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第五話:But don't look back in anger.(その7.5)

「ちがうわよ」


 金原ヒナノは言った。それでも、甘く美しい声のまま、


「ヤッちゃんには本当の想い出なんかない。あなたはいつも、清潔で、安全で、明るい場所にいて、わたし達みんなを外から観察して見てるだけ。ほかは全部、本や新聞なんかで読んだものばかり。あの日、からだを傷付けたのはわたし。男と本気で付き合って、傷付いて来たのもわたし。あなたは、それを知っている」


 それから彼女は、テーブルの上の冷え切ったココアをひと口飲むと、ヤスコが何かを言い出さないよう、彼女に右手を向けたまま、


「それから、」


 と言って続けた。甘く美しい声の中に、なにか黄色い猫の死骸のようなものがまざり始めていたが、それでも、


「それでも確かに。わたしはあなたとは違う噓つきかも知れない」


 と、それでもそれには、気付かないフリをして、


「それは自分でも分かっている。だけど、」


 声が途切れた。しかし、


「しかし、それでも、」


 彼女は続けた。ヤスコの目を見て、


「わたしの想い出も、本物なの」


 彼女を抱き締めたくなる想いを、必死で隠しながら、


「本気で、本物で、真実で、すばらしいの」


 それを想い出そうとしたことの、なにがいけなかったの?


 それからヒナノは、立ちかけていた腰をソファに戻すと、


「わかったわよ、ヤッちゃん」


 そう言ってから下を向き、


「なら、もう、わたしのことはほっといてちょうだい」


 そこに置かれた猫の死骸を、そっと見えないようにした。


「わたしの、想い出もね」


     *


『突然、彼は彼女を、彼が傷付けてしまったおさない少女を、見付けた。彼女は、高い塔の上にひとりで立っていた。彼女は、青銅色の手すりからあまりにも身を乗り出していたため、まるでそこから、そのまま空へと飛び立つつもりではないのかとさえ、彼には想われた。少女はつぶやいた。彼女の国の言葉で、この想いだけは、決して誰にも知られてはいけない。そう願いながら――』


 と、ここまで書いて樫山ヤスコは、キーを打つ手を止め、エアコンのスイッチを切った。すこし、肌寒さを感じたから。


 窓を開けると、雨のふり出す音と匂いが聞こえて来た。下の台所から、カレーの匂いが加わった。


 今日の晩ごはんは――まひろが来るので、本当はもっと豪華なものにしたかったのだが、それでも――例のゴタゴタで買い物が間に合わなかったのと、詢吾と江崎が自ら調理を買って出たこともあって、冷蔵庫にあったナスとジャガイモと鶏むね肉のカレーとなった。


     *


「いいからいいから、今日は俺たちに任せとけって」と、詢吾は妙に優しかったが――あー、それで雨が降り出したのね。「締め切り近いんだろ? サッサと書き上げて来いよ」


「サッサと書ければ、こんな貧乏してないだろうに」と、そう想いながらもヤスコは、「江崎くんも、ありがとね」と、なぜかそっぽを向いたままの彼に声をかけた。


「いえ、別に」ジャガイモをむきながら江崎は言った。


「さあ、行った行った」彼をかばうように、詢吾は姉を追い払った。


     *


『少女はつぶやいた。彼女の国の言葉で、この想いだけは、決して誰にも知られてはいけない。そう願いながら――』


 パソコンの画面を見直した。言い訳めいた空白が数行続き、前回書いて消しそびれた、消すことを惜しんでいる、一文が目にはいった。


「まるで、いつかの天使のように。」


 声に出して読んでみた。


 しばらく天井を見つめて考えた。


 自嘲的な笑いを起こす代わりに目を閉じた。


 それからしばらく考えて、ベッドにすわる少女に訊いた。「どう想う? これ?」


『「全然だな」』少女は応えた。胸のクリスタルを触りながら。


「全然? どこが?」ヤスコは続けた。


『「全部、全然」』少女は応えた。『「あんたがそう想いたいのは分かるけどさ、それは全然、あたしじゃない」』


「そっか」ヤスコは言った。目を開け、ふたたび画面に向きなおった。「やっぱり、そうよね」


 カチャカチャカチャカチャ、カチャカチャカチャ。


 と、いくつかのバックスペースでその一文を消した。そうして、そのままの勢いで、言い訳めいた空白部分と、その前の文章も消そうとして、


『「おいおいおいおい、ちょっと待てよ」』少女が彼女の手を止めた。『「そこは、残してもいいんじゃねえか」』


 その手の、おどろくほどの温かさにヤスコはふり返ると彼女は、


『「そこは、残しておいてくれよ」』そう、ささやくように続けた。『「そこは、とっても、あたしっぽい」』


     *


 さて。


 樫山ヤスコが抱える絶望――自分がつねに、自分が見ている人々や風景から孤絶し続けるであろう予感と確信については、すでに何度か書いたが、しかし、それでも、その絶望に対して彼女は、その短い作家生活の中で、次第に、自分はその一部になる必要はないのだ、と悟るようにもなっていた。


「一部になる必要はない」――むしろ彼らが、わたしの一部になってくれればよい。「そうすればきっと、未来に渡すことが出来る」


     *


 迷い込んだ裏路地。

 不意に現れた公園。

 花火の夜。


 仮面をかぶり、

 彼女の横を駆け抜けて行く少年たち。

 死者への花束を抱えた美しい老婆たち。


 とおい窓の向こうに聞こえる、

 賑やかなざわめき。


 お祭りの最終日に流れる自動ピアノ。

 それに続く、人々のわらい声。


 水面に沈んだ、一枚のコイン――あのコインは結局、だれの願いだったのだろう?


