第五話:But don't look back in anger.(その7)
さて。
先にも書いた通り、金原ヒナノは美しいひとであった。
ゆたかな黒髪と、一見おだやかな春の海を想わせる温和な目をしていた。
が、しかしその美しさは、彼女の気分に大きく左右されるものでもあった。
暗く落ち込んだときの彼女は、まるで冷え切ったオートミールのようであった。
そうしてそれが、あの頃のヤスコとヒナノに、どのような影響を与えたのかは、当時も今も、きっと当人たちにも分からないだろうが、それでもその後の音信は――彼らが別れた後の音信は、ずうっと途絶えたままであった。
*
『ゴメンねー、とつぜんメールしちゃって』
ヤスコからの返信に、ヒナノはこう応えて来た。
『いま近くにいるんだけどさー、会えないかな? って想って。ひさしぶりに』
文面だけを見れば軽い調子であったが、疑問符や読点の打ち方、メールが返されるまでの間隔、もっと言えば、まるでこの数年間が存在しなかったかのようなその態度に、ヤスコは嫌悪と違和感を感じていた。
『すみませんが、仕事が詰まっておりまして』云々。
ヤスコは返した。出来得る限り、情を感じさせないよう、情を感じさせないようにしているのがバレないよう、十分な注意をはらって。
『そうそう。連載読んでるよー、スゴイよねー』
しばらくの間を置いて、ヒナノは返して来た。きっと読んでいないであろうヤスコの小説をほめちぎってから、
『ほんの30分でいいんだー』会って話を聞いてくれないか、『ひとりだと、ほんとシンドクてさー』
ヤスコの性格を、十分に理解した上での、書き方だった。
*
金原ヒナノがヤスコの初めての恋人であったと云う事実、それは言いかえると、彼女がヤスコにその指向性を自覚させた最初の人間であり、またヤスコのからだを、「本当にきれいよ」と認めてくれた最初の人間であったことをも意味していた。
が、しかし、これはそのまま、ヤスコが金原ヒナノの最初の人間であったことを意味するもの、ではなかった。
彼女は、花のような美しさと、オートミールのような不機嫌さで、自分のこころに空いた穴――空ける相手は主に男であったが――を、ヤスコで埋めようと、埋めさせようとしたのでもあった。
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ふたたび、ヤスコは腹を立てた。
ヒナノの『ほんとシンドクてさー』のもとが容易に想像出来たからだし、きっと自分は、仮にそれに寄り添うことは出来ても、その一部にはなり得ないことが、過去の経験から、はっきりとしていたからである。
そうして、それと同時にヤスコは、それと関連する事柄にも腹を立てた。
絶望的な断絶、自分がつねに、自分が見ている人々や風景からは孤絶し続けるであろう予感と予覚――それは、塔の上のあの少女に、あれ以上近付けない感覚によく似ていたが――そのようなものごとにも、彼女は腹を立てた。
が、しかし、それでも、
『お願い出来ないかなあ? ヤッちゃん』
との言葉にヤスコは、いや、しかし、それでも彼女は服を替え、髪を整え、靴を選んで家を出た。まひろの顔が一瞬脳裏をよぎったが、それでも。ヒナノが指定する喫茶店へと。
なぜなら彼女はその言葉に、彼女と過ごしたいくつもの夜ではなく、彼女の中絶手術につき合った、ながい雨の日を想い出していたから。
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「それで? 俺らはどうする」
と、これとほぼ同時刻、樫山詢吾は江崎清一に訊いた。「もどって仕事でもするか?」
彼らは丁度、金原ヒナノに見付からぬよう問題のカフェを脱け出し、近くのコンビニに避難したばかりであった。
「江崎?」詢吾はくり返した。「それで? 俺らはどうする」
と言うのも彼が、コンビニの雑誌コーナーを見つめたまま、ジッと押し黙っていたからである。
「……江崎?」と、詢吾がみたびくり返そうとした瞬間、彼は、
「お前ん家に」そう、ポツリと言った。「お前ん家に行かないか?」
しかし、この声はとても小さく、また詢吾にはよく意味が分からなかったのだろう彼は、「俺ん家?」と訊き返した。「仕事は?」
「仕事はいいよ」江崎は応えた。「お前ん家に行こう」
くり返しになるが、彼にとってヤスコは――もちろんそれは、恋愛などとはまったくほど遠い感情ではあったが――いまだに、レモンや石鹸、買い忘れたミルクのような存在なのである。
*
