「パパ」と言っただけで、街に祝祭が訪れた
月日が流れるのは早いもので、私がこの世界にレティシアとして生を受けてから、ちょうど一年が経とうとしていた。
前世での一年といえば、延々と続くバグ修正と、コーヒーのカフェインで無理やり脳を回す日々の繰り返しだった。けれど、この世界での一年は、溢れんばかりの愛と、高純度の魔力ミルク、そして家族からの「可愛い」という賞賛の嵐に包まれた、まさに天国のような時間だった。
(……さて。一歳といえば、そろそろ『あの機能』を実装してもいい頃よね)
私は、公爵邸の陽だまりが心地よいサロンで、ふかふかの絨毯の上に座り込み、喉の調子を確認した。
《解。個体名:レティシアの音声出力器官(声帯)の成長を確認。……言語プロトコルの起動が可能です。》
(よし、システムさん。準備は万端ね)
私は小さな手を握ったり開いたりしながら、周囲を見回した。
そこには、私の一挙手一投足を見逃すまいと、家族が勢揃いしていた。
父様――アラリック公爵は、私の目の前に座り込み、いつもの威厳など完全に忘れた顔で私を見つめている。
母様――ルナは優雅に微笑みながらも、瞳の奥には期待が隠しきれない。
そして、お兄様――シエルは、魔導書を片手に何かを記録する準備までしていた。
(……なんで全員、そんなに真剣なのよ)
どうやら、私が一歳になったことで「そろそろ言葉を話すのではないか」という期待が、公爵家全体に膨れ上がっているらしい。
「レティシア……」
父様が、そっと私の名前を呼ぶ。
その声は、戦場で敵を震え上がらせる大陸最強の剣聖とは思えないほど優しかった。
「さあ、レティシア。私を見て! 『パ・パ』だ。言ってみなさい、『パパ』!」
父様の顔が近い。
大陸最強の剣聖の顔が、今や期待に震える一人の男の顔になっている。
私は、彼らの熱意に気圧されつつも、覚悟を決めた。
前世では孤独だった私が、今、こんなにも愛されている。
その感謝を、この不自由な赤ん坊の体で伝えられる唯一の方法。
私は大きく息を吸い込み、パパの大きな目を見つめて、唇を動かした。
「ぱ……」
「……っ!!」
部屋中の空気が凍りついた。
パパが息を止め、母様が胸に手を当て、お兄様が魔導書を落とす。
「ぱ、ぱぁ……ぱぱっ!」
私の口から、鈴を転がすような、けれどはっきりとした言葉が溢れ出した。
その瞬間――。
《警告。個体名:アラリックの魔力が暴走……いいえ、極限の『歓喜』により、周辺事象への干渉を開始しました。》
「う……うおおおおおおおおおっ!! 呼んだ! 今、レティシアが、私を! パパと!! パパと呼んだぞぉぉぉぉぉ!!!」
父様の咆哮と共に、彼の体から黄金の魔力が爆発的に吹き出した。
それは破壊の力ではなく、純粋な「幸福」が形を成した光だった。
黄金の光は公爵邸の屋根を突き抜け、王都の空へと高く高く昇っていく。
(……え、ちょっと待って。パパ、落ち着いて!?)
空に昇った光は、まるで巨大な花火のように弾け、王都全域に「黄金の粉」を降らせ始めた。
《報告。事象:『父の慈愛による祝福』が発動。……王都内のすべての農作物の成長速度が十倍になり、病を患う者たちが一斉に治癒しました。》
「ひ、ひゃっほー! 酒だ! 今日は祭りだ! 全領民に、私の私財から金貨三枚ずつ配れ! レティシアが私をパパと呼んだ記念日だ! 今日を国家祝祭日に制定するよう、陛下に直談判してくる!!」
「アラリック様、落ち着きなさい! ……と言いたいところですが、ええ、仕方がありませんわね。レティシア、もう一度『ママ』とも言ってくださるかしら? そうすれば、私は隣国まで届くほどの祝福を降らせて差し上げますわ」
「レティシア、次は『シエル』だ。そうすれば、僕は君のために空に新しい星を作ってみせるよ」
(……この家の人たち、喜びの単位がおかしいよ!)
窓の外からは、街の人々の歓声が聞こえてくる。
「なんだこの光は!?」
「腰痛が治ったぞ!」
「奇跡だ、公爵令嬢様がお言葉を発せられたに違いない!」
どうやら、パパの魔力の暴走(喜び)によって、王都は一瞬にしてお祭り騒ぎになってしまったらしい。
私は呆気に取られながらも、パパに抱き上げられた。
彼は涙をボロボロと流しながら、私の小さな顔に自分の頬をすり寄せてくる。
「レティシア……ああ、レティシア。お前はなんて、なんて素晴らしい子なんだ。パパは、パパはもう死んでもいい……いや、お前が嫁に行くまでは絶対に死なないが、それくらい幸せだ……!」
《解析。個体名:アラリックの幸福指数、計測不能。……副作用として、王都の景気が今後十年間は上向くことが確定しました。》
(経済まで動かしちゃったよ……)
私は、パパの髭が少しだけチクチクするのを感じながら、彼の広い胸に顔を埋めた。
前世では、私の言葉一つで何かが変わることなんてなかった。
バグを指摘すれば嫌がられ、進捗を報告すれば溜息をつかれた。
けれど、ここでは。
私が「パパ」と言っただけで、一人の男が世界一の幸せ者になり、街中の人々が笑顔になり、病気さえも消え去ってしまう。
(……悪くないわね。こういう『仕事』なら、いくらでもやってあげるわ)
私は、調子に乗って「まま! あにっ!」と、母様とお兄様の方を向いて言葉を重ねた。
「「…………ッ!!」」
その直後、王都の空には虹が七重に重なり、季節外れの桜が満開になり、噴水からは水ではなく最高級の果実水が噴き出した。
《警告。これ以上の発声は、周辺環境の概念を崩壊させる恐れがあります。……本日の発声業務はこれにて終了することを推奨します。》
(了解。……あはは、みんな、喜びすぎだってば!)
私は、狂喜乱舞する家族に代わる代わる抱きしめられ、もみくちゃにされながら、幸せな「第一声」の余韻に浸った。
この日から、王都の暦には『レティシア様のお言葉記念日』という、建国記念日よりも盛大な祝祭が刻まれることになったのだが……それは、もう少し後の話である。




