初めての『イヤ!』で、世界が凍りついた?
「言霊」の力が覚醒し、私の発言一つで世界が書き換えられることが判明した今日この頃。
公爵邸は、かつてないほどの緊張感に包まれていました。
(……ねぇ、システムさん。この空気感、何かに似てると思わない?)
私が心の中で問いかけると、相棒はいつもの無機質な、それでいてどこかノリのいい声で返してきます。
《解。これは、大規模システムのリリース直前、重大なバグが一つも許されない状況における『エンジニアたちの殺気』に酷似しています。》
(ああ……それだ。嫌なことを思い出させないでよ)
前世のトラウマが蘇りそうになりますが、今の私は公爵令嬢。
目の前に並んでいるのは、デスマーチに疲弊した同僚ではなく、私の機嫌を損ねまいと必死な『最強の家族』たちです。
事件は、お昼の下ごしらえが済んだ頃に起こりました。
穏やかな日差しが差し込むダイニング。
私の目の前には、パパが「世界で最も健康に良い」と豪語する、緑色に輝く不思議なスープが置かれていたのです。
「さあ、レティシア。これは北の最果てにある『精霊の森』でしか採れない薬草を、ドラゴンの残り火でじっくり煮込んだ特製スープだ。一口飲めば、魔力回路がさらに強固になり、肌は真珠のように輝くと言われているぞ!」
パパは、まるで聖杯でも捧げるかのような敬虔な顔で、スプーンを差し出してきました。
しかし、私の解析スキルは容赦ない事実を告げます。
《解析。対象:精霊薬草の濃縮スープ。……栄養価:計測不能。……味:強烈な苦味、えぐ味、および『土の味』がします。……結論:味覚デバッグにおいて『致命的なエラー』が発生する可能性が高いです。》
(……パパ。健康に良くても、泥みたいな味のスープは飲みたくないよ)
私はスプーンから漂う、何とも言えないスパイシーかつドロっとした香りに、顔をしかめました。
前世で、栄養バランスだけを考えて飲んでいた、あの不味い青汁を思い出したのです。
「レティシア? どうしたんだい? ほら、あーんして」
パパの期待に満ちた瞳。
お兄様も、
「レティシア、これは僕が計算して調合比率を決めたんだ。きっと君の進化に役立つよ」
と、眼鏡をキラリと光らせています。
けれど、無理なものは無理なのです。
私は、自分の意志をはっきりと伝えるために、ついに「その言葉」を口にしました。
「……いやっ!」
その瞬間――。
《警告。固有スキル【言霊の法】により、最上位の『拒絶命令』が発動。……事象の否定を開始します。》
ピキィィィィィィィィィィィィン!!
凄まじい音と共に、私の視界から「色」が消えました。
……いえ、正確には、私の目の前にあるスープ、パパ、お兄様、そして部屋の半分が、一瞬にして「氷漬け」になったのです。
単なる氷ではありません。
それは、存在そのものの時間を停止させる「絶対零度の静止」でした。
(……えっ、えええええええええっ!?)
「…………っ」
パパが、スプーンを差し出したポーズのまま、カチンコチンに固まっています。
彼の鼻から出た吐息すら、空中でクリスタルのように固まっていました。
お兄様も、魔導書を開こうとした瞬間のまま、美しい彫像のようになっています。
《報告。個体名:レティシアの拒絶反応が、周囲の因果律に干渉。……『嫌なもの』の存在を凍結させ、世界の進行を一時停止させました。……注釈:これが巷で噂される『イヤイヤ期』の第一歩(物理)です。》
(物理すぎて笑えないよ!! パパとお兄様を今すぐ解凍して!)
私は焦って、凍りついたパパの頬に手を触れました。
すると、私の手から溢れ出た魔力が氷を融かし、二人の時間が再び動き出します。
「はっ……!? 今、私は……宇宙の果てを見たような……?」
パパがガタガタと震えながら正気に戻りました。
スプーンに乗っていたスープは、私の「イヤ!」という言霊によって、文字通り塵となって消滅していました。
「父上、今のは……レティシアの『拒絶』が、概念的な魔法として発現したものです。彼女が『嫌だ』と言えば、この世界の理すらも停止してしまう……」
お兄様が、青白い顔をしながらも、震える手で手帳に「レティシアのイヤ:世界停止に匹敵する神権」と書き込んでいます。
「お、おお……。すまない、レティシア! パパが悪かった! お前が嫌がるものを無理強いするなんて、パパは親失格だ! 今すぐこのスープを作った料理人を……いや、不味い薬草を生やしている精霊の森ごと、私が更地にしてこよう!!」
「パパ、だめ! だめえええ!」
私は慌ててパパの袖を掴みました。
一言の「イヤ」で世界を凍らせ、さらにパパが森を滅ぼしに行く。
赤ん坊のわがままが、どうしてこうも「世界の終焉」に直結してしまうのでしょうか。
「……あら、大騒ぎね。レティシア、どうしたの?」
そこへ、騒ぎを聞きつけた母様のルナが登場しました。
彼女は、凍りついたままの部屋の壁(私の魔力の残滓)を見て、ふふっと楽しげに笑いました。
「まあ、レティシアったら。もう自分の意志で世界を否定できるようになったのね。成長が早くて、お母様は嬉しいわ」
(お母様、ポジティブすぎるよ……!)
