第三話:塔とペンギン(その6)
「ねーねー、ここのお風呂さあ、なんかジャグジーにもなるらしいよ、ジャグジー!」
と、バスルームから飛び出しながら杏奈ニアは言った。たいへん興奮した様子で、
「私、ジャグジーの本物、はじめて見たかも」
それから彼女は、その勢いのまま、なぜか玄関先まで走って行くと、かなり大きめの声で、
「だって! ジャグジーよ?!」
そう叫んだ。
それから今度はまるで、残業帰りの会社員が、玄関に戻るなり倒れこみ、
「ああ……、今日もつかれた……」
と言ってスーツを脱いでは、きっついストッキングを引っぺがすマネをすると、
「こんな日には……、やっぱり……、ジャグジーよね……」
と、床を這い這い風呂場に直行、
「はぁー、極楽、極楽」
と、ひとっ風呂浴びた感じになると、今度はリビングに出現。タオルで髪を乾かすフリをしつつ、
「それでさ、からだがほぐれて温まったらさ、バスローブ一枚のままでさ、」
リビングを横切り、ひろびろとしたシステムキッチンへと移動。
カチャッ
「と備え付けの冷蔵庫を開くと、そこには冷えた缶ビールが置いてあるワケよ、何本も」
プシュッ
と、その架空の缶ビールを片手で開け、
ドサッ
と、こちらも架空のリビングソファに身をしずめるニア。
ゴクゴクゴクゴクッ
「プッハー、ってさ」
と言ってまわりを見る。満足そうな顔で、
「さいっこうじゃない?」
が、これもすべては、所詮架空なので、
「お前も、酒は飲めないだろうが」
と、ジアに言われることになる。
「あんまりはしゃぐな」
それから、
「山岸さんも、困ってるだろうし」と。
するとここでニア、架空のソファから立ち、架空のタオルとバスローブを脱ぎ散らかすと、
「なによ山岸、まだ決められないの?」そうまひろに訊いた。もとの夏服にもどって、「こんないいとこにタダで住めるってのに、なにを悩むことがあるのよ」
しかし、この質問に山岸まひろは、ふたたび、なんだか、浮かない、困ったような表情をすると、ニアではなくヤスコの方に顔を向け、
「それでもやっぱり、なんだか落ち着かない感じしません?」
「それは新しい部屋だからでしょ?」とニア。いつの間にやらヤスコの背後に回り込み、「住みだしたら、すぐに慣れるわよ」と、彼女の肩から顔を出しつつ言った。
「ひとりには広すぎますし」とまひろ。
「荷物置いたら変わるって」とニア。
「景色も、どうも広々とし過ぎているような」
「こんな絶景、なかなか手にはいらないわよ」
「29階ともなると、いざという時の不安が」
「パンフ見たけど、耐震とか災害対策もばっちりだって」
「いちいち降りたり上がったり」
「エレベーター一瞬だったじゃん」
「ご近所さんも、どんな感じの方々か」
「そう言えばこの階、ここ入れても三部屋だけなんだって。きっとリッチなひとばっかりよ、住んでるの」
「でも……」
「だからあ」
「それでも」
「それはさー」
「あーでもない」
「こーでもない」
と、ふたりの問答は続くのだが、最後には、
「うーん?」と、言葉に詰まるまひろにニアが、
「もうめんどくさいわね」と、しびれを切らせた感じで訊いた。「だったら、どんな家ならいいのよ」
すると、ここで山岸まひろは、
「それは、その」とつぶやいてからふたたび、ニアではなくヤスコの方を向いた。けさ見た白い花を想い出すように、「ヤスコ先生の、お宅のような」
「うち?!」
と、おどろいたのはヤスコである。
突然のことにふき出しそうになりながら、しかしそれでも、まひろの真剣な目にそれを止めながら、それでもやっぱり、すこしおどろいて、
「だってあんなの、築云十年の、ただのおんぼろ屋敷よ?」
それでも――、
「それでも、」と、まひろは答えようとし、
「あー、それはちょっとわかるかも」と、代わりにニアがそれに応えた。「落ち着くもんね、あのお家」
それから彼女は改めて、くるりと部屋を見回すと、
「たしかに。あっちの方が落ち着くかも」
そう言って、自分が出した架空のビールやソファや大型テレビなんかを消し去って行った。それから、
「あと、ここ、地面から遠すぎるもんね」と、ある架空の土地に伝わる、ある架空の歌を想い出しながら、「ゴンドアの谷の歌にもあるじゃない」
*
『その地に根をおろし、
風とともに生きよう。
種とともに冬を越え、
鳥とともに春を歌おう。』
*
「……って」そう感慨深げにニアは言ったが、
「だからニア」と、横からジアにツッコミを入れられた。「このお話で、そのネタは止めろ」
(続く)




