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昨日の僕はもういない  作者: 不可思議ラボ


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5/7

第5話 元の世界に戻れば、312人の僕が消える

「やっと312回目だ」

運転席の高橋が言った。

僕は動けなかった。

さっきまで隣にいた高橋は

消えている。

目の前にいる高橋は

同じ顔をしていた。

でも何かが違う。

疲れ切っている。

髪には白いものが混じり

頬も痩せていた。

「312回目って

どういう意味だ」

高橋は答えない。

代わりに

白いバスの扉を開けた。

「乗れ」

「どこへ行く」

高橋が

行き先表示を見る。

ORIGIN。

「お前が最初にいた世界だ」

胸が高鳴った。

戻れる。

昨日までの人生へ。

営業成績最下位。

貯金十二万円。

上司から怒鳴られ

誰にも期待されない毎日。

それでも

僕の人生だった。

僕は一歩

バスへ近づいた。

その瞬間。

頭の中で

声がした。

『乗るな』

足が止まる。

『帰るな』

『また始まる』

『俺たちを消すな』

一つじゃない。

何百もの僕の声。

312人の記憶が

僕の中にいる。

「黙れ……」

頭を押さえる。

高橋は

黙って見ていた。

「聞こえるのか」

僕は顔を上げた。

「知ってたのか」

「ああ」

「312人は

どうなった」

「お前になった」

高橋が答える。

「消えたわけじゃない」

「記憶も能力も

選択した人生も」

「全部お前の中にある」

だったら

僕はもう

僕なのだろうか。

医師だった僕。

経営者だった僕。

結婚した僕。

独身だった僕。

老人になった僕。

若くして死んだ僕。

断片的な記憶が

頭の中を流れていく。

その中に

美咲がいた。

娘の結衣。

二人と笑っている僕。

胸が痛んだ。

あれも

誰かの人生だった。

作られた記憶じゃない。

312通りの世界で

本当に生きていた僕だ。

「ORIGINへ戻れば

どうなる」

僕は聞いた。

高橋が

初めて目を逸らした。

「答えろ」

「統合された可能性が

確定する」

「どういう意味だ」

高橋は

ゆっくり答えた。

「今はまだ

312の世界が存在している」

「お前がORIGINへ戻れば

一つだけが現実になる」

嫌な予感がした。

「残りは?」

沈黙。

それだけで

答えは分かった。

「消えるのか」

高橋は頷いた。

312の人生。

312の世界。

僕が帰るだけで

そのすべてが消える。

「そんなこと

聞いてない」

「だから今まで

誰も帰れなかった」

今まで?