お母様は、パパが持っていた空のスプーンを優雅に取り上げると、私の頭を優しく撫でました。
「レティシア、不味いものは食べなくていいのですよ。その代わり、お母様が魔法でお砂糖をたっぷり入れた特製の苺ムースを作って差し上げましょう。……ただし、虫歯になったらお兄様が魔法で治療することになりますけれど」
「お任せください、母上。レティシアの歯一本一本に、二十四時間体制でナノサイズの防護結界を張っておきます」
お兄様の回答が相変わらず狂気(愛)に満ちていて、私は苦笑いするしかありません。
(……ふぅ。一言の『イヤ』でこれなら、今後はもっと言葉を選ばなきゃ。……あ、でも)
私は、ようやく解凍されて涙目で私を見つめるパパを見て、少しだけ申し訳なくなりました。
パパは私のことが大好きで、私の健康を思って、あの不味いスープを用意してくれたのです。
私は、パパの鼻先にちょんと触れて、小さな声で言いました。
「ぱぱ……ごめんね。しゅきよ」
その瞬間――。
ドォォォォォォォォォォン!!!
王都の空に、またしても黄金の衝撃波が広がりました。
《警告。個体名:アラリックの精神障壁が完全に崩壊。……溢れ出た『親馬鹿オーラ』が物理的な防壁(絶対防御)となり、公爵邸を包囲しました。現在、この屋敷は神の領域に等しい防御力を有しています。》
「う……うお……うおおおおおおお……っ!! レティシアが……私のことを……『好き』と……!! あああああ、私は今、神になった! いや、神を超えたぞ!!」
パパはその場に突っ伏し、絨毯を涙で濡らしながら悶絶し始めました。
彼から漏れ出る魔力があまりに強すぎて、部屋の家具がガタガタと浮き上がっています。
「父上、見苦しいですよ。レティシアが引いているではありませんか」
冷ややかなお兄様の声。
しかし、彼の手帳を持つ手も、感動で小刻みに震えています。
「レティシアの『しゅき』:対象を不老不死、および無敵状態にする至高の祝福」
とメモされているのが見えました。
(……待って。私の「好き」って、そんなチート付与魔法だったの!?)
「あらあら、朝から賑やかですわね」
母様のルナが、お盆に乗せた特製ミルクを持って現れました。
彼女は、悶絶するパパを優雅に踏みつけ……もとい、避けながら、私の前にしゃがみました。
「さあ、レティシア。美味しいミルクですよ。お口に合うかしら?」
母様が差し出したのは、魔導ギルドが総力を挙げて精製したという、究極の栄養素を含むミルクです。
私はそれを一口飲み、「おいちい!」と声を上げました。
すると――。
《通知。個体名:ルナの調合したミルクに『神格』が付与されました。……これを飲んだあなたは、一時間だけ大天使の翼が生えます。》
(……えっ、翼!?)
私の背中から、ふわっ、と白銀の光り輝く翼が生えてきました。
私は自分の意思とは無関係に、ふわふわと部屋の中を浮き上がり始めます。
「……っ! レティシアが……天使になった……!」
「いえ、母上。もともと天使でしたが、ついに実体化したのです」
「……ああ、神よ、感謝する。レティシアを、レティシアを我が家に遣わしてくれて……!!」
家族三人が、浮遊する私を見上げて、同時に祈りのポーズを取りました。
その光景は、もはや宗教画のようです。
(違うの、みんな! これ、ただのミルクの感想なの! お兄様、手帳に『レティシアは言葉で自らを進化させる』って書かないで!)
私は天使の翼をパタパタさせながら、天井近くでため息をつきました。
前世では、言葉を尽くしても伝わらないことばかりでした。
修正依頼をしてもスルーされ、感謝の言葉さえも業務のノイズに消えていった。
けれど、ここでは。
私の「綺麗」が花を咲かせ、私の「好き」が人を無敵にし、私の「美味しい」が奇跡を起こす。
(……この『言霊』の力。使い道を間違えたら世界が滅んじゃうけど、みんながこんなに幸せそうなら……少しずつ、練習していこうかな)
私は、黄金の花が咲き乱れ、パパが泣き崩れ、お兄様が神格化を記録し、母様が優雅に微笑むカオスな部屋の中で、
「次はなんて言おうかな」
と、少しだけイタズラな気分で未来を想像するのでした。




