第19話 春野家は地獄よりも地獄的
文豪、芥川龍之介が書いていた。
『人生は地獄よりも地獄的である』と。
「柚樹、水着の撮影なんだけど、覚えているかな」
と機嫌を窺うように言う母に、
「記憶にございません」
と、国会に証人喚問を受けた人物のように返答をした。
まだ諦めてなかったのか。
母の執念深さを感じる。
それだけは絶対に無理だ。
断固拒否だ。
一見、強要はしていないようだが、なにかにつけて持ち出して真綿で首を絞めるがごとくいってくる。
今日は四時から『アイドルの学力はどのくらい?』の収録があるために、お昼もそこそこに勉強をしていたのでさすがに疲れていた。
勉強の息抜きにリビングに降りてきたが、これでは息抜きになるどころか、精神的疲労感が増すばかりだ。
ここは静かな父の実験室にでも避難しよう。
置いてあるものにさえ、気を付けていればいいだけだしな。
僕は母を残し、腰を上げた。
父の実験室は普段と変わらず、怪しげな薬や実験道具、化学式を書いたホワイトボードに占領されていた。
白衣の父はフラスコから試験管へ赤紫色の液体を移していた。
ステンレス製の試験管ラックにその試験管を立てると、父は僕の方を向いた。
めずらしいな。
実験中は実験に夢中になり、周りのことに目を向けないのに。
「いいところに来たな、柚樹」
「なに?なんか用事だった?」
「そうなんだ。こっち、こっちに来い」
満足げな表情だが、僕の脳裏には警鐘が鳴っている。
こういうときの父は、満足な実験結果を得られたか、なにかを発見したときだ。
あのろくでもない薬の改良をしている現在、用心することに越したことはない。
僕は警戒心を抱き、父の元へと近づいた。
父はラットの入った籠をテーブルの上に置いた。
「新しく作った薬のことだ」
「また、作ったのか……父さん、混乱するので名前を付けてくれ。仮称でもいい」
「そうか?私はわかるぞ」
「それは父さんが製作者だからだ」
「そんなものか?」
もう、嫌だ。
これだから研究馬鹿。
誰にでもわかるよう明確にするのが基本だろうが。
目を眇めた僕に思うところがあったのか、父は僕に名前を告げた。
「まぁ、仮称は既にあるからな。一番最初に作ったのはTXーⅠ、次がTXーⅡ、今回のがTXーⅢだ」
あるなら早く教えといて欲しかったぞ。
「TXってなんの意味があるんだ?」
「トランスセクシャルの略だ」
Transsexualの略か。
安直だな。
まぁ、これで、「あれ」とか「前の」とか言わなくても済むのでよしとしよう。
「TXーⅠはなんとなく、最初の薬ってわかる。TXーⅡって、遅れて変わる薬?」
父が頷いた。
「それでだ、TXーⅢなんだが、他の薬と併用すると弊害が出ることがわかった」
「一大事じゃないか」
「まずはこのラットを見てくれ」
僕はラットを見た。
水色のリボンをしているところを見るとオスだな。
ちなみにピンク色だとメスだ。
「複数のラットにお前と同条件下で薬を投与した。その上で、TXーⅢを先に与え、その後TXーⅠを与えたところ、元に戻ることがわかった」
「それはすぐにか、父さん」
「それが、わからんのだ」
「はあっ?どういうことだ?」
「すべてのラットで、戻るタイミングがばらばらだったんだ」
「そんな無責任な……」
僕はよろよろと後退った。
泰然自若だ。
こんなときこそ、動じず、ゆったりと落ち着かねば。
そうさ、まだ飲んだわけではないんだ。
一番大事なことを聞かねば。
「それで、一旦元に戻ったあと、また変わるということはないのか?」
「それはいまのところはない」
「いまのところとは?」
「現在、三日経過したが、その予兆はない」
ふうっ。
まずは一安心といったところか。
二転三転されたら、たまったもんじゃないからな。
「観察は続けるが、柚樹、絶対に飲むなよ」
「ああ、わかった。それにTXーⅢは持ってないから大丈夫だろう」
「それもそうだな」
父が肩を竦めた。
衝撃的な話だったが、早めの報連相があったので回避できるだろう。
安心したら喉が渇いた。
「父さん、飲み物もらうよ」
「ああ。冷蔵庫にある」
冷蔵庫の扉には付箋が貼られていた。
足元を見ると、床に付箋が何枚か落ちていたので拾い上げ、冷蔵庫の扉に貼り直しておいた。
冷蔵庫を開くと、いつもどおり、色とりどりの液体がビーカーに入っていた。
以前は不可抗力で失敗したが、それを活かし、今回は同じ轍は踏まない。
ビーカーを選ぶから失敗するんだ。
僕は冷蔵庫のポケットを見た。
そこにはラベルの剥がされたペットボトルに入った飲み物。
これを選べば間違いはしないだろう。
僕は手前にあったペットボトルを手に取った。
キャップを開けて、冷えたそれを飲んだ。
僕が飲み終えたとき、父さんが思い出したように言った。
「柚樹、冷蔵庫のポケットに入っている――飲んだな?」
嫌な予兆だ。
前回とほぼ同じパターンだ。
「……飲んだ」
父の瞳が妖しげに光る。
「まさか……TXーⅢとか言うんじゃないだろうな」
「そのまさかだ」
「なんで……わかるようにしとけよ、父さん!」
「ボトルに貼ってなかったか?」
なにっ?
「お前、前にビーカーに入ってたから間違って飲んだだろう。だからキャップを閉めた専用ボトルなら、おいそれとは飲まないと思ってたんだが。念のために付箋も貼っておいたぞ……」
床に落ちていたあの付箋はそれだったのか。
あはははは……。
「ラベルを剥がしただけのペットボトルを専用ボトルとかいうな!」
「落ち着け。今日は夏樹にならなくともいいんだろう。なら、問題はないんじゃないか?」
僕はか細い声で呟いた。
「……ある。四時から収録だから夏樹にならなきゃいけないんだ」
「なんだと、つまり、TXーⅠを飲まないという選択肢はないということだな」
父の声は僕とは反対に弾んでいた。
おい。
まずは息子を心配しろよ。
この状態の父を前に雑言を言うのは虚しいが、言いたい。
「父さん、いい加減に実験馬鹿は卒業してくれ。僕の繊細な神経がもたないじゃないか」
「なにを言うか、柚樹。探究心を無くしたら研究者は終わりだ。記録を頼んだぞ、柚樹」
活きた報告が聞けるとあって、父はいまにも踊り出しそうなほど浮かれていた。
僕はその父の横で口から魂が出ていきそうになっていた。
TXーⅢを飲み、もうしばらくするとTXーⅠを飲まねばならない。
それはロシアンルーレットをしているに等しい。
いつ、効果が切れるのかとびくびくしながら夏樹にならなければならないのだ。
これからどうする、春野柚樹。
壁の時計は二時を指そうとしていた。
もうすぐ、収録に向かわなければならない。
……。
『人生は地獄よりも地獄的である』
芥川先生、あなたは正しかった。
全くもって、その通りだ。
春野家は地獄よりも地獄的だと、僕は実感したのだった……。