「なんか、ちょっとあか抜けたんじゃない?」
金原ヒナノの前に座ったときヤスコは、ある種友好的で、ある種軽薄な彼女のこの物言いに、用意していたいくつものこころの防護柵を下ろしそうになった。
が、しかし、別れた頃よりさらに美しさを増した彼女の声や表情、それに左手薬指に見えた小さなダイヤモンドに、いくばくかの肌寒さを感じると、
「そんなことないですよ」と敵対的――とは言わないまでも、十分な距離を置いてから、「年を取って、お化粧の仕方とかが分かっただけです」そう言って応えた。
「ほんと?」ヒナノがわらった。「恋人とか出来たんじゃなくて?」
「ほんとですよ」ヤスコもわらった。まひろのことは、敢えて口にはしなかった。「こう見えて、外に出る機会も結構ありますし」
「ふーん?」ヒナノは続けた。テーブルの上の人差し指を、すこしこちらに向けてから、「じゃあ――」しかし、その言葉は、
「それで?」と問うヤスコの言葉に――ヒナノの指から逃げるような彼女の言葉に――静かにさえぎられた。「今度は、なんですか?」
どこかで、ちいさな雷が鳴った。
「ああ、それがさあ」ヒナノはわらった。うつくしい声と表情で、「わたし、こんど結婚するんだけどさ」左手薬指のダイヤモンドを見せ付けながら、「あのバカ、他に女がいやがってさ」
ヤスコは、後悔していた。
ヒナノのメールから感じ取れたあの悲壮感が、現実の彼女からはまったく感じ取れなかったからである。
「だからさ、ヤッちゃんさ」甘く美しい声で、金原ヒナノは続けた。「わたしたち、いい想い出もあるじゃない」
こちらを向いた彼女の指に、ヤスコは、彼女と過ごしたいくつもの夜を想い出していた。
*
「姉貴ー?、いないのかー?」
と、これと時間を前後して、詢吾と江崎は樫山家へと戻っていた。
が、しかし、家にいたのは飼い猫のフェンチャーチだけであって、
「おい、ネコ、ヤスコさんは?」と江崎が訊いても彼女は、
「うニャ?」と不機嫌そうに応えるだけであったし、「ふぇン、ごにゃア」
また、詢吾が姉に電話やメールを送っても、先ほどお見せしたとおり、ヤスコはヤスコで、それどころではない状態にあった。
「まあ、」詢吾は言った。「買い物にでも出たんじゃないか」それでも、すこしの違和感を持って、「すぐもどって来るさ」
「ひょっとして、」江崎は返した。「ひょっとしてだけどさ、」彼女の優しさ――いや、世界に対する好奇心は、弟の詢吾よりも彼の方がよく分かっているのかも知れない。「呼ばれて行った、なんてことはないよな?」
「は?」詢吾には最初、彼の言葉の意味がよく分からなかった。が、それでも、「いや……そこまでのバカじゃねえだろ」
「なに言ってやがる」江崎は言った。彼には奇妙な不安と直感があった。「あの、ヤスコさんだぞ」同じタイプの、同じ業を背負った創作者として。
*
さて。
これもまたくり返しになるが、樫山ヤスコは、ある種の創作者が抱える絶望――自分がつねに、自分が見ている人々や風景から孤絶し続けるであろう予感と予覚、それに寄り添うことは出来ても、その一部にはなり得ないという確信――を持って生きて来た。
迷い込んだ裏路地。
不意に現れた公園。
花火の夜。
仮面をかぶり、
彼女の横を駆け抜けて行く少年たち。
死者への花束を抱えた美しい老婆たち。
とおい窓の向こうに聞こえる、
賑やかなささやき。
お祭りの最終日に流れる自動ピアノと、
それに続く、
人々のわらい声。
水面に沈んだ、一枚のコイン。
あの長かった雨の日、
雲が去った夜空に、
ヒナノの手を取り見つけた、
やわらかなひとつの月。
そんなものたちの一部には、
彼女は決して、
なれないのである。
「想い出を、」
ヤスコは言った。ヒナノに通じるとは想えなかったが、それでも。
「それでも思い出を、」
ソファの上のちいさなカバン、その片すみに、ヒナノが隠した、ハート型の、妊産婦が付けるあの形の、あのキーホルダーを、彼女は見つけてしまったのだから。
「それでも想い出を、怒りに変えさせないで下さい」
彼女は想い出していた。
ヒナノがある男性の子供を妊娠したと言ったあの日、その子供を堕ろしたいと言ったあの日、ヤスコがたしかに、その出来事の一部になりたいと願ったあの日のことを。
ヒナノがわらい、怒り、涙した、が結局、ヤスコの言葉を信じなかったあの日のことを。
ヤスコは続けた。
「あなたは」――わたしも、「あの子を殺したのよ?」
彼女はきっと、その子の母親になりたかったのである。
「それでも想い出を、怒りに変えさせないで下さい」
(続く)




