お散歩の行き先は、伝説の禁域でした
私がこの世界に転生して、1年と数ヶ月。
ついに私は、人類にとっての偉大な一歩……もとい、レティシアにとっての「ヨチヨチ歩き」をマスターした。
(……ふぅ。二足歩行のバランス制御って、意外と高度な演算が必要なのね)
私は、公爵邸の長い廊下を、執事やメイドたちの「尊死」寸前の悲鳴をBGMにしながら進んでいた。前世のSE時代、バグまみれのコードを一本ずつ修正していくような慎重さで、私は一歩一歩、確実に大地(絨毯)を踏みしめる。
《報告。個体名:レティシアの歩行プロセスを最適化しました。……歩行効率が200%上昇。……副次効果として、歩くたびに周囲に『癒しの波動』が自動散布されます。》
(……歩くだけで加湿器みたいにマイナスイオンを出すのはやめてほしいんだけど、システムさん)
「レティシア! ああ、なんてことだ! ついに、ついに私の娘が自分の足で、パパの元へ歩み寄ろうとしている……! これは建国以来の奇跡だ!」
廊下の先で、パパ(アラリック公爵)が両手を広げて待ち構えている。その顔は相変わらずデレデレで、大陸最強の剣聖としての威厳は、今日もどこか遠い異次元へログアウトしていた。
「あぅ……ぱぱ、おそと!」
私がパパの胸に飛び込みながら(実際には、パパが音速で滑り込んできて私をキャッチした)、窓の外を指差した。
家の中での「言霊」実験には限界がある。私はもっと広い場所で、この世界の「システム」がどう構築されているのか、そのソースコードを覗いてみたかったのだ。
「お外に行きたいのかい? よし、パパが今すぐ王都の中央広場を貸し切りにして、君専用の遊園地を作らせよう!」
「父上、それは効率が悪いです。レティシアの情操教育には、自然の生命エネルギーに触れるのが一番です。……というわけで、公爵領の裏にある『精霊の禁域』へ行きましょう」
いつの間にか背後に立っていたお兄様が、眼鏡をキラリと光らせながら提案した。
(……えっ、禁域? 名前からしてヤバそうな場所じゃない?)
「シエル、名案だ! あそこなら、レティシアが少し力を暴走させて地形を変えても、誰にも文句は言われないからな!」
(……パパ。地形を変える前提でお散歩に行かないで)
こうして、私のお散歩デビューは、常人なら一歩足を踏み入れただけで発狂すると言われる「精霊の禁域・黒銀の森」に決定した。
数時間後。
私は、重厚な魔法結界を(お兄様が指先一つで消し飛ばしながら)通り抜け、森の深部へと足を踏み入れた。
そこは、空気そのものが魔力の結晶のようにキラキラと輝く、幻想的な場所だった。見たこともない巨大な花々が咲き、宙には数千の精霊が光の粒となって舞っている。
「レティシア、足元に気をつけて。このあたりの土はオリハルコンの原石が混ざっているから、転ぶと少し痛いよ」
お兄様が、さらりと国家予算レベルの希少鉱石の名前を口にする。私はそんなことよりも、目の前の光景に夢中だった。
(……すごい。マナの濃度が高すぎて、システムさんの処理速度が上がってるわ)
《解。周辺環境からの魔力供給が1000%を超えました。……隠しスキル【万物交信】のロックを一時解除します。》
(【万物交信】? それって……)
私が周囲を見渡すと、茂みの奥から、巨大な「銀色の影」がゆっくりと姿を現した。
それは、体長5メートルはあろうかという、圧倒的な威圧感を放つ銀狼だった。瞳は深いサファイアのように輝き、その一挙手一投足が空間を震わせている。
「……ッ!? フェンリルだと!? なぜこんな外縁部に……!」
パパが即座に私を背後に隠し、魔剣の柄に手をかけた。お兄様も無詠唱で最大級の防御結界を展開する。
「父上、下がってください! この個体は……伝説の『銀嶺の覇者』。ただの聖獣ではありません、神の眷属です!」
伝説のフェンリル。
かつて一国を一夜にして滅ぼしたと言われる、災厄級の神獣。
それが、低い唸り声を上げながら、私たちを睨んでいる。
(……えっ、あれがフェンリル?)
私の目には、システムさんを通じた「別の情報」が見えていた。
個体名:銀嶺のフェンリル(真名:ルプス)
状態:深刻な『寂しさ』および『肉球のひび割れ』
思考:『なんだか、すごく美味しそうで懐かしい匂いのする人間(赤子)がいる……。あの子に触れてほしい。なでなでしてほしい』
(……えぇ。伝説の神獣さん、キャラ崩壊してない?)
私はパパの足元からひょっこりと顔を出し、フェンリルに向かってトコトコと歩き始めた。
「レティシア! だめだ、戻れ!」
「レティシア、危ない!」
パパとお兄様の絶叫が響くが、私は止まらない。
フェンリルの前までたどり着くと、その巨大な鼻先に、私の小さな手を「ぺしっ」と当てた。
「……もふ、もふ?」
その瞬間。
《通知。固有スキル【言霊の法】および【万物交信】が同時発動。……対象の『孤独』をデバッグし、属性を『従順な友達』へ上書き(オーバーライド)します。》
シュゥゥゥ……と、フェンリルから放たれていた殺気が一瞬で消滅した。
それどころか、巨大だった彼の体が、見る見るうちに縮んでいく。
黄金の光が収まった後、そこにいたのは……。
「わぅ?」
体長50センチほどの、ふわふわで真っ白な「子犬」のような姿になったフェンリルだった。
「…………は?」
パパの顎が外れそうになっている。
お兄様は持っていた魔導書を落とし、その場でフリーズした。
「な、神獣フェンリルが……縮小、いや、進化したのか!? レティシアの『もふもふ』という一言で、存在そのものの定義が書き換えられたというのか!?」
お兄様の解析(絶叫)をよそに、私は目の前の「もふもふ」を抱き上げた。
「わぅーん!」
子犬(元・神獣)は、嬉しそうに私の顔をペロペロと舐め、しっぽをプロペラのように振り回している。
「あはは! きもちー!」
《報告。神獣フェンリルとの『魂の契約』が完了しました。……称号:【聖獣の主】を獲得。……副次効果:あなたの周囲の安全が、神の権限によって永久に保証されました。》
(……よし。お散歩の目標、一つ達成ね)
私は子犬のサファイア色の瞳を見て、即座に答えた。
「るぅ!」
「ルゥ、か。……いい名前だね。レティシアが付けた名前だ、世界で一番高貴な名だよ」
こうして、私のお散歩デビューは「伝説の神獣を子犬にして持ち帰る」という、歴史に類を見ない大事件で幕を閉じた。
公爵邸に帰った後、ルゥを見た母様が「あら、可愛いお友達ね。じゃあ、この子のための『特注の犬小屋(という名の神殿)』を作らせましょうか」と優雅に微笑んだのは、言うまでもない。
前世の私には、友達と呼べる存在はいなかった。
ディスプレイの中の文字と、仕様書だけが私の話し相手だった。
けれど、今の私には。
私を全力で愛してくれる家族と、背中を預けられる「もふもふ」の相棒がいる。
(……ふふ。これからの冒険、もっと楽しくなりそうね)
私はルゥの柔らかい毛に顔を埋めながら、公爵邸の庭に新しくできた「友達」との時間を、心ゆくまで満喫するのだった。
もちろん、このルゥが夜な夜な、私に近づこうとする「不届きな精霊」や「虫」を神獣の力で消滅させているのは、私とお兄様だけの秘密である。