 そうして、


 雲が去った夜空に、


 彼女の手を取り見つけた、


 やわらかな月。


 そんなものたちを、


 風と時間がさらい、

 消し去って、


 誰の記憶から消えてしまったとしても、


 どうか、


 出来得るならば神さま、


 どうかわたしのこの文章が、


 その一部だけでも、


 いつかどこかの未来の誰かへ、


 つながって、くれますように。


     *


 ソフトを閉じ、パソコンの電源を落とした。


 推敲は、明日の朝にでもやろう。


 ただし、結末は変えずに。


 いつものとおりの尻切れトンボだから、南子ちゃんはさておき、本田さんからは嫌味のひとつも言われるだろうが、それでも、


「ゴメンね。わたしに書けるのは、これくらいなんだ」


 と言ってヤスコはふり返った。が、もちろんそこに少女はいなかった。ベッドの端が、すこしへこんでいるように見えたが、結局それも、彼女の気のせいだろう。


 くぅ。


 と突然、おなかの鳴る音がした。


 カレーのにおいが、強まったようだった。


 そうしてとっても、さみしい気がして、


「はやく、もどって来ないかなあ」


 とヤスコは、まひろの顔を想い出そうとしていた。



(続く?)



 ……



 …………



 ………………



 ………………………………「よろこべ! 姉貴!」



「よろこべ! 姉貴! 今夜はカツカレーだ!!」


「は?」ヤスコは訊き返した。一階に下りるなり詢吾が言って来たので、「鶏ムネ肉じゃないの?」


「まひろさんだよ!」詢吾は応えた。


「まひろ君?」


「カレーの具材で食べれないものある? ってメールしたら、「だったらとんかつでも買って帰りましょうか?」って。「ずっとおごって頂いてばかりですから」って!」


「はあ、」


「それもさー、あのひとさー、俺が日之出屋さんのロースとんかつでも食いたいって言ったの覚えててくれたっぽくってさー」


「あんた、そんなこと言ったっけ?」


「言ったじゃん。第三話『塔とペンギン』の (その2)でさあ」


「はあ、」


「いっやあ、あっのひと、ほっんといいひとだよな――」


 ピンポーン。


「って、ウワサをすればトンカ――じゃなかった、まひろさんだ! 俺! お出迎えしてくるな!!」


「はあ……」


「やっほー! おっかえりーー!! まっひろさーーーん!!!」



(続く?)



 ……



 …………



 ………………



………………………………「はー、食べた食べた」



「じゃあ、今日の執筆は順調だったんですか? ヤスコさん」


「順調って言うか、タイムアップぎりぎりで、なんとかかんとか形にしたって感じかな、まひろくん」


「あ、あのあの、ご、ごめん、まひろさん。こ、こ、これ、とんかつ、とんかつ、もう一枚のこってるんですけど――」


「あ、そうなんですよ、詢吾さん。お店の方に5枚入りの方がお得だって言われて買ったんですけど、僕はいいんで、よければ皆さんで――」


「マジっすか?! 姉貴は? いる? いらない? いらねえよな? 俺と江崎で分けていい?」


「もう、別にいいけどさ、もっとちゃんと、まひろ君にお礼言いなさいよ、あんた」


「もちろんもちろん、ありがとうございます、まひろさん――おい、江崎、最後の一枚は俺とお前で半分こだ」


「まったく……、ゴメンね、まひろ君、騒々しくて」


「いえ、全然、楽しくていいで――あ、そうだ」


「なに?」


「さっきのクリスタル」


「魔法使いのおばあさんの?」


「あ、いえ、なんか呪文みたいなのまで教えて頂きましたけど、当人はいたってふつうの方で、あくまで“魔法使いみたいな”ですけど――」


「でも、そこまで言われると、逆にいちど会ってみたいわね――本当に魔法使いだったりして」


「さすがにそれは……、あ、あったあった」


「それが問題の?」


「かなり高価な物っぽいんですけど、ほら僕、アクセサリーの類いは着けないんで」


「ああ、そう言われればそうね」


「だからよければ、ヤスコさんに持っておいてもらいたいんですけど――」


「えー、でも、わたしも――」


 と、ここまで言ってヤスコは、不意にその口を閉じ、ペンダントを見詰めた。断ろうとしたそのペンダントに、奇妙な既視感を覚えたからである。


「……どうかしました?」まひろが訊いた。


「あ、いや、」ヤスコは応えた。それでもそれを、やさしく、受け取りながら、「いや……、まさかね」


 それは、塔の上の少女が身に着けていた、あのクリスタルだった。



(続く)

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