さん……。
いや、母よ。
いま一番怪しいのが小山さんなんだが。
そうこうするうちに、車が黒く塗装された鉄製のスクエアゲートをくぐった。
白い漆喰の壁。オレンジ色のテラコッタ瓦の南欧風の洋館。大きなアーチ状の窓が目を引いた。手入れの行き届いた芝生の庭に設けられた駐車スペースに母が車を停めた。
こんなところでなにをするんだ?
ドラマの出演なんて一朝一夕ではできないぞ。
台詞なんて覚えていないからな。
「行くわよ」
母の声に促される形で僕は建物の中に入っていった。
エントランスではスタッフが忙しなく動いていた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
朗らかに母が挨拶をする。
「おはようございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
スタッフが挨拶を返してきた。
僕も挨拶は大事だと頭を下げておく。
「夏樹ちゃんの控え室は突き当たりの部屋になります。目印にハイビスカスの造花をドアに付けてますから、すぐにわかりますよ」
二十代後半の女性が母に説明し、母と僕は建物の奥の控え室に向かった。
テレビ番組の収録機材が見当たらないところをみると、ドラマやトーク番組じゃないみたいだな。
ハイビスカスの造花が付いたドアを開けて中に足を入れた途端、僕は回れ右をして控え室を出て行こうとした。
「敵前逃亡は許さないわよ」
母がドアに張り付いて、両手を広げている。
「ここまで来たんだから、男らしく腹を括りなさい」
「いまは女の子だ。よって、拒否する」
「拒否権はないわ」
「パワハラか? それともセクハラか、母さん」
「そんなこと言ってたら、グラビアアイドルは全員セクハラを受けてることになるわよ」
「正気か? 薬は二回分しかなかったんだぞ。それをこんなくだらないことに使ったのか? 使うなら花澤講師のときにしろよ」
「英語より水着よ」
「意味がわからん。生産性がないものに使いたくなかったよ、僕は」
「需要はこっちのほうが多いわ」
「そこをどけ、母さん」
「いやよ。どうしても帰るというなら……」
母は僕をキッと睨み、
「この母の屍を乗り越えていきなさい」
と悲劇のヒロインのように高らかに宣った。
……。
屍……。
常識が大気圏を飛び出したのか?
頼む、宇宙に飛ぶ前に帰ってきてくれ。
母の思考がわからん。
あまりの突拍子のなさに立っていられず、近くの壁に手を付いた。
「あのな、母さん――」
「だって、もう二回しかなかったのよ」
「わかっているのなら、こんなくだらないことに使わずにだな」
「柚樹はわかってない」
母の声が震えていた。
「了承を取らずに連れてきたことは悪いと思ってる。この仕事だって、先方はずっと待ってくれてたのよ。夏樹は見つからないし、不義理はしたくなかった」
「……」
「柚樹のこんな姿ももう見られなくなる……」
母が言葉を詰まらせた。
「だから、柚樹が女の子になった記念に水着姿で」
「そっちが本命だろう!」
「テヘッ」
脱力感が凄いんだが。
しんみりした空気が一瞬で吹き飛んだ。
精神的疲労感に立っていられず、僕は置かれていた椅子に座った。
先ほどの萎れた姿がなんだったのかと思うほど、母は嬉々として水着が吊り下げられたハンガーラックを引っ張って来た。
「もういい。ただし、条件がある」
「条件?」
「ビキニは却下だ」
「えーっ」
「ラッシュガードかブルキニ、ウェットスーツを希望する」
「アイドルがウェットスーツ着てどうすんのよ」
「露出は避けたい。肌色は極力少なめじゃないとトイレに籠城するぞ」
「……タンキニ……ビスチェ……ワンピース……あたりかなぁ」
残念そうな表情をするな。
僕は最大限譲歩しているんだ。
母も譲歩するべきじゃないのか。
無言の僕に母は渋々一着のタンキニを選んだ。
まぁ、これなら許容範囲か。
不承不承ながら着替え、水着の上から大きめのシャツを羽織った。
撮影スタジオに移動すると、そこには水着を着た久美子がいた。
久美子は僕に気が付くと、駆け寄って来た。
「夏樹ちゃんも撮影なんだ!」
「不本意ながらな」
スタジオにある時計で時間を確認する。
あと五時間か。
薬はあと一回分しかない。
サクッと終わらせるぞ。
「夏樹ちゃん、スタイルいいのにタンキニなんだね。もったいないよ」
「もったいない?」
「うん。あたしはスタイル悪いからワンピース型になっちゃったけど、夏樹ちゃんは痩せてスタイルいいもん」
「あのな、久美子はスタイル悪くない。そのままでもいいと思う」
「夏樹ちゃん……」
久美子の顔が急に赤くなった。
エアコンが効いたスタジオで水着なんて格好をさせられていたから、風邪でも引いて熱が出たのか。
「大丈夫か?」
熱を測るために久美子の額に僕の額をくっつけた。
「なっ、なつ」
久美子が口籠り、固まった。
夏?
なにがいいたいんだ?
はっ、意識が朦朧として言葉が出ないとか。
いや、熱はないみたいだが……。
言葉が出にくい。顔が赤い。身体の硬直。
これは何かの急性症状じゃないだろうか?
まさか、脳卒中の前触れか!
「久美子、大丈夫か?」
「だ、大丈夫だよ、だいじょ……」
はあっ?おい、久美子!
久美子は膝から力が抜けたのか、がっくりと僕にもたれかかった。
異変に気付いた久美子のマネージャーが飛んできた。
「久美子ちゃん」
マネージャーは久美子の身体を受け取り、お礼を言う。
「夏樹ちゃん、ありがとう。ごめんなさいね、この子が」
「いえ、大丈夫ですか?」
マネージャーは久美子の顔を見て、ため息を吐いた。
僕も久美子の顔を覗き見た。
「いやぁね、逆上せたのかしらね」
久美子は鼻血を出していた。
水着に鼻血が付かないといいが。




