第五話:But don't look back in anger.(その6)
『それはすばらしい、碧い水のような、傷ひとつ、気泡ひとつない、カットガラスのペンダントであった。そのペンダントの革紐が切られるとき、※※の首すじには、うすくほそい赤い傷が付けられた。最初彼は、その痛みに気付けなかったが、手に付いた血のあとを見て、果てしなく落ち込んで行くような、そんな喪失感を感じた――その喪失が何を意味するのかも分からず。突然、彼は彼女を、彼が傷付けてしまったおさない少女を見付けた。彼女は、高い塔の上に、ひとりで立っていた。そうして、青銅色の手すりからあまりにも身を乗り出していたため、まるでそこから、そのまま空へと飛び立つつもりではないのかとさえ、彼には想われた。そう。まるで、いつかの天使のように。』
と、ここまで書いて樫山ヤスコは、パソコンのキーを打つ手を止めた。両手の中指と紅さし指を、それぞれ左右の目に当てて、視神経を軽く圧迫させてから、「よし」とひと言つぶやきささやき、またふたたび、パソコンの画面へと入って行った。
『彼女は叫んだ。彼女の国の言葉で。それが彼に伝わらないことを、十分に分かった上で、「ごめんなさい」そうして、「でも、愛してるの」と』
と、ここでヤスコは、ふたたびキーを打つ手を止めると、ゆっくり立ち上がり、付けっぱなしのエアコンの設定温度を、すこし上げた。せまい部屋の真ん中で、畳の床を見つめて悩み、うすいため息をひとつ吐いてから、
「いやいやいやいや、いやいやいや」
ひとり自嘲し、机へともどって行った。
カチャカチャカチャカチャ、
カチャカチャカチャ。
バックスペースをいくつか押し、書いたばかりの数行を、そのままなかったことにした。
少女と彼の位置関係から、彼女の声は彼には届かず、仮に届いたとしても、これはあまりに、彼女らしからぬ行為であった。
「ごめんね」ヤスコはつぶやいた。「それでもあなたは、彼を愛してたのよね」――わたしには、それは分かっているからね、と。
*
ノリコとタカシ――巨大な彼女とホットコーヒーの彼――が仲良く、手に手を取って店を出て行くのを見届けてから、江崎と詢吾は追加の飲み物を注文しに行った。
カウンターのミスター不機嫌は、相も変わらずの不機嫌さではあったが、これも愛の力のなせる業なのか、ノリコとタカシの雰囲気に当てられたのでもあろう彼は、その口もとを、ほんのすこしではあるが、ニヤッと上げていた。それも、とても嬉しそうに。
アーッハッハ、ハッハッハ。
しばらくして詢吾が、とつぜん大きな声でわらった。
ノリコの真似をしたかったのだろうが、いかんせん、使い慣れない声帯部位を使ってしまったためだろう、途中でむせて咳き込んでいた。
「なにやってんだよ」江崎が訊いた。
「俺も当てられたのさ」詢吾は応えた。呼吸が整うのを待ってから、「さっきのふたりはもちろん、ここ数日の姉貴た――」
が、しかし、ここで、
ピンポーン。
と、この店の入店チャイムが鳴り、突然彼は、言葉を切った。左手人差し指を口に当て、江崎に黙るよう促しながら。
「どうした?」突然のことに江崎はおどろき訊いた。声のトーンを落としつつ、「いきなり?」
「いいから!」詢吾は応えた。「うしろは見るなよ」江崎の陰に頭を隠し、「いま、おんなのひとがはいって来た――冗談みたいだけど」
「おんなのひと?」ふたたび、江崎は訊いた。うしろをふり返ろうとして、
「だから、見るなって」と詢吾に止められた。
「どうしたんだよ?」と江崎はくり返し、
「冗談みたいだけどよ」と、詢吾もくり返した。「ヒナノさんだ」
「は?」
江崎はふり返った。それでも一瞬だけ。ゼラニウムの髪飾りと、野バラの花冠を想い出しながら。
「ウソだろ?」江崎はつぶやいた。
そこには、ヤスコの最初の恋人・金原ヒナノが、当時の美しさもそのままに、すっとひとりで立っていた。
*
ブブッ
と、それから程なくして、ベッドの上のスマートフォンが鳴った。
このときヤスコは、部屋の東側の窓辺に立ち、天井付きの火災警報器を見つめていた。
彼女はいま、先ほど消してしまった物語の結末、その代わりとなるナニカ、彼と彼女の悲しい別れを、なんとか、ほんの少しでも、より希望のあるものに出来るナニカ、を必死で作り上げようと、想い出そうとしていた――自身の才能の無さを痛感しながら。
「まるで、いつかの天使のように。」
ヤスコはつぶやいた。塔の上に立ち、手すりから身を乗り出す彼女、これは捨てられないし変えられない。もちろん、バスを待つ彼と、濃い霧に包まれたあの日の街並みも――なぜなら、これらは事実だから。
「まるで、いつかの天使のように。」
ふたたびヤスコはつぶやいた。もちろん、この一文も捨てられないし変えられない――なぜなら、これは真実だから。
彼女は、叫ばない。
それは、彼女ではない。
彼女は、飛び降りない。
それも、彼女ではない。
彼女は、彼を愛していた。
それは、たしかな真実だ。
塔の上に立つ彼女が見える。
「まるで、いつかの天使のように。」
それも、たしかな真実である。
ふたたび、自身の才能の無さに打ちひしがれながら、ヤスコは机にもどった。
「小説の中の女の子ひとり、しあわせにしてやれなくて、なにが小説家よ」
霧の向こうの少女を想い、ヤスコは目に涙を溜めた。
ベッドの上のティッシュを取ろうとして、メールの着信に気付いた。
気分転換のつもりでそれを見ようとして、彼女は腹を立てた。
「この人は、いつもこうだ」
別れて、いや連絡を取らなくなって、どれくらい時が経ったのか、ヤスコ本人ももうワケが分からなくなっていた。
が、彼女は、いつもどおりに安全で、また、好きなときにヤスコのもとを去ることが出来る場所に立ち、そうして、冷え切った、オートミールのような表情で、ヤスコに救けを求めて来るのであった。
(続く)




