第20話 備えあれば憂いあり
神様仏様ご先祖様。
どうか元に戻るのが家に帰ってからでありますように。いや、この際、贅沢は言いません。収録が終わり、控え室に戻ったときでもいいです。
とにかく、衆人環視の中、他人の視線がない場所であればいいです。
どうかよろしくお願いいたします。
払え給え、清め給え、幸い給え、救い給え。
南無阿弥陀仏。
アーメン。
苦しい時の神頼みとでもなんとでも言え。
僕は切羽詰まっているんだ。
そうだ!
念のために着替えも持っていこう。
僕は男女どちらが持っても違和感のないシンプルなバッグに着替えと単語帳、問題集を詰め込んだ。
あっと、靴もだ、靴。
いつ爆発するかわからない時限爆弾を持ち歩いているようなものだ。
どれだけ備えても備えすぎということはないだろう。
備えあれば憂いなしだ。
僕はバッグを手に、迎えに来た小山さんと家を後にした。
苦あれば楽あり。
沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり。
なんと、『アイドルの学力はどのくらい?』の特別講師に赤井講師様がお見えになられたのだ。
なんでも僕とのやり取りが、受験生に刺さったとかでテレビ局が出演交渉したらしい。
YouTubeや動画サブスクリプションに押されているとはいえ、さすがはテレビ局。底力はまだまだあるなと感心した。
お忙しい中、赤井講師様がお見えになるのであれば、数学の問題集を持ってくるんだった。
悔やんでも悔やみきれない。
ラウンジの椅子に座り、いまから家に帰って持って来たら駄目だろうかと考えた。
駄目だ。
時間がない。
家に帰っていたら赤井講師様の授業に遅刻する。
僕が臍を噛んでいると、隣の席に高級そうなスーツを着た中年の男性が座った。
男は僕のバッグの横に似たようなバッグを置いた。
その出で立ちからどこぞの会社の秘書か役員だろうか。
なんだか偉そうだな。
時間潰しに過去に夏樹が書いたテストの答案を見た。
巧言令色鮮し仁の意味を答えよ。
孔子の論語か。
意味は口先がうまく、うわべばかり愛想のよい人には、真の思いやりの心が少ないということだな。
これは夏樹に教え込んだから楽勝だろう。
さて夏樹の答えは……。
『高原のレタスは芯が少ないからよく売れるということ。だから嬬恋がレタスの産地なのはそのため。嬬恋で農家になるならレタス農家』
クシャ。
僕は思わず紙を握りしめた。
孔子は就農案内をしているわけじゃない!
夏樹、いま直ぐ出てこい。
そして、土下座して孔子と嬬恋村に謝れ。
嬬恋村が有名なレタスの産地ということは合っているが、まるっきり答えが違う。
孔子が見たら血涙を流すぞ。
他の答えを見るのが怖い。
僕が夏樹のテストに震え上がっていると、
「夏樹ちゃん、お待たせ。控え室の用意ができたよ。行こうか」
小山さんが番組スタッフと共に現れた。
僕は足元のバッグを手に立ち上がると控え室に向かった。
収録に気合が入ったことは言うまでもないが、頭の隅では薬のことがちらついていた。
それでも、以前から引っかかっていた数学の融合問題について、赤井講師様に解き方をお教えいただいたことは僥倖だった。
紙に書かれた赤井講師様直筆の解説は家宝にしよう。
スタジオのライトの熱のせいでなんだか暑い。
赤井講師様をお見送りした僕は、スタッフに挨拶をして、ご機嫌でスタジオを後にした。
ほくほくと廊下を歩いていると、汗が引いたのかぞくりと悪寒がした。
風邪をひく前に着替えよう。
僕は足を早め、控え室に入った途端に軽い目眩を覚えた。
なんだ?
妙に肩辺りが窮屈になったな。
ちょっとなんだか衣装がキツい。
ヒールを履いている足も痛い。
まさか!?
ハリウッドミラーを覗くとそこには僕、柚樹がいた。
よ、よかった〜っ。
薬の効果が切れるのが、衆人環視の中じゃなくって。
神様仏様ご先祖様、ありがとうございます。
着替えを準備しておいて良かった。
まさに、備えあれば憂いなし。
さて、着替えを取り出すかと、僕はバッグを開けた。
……。
一度バッグを閉めた。
疲れかなぁ……。
指で閉じた目を揉んだ。
一つ息を吐き、再度カバンを開いた。
……。
うん。
やっぱり見間違いじゃない――。
なんでだーっ!?