「待て」

僕は高橋を見る。

「312回目って

何なんだ」

高橋は

ハンドルを握った。

「お前は毎回

ここまで来る」

背筋が冷たくなる。

「312人を統合して

最後の一人になる」

「そしてORIGINを

目の前にする」

「そのたびに

同じ質問をする」

僕は言葉を失った。

「じゃあ」

「前にも僕は

ここにいた?」

「ああ」

「311回」

頭の奥で

何かが弾けた。

一瞬。

見覚えのない光景。

この白いバス。

運転席の高橋。

そして

座席に座る僕。

何度も。

何度も。

同じ場所。

「どうして

覚えてない」

高橋が答える。

「毎回お前が

捨てているからだ」

「何を?」

「記憶を」

高橋が

運転席の横を指した。

小さな装置がある。

赤いボタン。

その上に

文字が書かれていた。

『再分岐』

「世界を消したくないと

お前は毎回言う」

「だから帰らず

再分岐を選ぶ」

「312の可能性を

もう一度分け直す」

僕は装置を見る。

「それで

また最初から?」

「そうだ」

「記憶は初期化される」

「お前はまた

どこかの世界で目を覚ます」

胸が苦しくなった。

終わらない。

僕は311回も

同じことを繰り返した。

「じゃあ高橋は?」

「なぜ覚えてる」

高橋は笑った。

「俺は候補じゃないからだ」

第3話から

引っかかっていた。

312人は全員僕。

なのに

高橋だけがいる。

「お前は何なんだ」

高橋は

しばらく黙っていた。

そして

胸ポケットから

古い社員証を出した。

僕と同じ会社。

高橋直樹。

営業部。

そこまでは

知っている。

しかし

裏面を見て

息が止まった。

日付がある。

四年前。

あの光が起きた日。

その下に

赤い文字。

『死亡』

「……死んでる?」

高橋は頷いた。

「最初の光でな」

記憶が

一気に流れ込んだ。

四年前。

出勤バス。

僕の隣には

高橋がいた。

僕たちは

営業成績を競っていた。

でも僕は

高橋に勝てなくなっていた。

焦っていた。

もっと上へ。

もっと成功したい。

そして僕は

怪しい実験に参加した。

別の可能性を歩んだ

自分を観測する実験。

装置は

スマホほどの大きさだった。

僕はそれを

バスの中で起動した。

白い光。

悲鳴。

バスが揺れる。

そして

高橋が僕を

突き飛ばした。

「止めろ!」

その直後。

強烈な光。

記憶が途切れた。

僕は

運転席の高橋を見る。

「僕が殺したのか」

「違う」

高橋は即答した。

「事故だった」

「でも原因は僕だ」

高橋は何も言わない。

僕はようやく理解した。

だから高橋だけ

この場所にいる。

僕が作った異常の

最初の犠牲者。

「じゃあ

成績最下位だった僕は?」

ずっと気になっていた。

第1話の僕。

成功とは程遠かった。

高橋は

少しだけ笑った。

「あれが一番

ORIGINに近いお前だ」

「え?」

「最初のお前は

実験のあと変わった」

「俺が死んだことで

成功を求めるのをやめた」

胸が締めつけられた。

「会社でも

数字を追わなくなった」

「出世もしなかった」

「成績も落ちた」

だから。

最下位。

あの惨めだと思っていた人生。

それは

失敗した僕ではなかった。

高橋を死なせたことを

どこかで抱えながら

成功から降りた僕だった。

「じゃあ最初から

あの世界にいれば」

高橋が首を振る。

「無理だった」

「なぜ?」

「お前は忘れていたからだ」

その言葉で

第1話を思い出した。

光を見た瞬間。

僕は別世界へ

移動したと思った。

でも違う。

あの光より前から

すでに異常は続いていた。

「最初の光って」

僕は聞いた。

「四年前じゃないのか」

高橋が答える。

「最初は四年前だ」

「でもお前が

第1話で見た光は」

そこで言葉を止めた。

「何だよ」

「再分岐の光だ」

身体が震えた。

つまり。

物語が始まったあの朝は

始まりではなかった。

312回目の

やり直しだった。

僕はバスの

赤いボタンを見る。

『再分岐』

押せば

312の世界は残る。

僕の記憶は消える。

そしてまた

最初から。

ORIGINへ帰れば

このループは終わる。

でも

311の世界が消える。

高橋が言った。

「選べ」

「今度こそ」

僕はボタンを見る。

次に

バスの奥を見る。

ORIGIN。

二つの選択。

そのとき

頭の中で

女の子の声がした。

『パパ』

結衣だった。

記憶の中で

僕の手を握っている。

別の声。

『先生』

医師だった僕が

救った患者。

さらに別の声。

妻。

友人。

同僚。

312人の僕が

それぞれ作った人生。

世界が違っても

そこにいる人間は

本物だ。

消せない。

僕は

赤いボタンへ手を伸ばした。

「またやるのか」

高橋が聞く。

「分からない」

指が震える。

「でも

311回の僕が

同じ選択をした理由は分かる」

ボタンまで

あと数センチ。

そのとき。

古いスマホが鳴った。

画面を見る。

動画が一件。

撮影者。

『高橋直樹』

高橋を見る。

顔色が変わっていた。

「再生するな」

初めて

高橋が慌てた。

僕は再生した。

映っていたのは

四年前のバス。

若い僕。

そして

若い高橋。

二人が話している。

音声は小さい。

スマホを耳へ近づけた。

そこで

僕は聞いてしまった。

若い高橋が言う。

「本当にやるのか?」

若い僕が答える。

「ああ」

「312の世界から

一番成功した俺を探す」

高橋が聞く。

「失敗したら?」

若い僕は笑った。

「そのために

お前がいるんだろ」

僕は映像を止めた。

高橋を見る。

「どういう意味だ」

高橋は答えない。

動画を再生する。

次の言葉。

若い僕が

はっきり言った。

「観測者は

一人必要なんだ」

そして

高橋の肩を叩く。

「お前だけは

どの世界にも

分岐させない」

動画が終わった。

僕は

運転席の高橋を見る。

今まで考えていた。

高橋は犠牲者。

僕は加害者。

でも

それだけじゃない。

「高橋」

僕は聞いた。

「お前は本当に

死んだのか?」

高橋は

ゆっくり僕を見た。

そして初めて

笑った。

「やっとそこまで

思い出したか」

白いバスの扉が

勝手に閉まった。

行き先表示が変わる。

ORIGINではない。

『OBSERVER』

観測者。

高橋が

エンジンをかけた。

「次は」

「俺の世界だ」

バスが

暗闇へ走り出した。

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