ミルクの時間と、父様の悶絶
「あ……うぅ……」
それは、抗いようのない生理的な欲求だった。
前世で締め切り間際に栄養ドリンクだけで三日間を乗り切った時のような、あの虚無感に近い。けれど、今の私の体はもっと正直で、もっと切実だ。
(……お腹が、空いた。これがいわゆる『腹ペコ』というやつね)
私の脳内にある高性能な相棒が、即座に現状を定義する。
《警告。個体名:レティシアの魔力および栄養素が規定値を下回りました。空腹状態に移行します。速やかなエネルギー摂取を推奨します。》
「ふぇ……え、えんっ!」
自分でも驚くほど高い、そして透き通った泣き声が部屋に響き渡った。
その瞬間。
「ドガァァァン!」という、およそ貴族の寝室に相応しくない破壊音が鳴り響き、重厚な扉が文字通り「弾け飛んだ」。
「レティシア! 今行くぞ、パパが今、君を救いに来たぞ!!」
現れたのは、黄金のオーラを全身から噴出させている父、アラリック公爵だった。その手には、伝説の魔剣ではなく……なぜか、純白に輝く哺乳瓶が握られている。
「アラリック様! 扉を壊して入るなんて、レティシアが驚いてしまうではありませんか!」
その背後から、氷の魔力を纏って滑り込むように現れたのは母、ルナ。彼女の周囲には、自動でミルクを最適な人肌の温度に保つための浮遊魔法が展開されている。
「父上、母上。レティシアの食事は、僕が厳選した『聖域の山羊』の初乳を調合したものです。僕が与えるのが最も効率的かと」
兄のシエルまでが、魔導書を片手に(おそらくミルクの栄養価をリアルタイムで計算しながら)現れた。
(……いや、みんな来るのが早すぎない? 扉の修理代、いくらかかると思ってるのよ)
私は涙目で、目の前に並んだ「大陸最強の家族」を見上げた。
彼らのステータスは、相変わらず「計測不能」や「世界滅亡級」といった物騒な文字で溢れている。そんな彼らが今、一人の赤ん坊の空腹という「国家存亡の危機」を解決するために、文字通り命をかけていた。
「さあ、レティシア。パパの番だ。今日こそ、このパパの手からミルクを飲んでもらうんだ……!」
アラリック公爵は、戦場で数万の敵を屠ったときですら一度も震えたことがないというその武骨な手を、小刻みに震わせていた。
《解。対象:アラリック・ド・グランヴェルの状態を解析。筋肉の緊張度:最大。精神集中:極限。出力制御:99.999%の抑制を実行中。……注釈:対象は、あなたを傷つけないために『羽毛を撫でるよりも弱い力』で動こうとして、自らの肉体に過負荷をかけています。》
(……パパ、頑張りすぎだよ。たかがミルクでしょうに)
「あ、アラリック様、無理をなさらないで。あなたの腕力では、もしクシャミでもしたら、その哺乳瓶が粉々に粉砕されてしまいますわ。やはり私に……」
「い、いや! 昨晩、私はイメージトレーニングを千回繰り返した! レティシアを抱き上げ、適正な角度で乳首をくわえさせ、適度な速度で栄養を流し込む……。シミュレーションは完璧だ!」
父様は、まるで神聖な儀式でも執り行うかのような悲壮な決意で、私をそっと……本当に、壊れ物を扱うように抱き上げた。
彼の胸板は鉄板のように硬いけれど、私を包む腕は驚くほど優しく、そして温かい。
「よし……よし、いい子だレティシア。さあ、食事の時間だぞ。怖くない、これは父様の愛だ……」
父様が哺乳瓶を私の口元に持ってくる。
彼の額からは、滝のような汗が流れていた。全力で魔力を抑制し、繊細な動きを実現しようとするその努力は、もはや「領域」に達しようとしている。
《報告。個体名:アラリックが、無意識のうちに新スキル【超精密動作】を獲得しました。》
(スキル獲得の無駄遣いすぎる……!)
私はその献身的な姿に免じて、差し出された哺乳瓶をチュパ、とくわえた。
その瞬間――。
「っ……!!」
父様の顔が、見たこともないような恍惚の表情に変わった。
「の……飲んだ……。今、吸った……! 私が捧げたミルクを、レティシアが……私の腕の中で、一生懸命に……ああっ!」
「アラリック様! 感極まって腕に力を入れないでください! レティシアが苦しくなってしまいますわ!」
母様の制止も耳に入らないのか、父様は悶絶していた。
私の小さな「ごきゅ、ごきゅ」という嚥下音が、静まり返った部屋に響く。
その音を聞くたびに、父様の目からは大粒の涙が溢れ出した。
「ああ、なんて健気なんだ……。生きてる……レティシアが生きている音がする……。シエル、聞こえるか? これが、希望の音だ」
「はい、父上……」
いつの間にか部屋の隅にいた兄様が、真剣な顔で頷いている。
「僕も聞こえます。レティシアの生命活動音……素晴らしい。記録しておこう」
(……お願いだから、普通にミルクを飲ませてください)
私は心の中でため息をつきながら、ミルクを飲み続けた。
やがて、お腹がいっぱいになった。
「ふぅ……」
小さく息を吐いた。
「……満足したみたいね」
母様が優しく微笑む。
「レティシア、おいしかった?」
私は母様の顔を見上げた。
そして。
「あぅ……」
「「「…………」」」
一瞬、部屋が静まり返った。
次の瞬間。
「「「か、可愛いぃぃぃぃぃ!!」」」
家族全員の歓声が、公爵邸中に響き渡った。
私はその騒音の中で、ゆっくりと目を閉じた。
(……この家、本当に騒がしい)
でも。
(……嫌じゃない)
むしろ、心地よかった。
前世では、静かな部屋で一人きりだった。
今は、私が眠るだけで、こんなにも喜んでくれる人たちがいる。
(……神様。私の願い、ちゃんと叶えてくれたんだね)
私は家族の温かな気配に包まれながら、ゆっくりと眠りについた。
その顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。