なんで着替えが大量の札束になるんだよ。
僕にいま必要なのは着替えであって、お金じゃない。
……嫌な予感がする。
どこにでもある目立たないカバンに入れられた大金。
そこはかとなく、犯罪の匂いがする。
昔からよくいうではないか。
君子危うきに近寄らず、臭いものには蓋をしろと。
よし、僕はなにも見ていない。
見えなかった。
災難となりそうなものは、早めに閉じてしまうに限る。
僕はなにごともなかったかのように、カバンを閉じた。
そうなると、問題が一つ。
僕の着替えはどこに行った。
単語帳は、問題集はどこに行ったんだ?
衣装がキツいため、腕を動かすことに苦労した。
四苦八苦して手で背中のファスナーを下ろしたときには変な疲れでぐったりとなった。
椅子の背もたれに身体を預けて座る。
ヒールは脱ぎ捨てた。
「どうするか……いまから母さんに電話して、着替えを持って来てもらうにしても、時間がかかり過ぎる。ここも空けないといけないしな……」
神様仏様ご先祖様、その後のアフターフォローはどうしたんでしょうか?
着替えを金銭に変えていただいても、この場合は少しも救われません。
傾向と対策。
事前に対策まで講じた僕の努力を返してください。
救済措置はないのでしょうか、神様仏様ご先祖様。
バッグを睨みつつ、問いかけた。
「夏……」
ドアを開けた途端に小山さんは言葉に詰まり、乱暴にドアを閉めた。
「はぁ〜っ……こんなこともあるんじゃないかと準備しといて良かったよ……」
小山さんは疲れを滲ませて、化粧台下に置かれていた紙の手提げ袋を取り出した。
渡された手提げ袋の中には男女の着替えが一揃え入っていた。
「はい、これ着替えだよ。二度あることは三度ある。僕も学んだんだよ」
小山さん……。
僕は小山さんが怪しいが有能なマネージャーであると再度、認識した。
それと、神様と仏様、ご先祖様による万全を期した対応策に感動した。
さすがは全知全能。
いそいそと着替えた僕は、長居は無用とばかりに控え室を出た。
手に持っているのは着替えが大金に化けたバッグ。
放置しておいてもよかったんだが、それによる二次被害が発生しないとも限らないからな。
駐車場へと続く廊下を歩いていると、辺りを窺いながらこちらへ向かって来ている人物に出くわした。
ラウンジにいたエリートサラリーマンだ。
こちらを見ていなかったせいで、僕とぶつかった。
「あっ、すみません」
「気をつけ……」
気をつけ?
直立不動しろと?
駄目だ。
夏樹の珍回答のせいで思考が引きずられている。
振り払うように頭を振った。
その人物は言葉を失い、目を見開いて僕を見ていた。
正しくは僕が持っていたバッグだが。
あまり凝視されるのも気味が悪い。
僕は声をかけた。
「なにか?」
「そのバッグ……」
「はい?」
「……中を見たか?」
ただならぬ気配をしている。
見たと言ったら、無事では済まない雰囲気だ。
かと言って、嘘をつくのは気が引けるので、ここは聞き返しであやふやにしておこう。
「中って?」
その人物は、一瞬、キッと僕を睨みつけたかと思うと、僕の足元に自分が持っていたバッグを叩きつけた。
突然のことに、僕は反射的に後ろへ一歩引いた。
驚いている僕をよそに、その人物の手が伸びてきて、僕の手から荒々しくバッグを奪うと、一目散に逃げていった。
えっ?
予想外の行動に思考が追いつかない。
僕はその人物を呆然と見送った。
小山さんが小走りにやって来ると、
「大丈夫かい、柚樹君」
「あ、はい。大丈夫です」
「しかし、乱暴な人だなぁ」
まったくだ。
ふと足元を見る。
男が放り投げたバッグがあった。
僕はバッグを拾い上げると、もう一度、その人物が走り去った廊下を見た。
車の中でバッグを開けると、僕の着替えに単語帳、問題集がそのまま入っていてほっとした。
使い慣れた単語帳が一番だ。
僕は単語帳を手に取ると、覚えるためにめくり始めた。
『有藤衆議院議員をめぐる贈収賄事件で、警視庁は贈賄の疑いが持たれているツリーコーポレーション社長、奴山寿氏から任意で事情を――』
「あっ、この社長知ってるわ。男女関係なくタレントにちょっかい出すし、スポンサーを笠に着て無理難題を押しつけるって有名なのよ。ざまぁだわ」
母がテレビのニュースで映された写真を観ながら、溜飲を下げていた。
……。
僕はバッグの中身を思い出した。
『閉口無言』
僕はそっと記憶に蓋をした。




