第21話 残り三回。いよいよ待ったなし
その日、春野家のリビングは沈鬱な空気が支配していた。
いつもなら賑やかな母も、今日はガマの油売りの口上のように、油汗をばタラーリタラーリタラーリと流している。
父は眉間に皺を寄せ、苦行僧のような表情をしたまま微動だにしない。
小山さんは顔色を真っ青にして、胃の辺りを擦っていた。
その小山さんだが、リビングに入った直後、こっそりと胃薬を飲んでいたのを僕は見逃さなかった。
そして、僕はというと、喜んでいいのか、憂慮していいのかわからない心境だった。
原因はTXーⅠの残量だ。
当初、三か月はあると言っていたTXーⅠも、僕が使用した分に加え、副作用を調べるためにラット実験にも使用したことで、あと三回分しかない。
今日の収録に使えば、あと二回。
いよいよ、待ったなしだ。
なにかを決心したのか、母が真摯な表情で、僕を見た。
静かだが、力強い声で
「柚樹、水着撮影をして」
はあっ!?
なんでここで水着撮影がでるんだよ。
「ここまで延ばしたんだ。夏樹が見つかってからでも問題はないだろう」
「あるわよ、大ありよ」
「なにがあるんだよ」
「薬の残りがあと三回なのよ」
「それと水着の因果関係はなんだよ」
「柚樹の方がウエストが細いからよ!」
ウエストが妹よりも細いっていうだけで、水着を着なければならないのか?
これは母による完全なるセクシャルハラスメントと認定できる案件だ。
一発アウトだろう。
見ろ、小山さんなんか目を剥いているではないか。
「社長、それはちょっと……」
「断固拒否で」
「若いうちしかできないのよ」
「年齢は関係ない」
「ケチ」
「ケチで結構」
「社長命令よ」
「セクハラとパワハラで抗議する」
僕と母の水着闘争に小山さんが液体の胃薬を出して飲んでいた。
このままでは埒が明かない。
永遠に不毛な言い争いが続くと判断した僕は母を無視して、父に向き合った。
「TXーⅠが残り少ないのはわかったけど、開発中のものの進捗も芳しくないということでいい?」
「TXーⅡは遅効性のうえ、効果時間が短い。TXーⅢについては、追加実験をしたところ、新たな問題が浮き上がってきた」
「問題?」
「そうだ。TXーⅢとTXーⅠを併用したラットについて、反復実験を続けたところ、重大な副作用があった」
「なんだよ、その重大な副作用って」
もの凄く嫌な予感がしたが、一度でも使用した身としては、聞かずにはいられなかった。
「TXーⅢとTXーⅠを併用した実験結果では、使用しているうちに長時間元に戻らなくなることが判明した」
長時間……。
「父さん、何回使用したら……い、一回なら平気だよな」
あまりの恐ろしさに声が震える。
「個体差はあるが、だいたい七回を超えたあたりで発症した。ちなみに一匹は最後の投与から今日で六日目だが、いまだに元に戻ってない」
「恐ろしいことをさらっと言うな!」
父よ、長時間という定義を知っているか?
六日は長時間という範囲ではない。
平均七回ということは、七回でということでない。五回かもしれないし、六回かもしれないということじゃないか。
「元に戻る可能性はあるの?」
大人しく聞いていた母が父に尋ねた。
母は獲物を狙う猛禽類のような目をしていて、ろくでもないことを考えているのがまるわかりだ。
「多分な」
多分……。
化学者ならちゃんとした回答をしろよ。
「戻らないってことはないのね?」
グイグイいくな、母。
「理論上はな。だが、完全ではないことは念頭に置いておかないと駄目だ」
「柚樹――」
「無害ということが証明されなければ、却下だ」
僕は母の言葉を遮った。
「けどさ、三回足す五回は八回よ」
安全策を採って五回にしたな。
だが、しかし!
すでにTXーⅠとTXーⅢを併せて飲み、痛い目に遭った僕としては容認することはできない。
母には悪いが、僕は僕の身体が一番大事だ。
「母さん、初めから夏樹が見つかるまでの間かつ薬がある間って条件だったよな。条件の反故や変更は却下だ」
「あら、薬の指定はしてなかったわよ」
母がしれっと言った。
言葉に詰まった僕を助けてくれたのは父だった。
「都さん、いま現在で副作用が確認されている薬の使用は認められないよ。これは倫理の問題だからね」
倫理……。
このわけのわからない薬の開発はそれに抵触しないのか?と一瞬思ったが、実験馬鹿とはそんなものだ。いまは使用禁止を唱えた方が大事だと割り切った。
「そんな……」
がっくりと肩を落とす母。
人間万事塞翁が馬、世の中とはそんなものだ、母よ。
そして、それは僕にも言えた。
あと三回。
今日以降のスケジュールを頭に浮かべた。
以前よりもスケジュールは詰まっていた。
夏樹が現れないと各方面に様々な迷惑をかける。
殊に、赤井、花澤両講師様にご迷惑をおかけすることが最も心苦しい。お二方がご出演される番組が夏樹でなくともいいというのであれば、不肖、この春野柚樹が代役を務めさせていただくのだが。
ままならないものだ。
僕はひっそりとため息を吐いた。
ふと、隣に目をやると、小山さんがスマホを手に白目を剥いていた。
どうした、なにかあったのか?
持病?
胃腸を患ったうえに持病まであったとは……。
イヤ、待てよ。
夏樹が『自分探しの旅』に出るまでは普通に健康だったぞ。
とすると、この状況が小山さんの精神状態に悪影響を及ぼしているのか。
僕だけでなく、何人に迷惑をかければ気が済むんだ、あの馬鹿は!
戻ってきたら、絶対に『己の欲せざるところ、人に施すこと勿れ』『傍若無人』を百回書かせてやる!
あれ?なんか背中がむずむずして、寒気がする。
……このむずむず感は、お兄があたしにイミフな変なものを書かせようとしてるときに似てる……。
ヤダな。
ピコン
スマホが鳴った。
『薬、あと三回分しかないよ』
えっ?
それ、想定外だよ。
薄めて飲んだら六回にならないかな?
『薄めて飲んだらダメ?』
『ははは……そうくるんだね』
イケるんだ。
さすがあたしのカン!
『イケるってことで、OKだよね?』
『$#%&@%$#』
あれ?文字化け?
それっきり返信はなかった。




