第3話 消えた乗客は、僕のことを知っていた
会社へ行くな。
動画の警告を
僕は守ることにした。
午前7時30分。
高層マンションの
リビングに座っていた。
カーテンは閉めた。
スマホの電源も切った。
今日は外へ出ない。
バスにも乗らない。
会社にも行かない。
午前8時03分を
ここで迎える。
それなら
何も起きないはずだ。
古いスマホを
テーブルへ置く。
昨日見た社員名簿。
置換順位。
僕は2位だった。
そして最後に
数字が1へ変わった。
次に消えるのは
僕なのかもしれない。
時計を見る。
午前7時58分。
あと五分。
静かだった。
美咲はすでに
娘を連れて出かけていた。
今日だけは
一人でいたかった。
午前8時01分。
何も起きない。
8時02分。
僕は息を止めた。
そして
8時03分。
光は来なかった。
時計の秒針だけが
静かに進んでいる。
「……やった」
思わず声が出た。
世界は変わっていない。
僕はまだここにいる。
やっぱり
あのバスが原因なんだ。
そう思った瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
身体が固まった。
誰だ?
モニターを見る。
誰もいない。
もう一度鳴る。
恐る恐る
玄関へ近づいた。
ドアは開けない。
「どちら様ですか」
返事はない。
そのとき
ドアの下から
何かが差し込まれた。
一枚の紙だった。
拾い上げる。
バスの整理券。
そこには
数字が印刷されていた。
『1』
背筋が冷たくなった。
その裏に
手書きの文字がある。
『欠席はできない』
直後。
部屋の照明が消えた。
テレビ。
冷蔵庫。
時計。
すべて止まった。
窓の外を見る。
街まで止まっている。
道路の車。
歩いている人。
空を飛ぶ鳥。
すべてが
静止していた。
僕だけが動いている。
そして
遠くから聞こえた。
エンジン音。
ブロロロロ。
ありえない。
二十一階だ。
それなのに
音は近づいてくる。
エレベーターの
到着音が鳴った。
チン。
僕は玄関から離れた。
廊下の向こうで
低い音が響いている。
エンジン音だった。
ドアの隙間から
青白い光が漏れる。
古いスマホが震えた。
画面を見る。
一行だけ
表示されていた。
『乗車してください』
「ふざけるな」
僕は呟いた。
すると
表示が変わった。
『乗車しない場合
現在地を停留所に変更します』
意味を理解した瞬間。
部屋が揺れた。
壁に
黒い線が走る。
一本。
二本。
無数に増える。
まるで部屋そのものが
割れ始めている。
僕は玄関を開けた。
そして
言葉を失った。
廊下がなかった。
マンションの外に
道路が続いていた。
二十一階のはずなのに。
目の前には
昨日のバス。
扉が開いている。
車内には
誰もいない。
運転席にも
人はいなかった。
電光表示には
文字が出ている。
『1人』
逃げられない。
そう理解した。
僕はバスへ乗った。
扉が閉まる。
同時に
マンションが消えた。
窓の外は
真っ暗だった。
道路すら見えない。
バスだけが
暗闇を走っている。
僕は一番前の席へ座った。
古いスマホを見る。
午前8時03分。
時間が進まない。
一分経っても
8時03分。
さらに一分。
変わらない。
そのとき
車内アナウンスが流れた。
『次は
第六停留所』
聞いたことがない。
バスが減速する。
暗闇の中に
バス停が現れた。
扉が開く。
誰かが立っていた。
男だった。
四十代くらい。
スーツ姿。
顔色が悪い。
男は僕を見るなり
目を見開いた。
「お前……」
知っているのか?
「誰ですか」
男の表情が
怒りに変わった。
「ふざけんな!」
男がバスへ乗り込む。
そして
僕の胸ぐらを掴んだ。
「お前のせいだろ!」
「何の話ですか」
「俺を戻せ!」
必死に腕を振りほどく。
「知らないですよ!」
男が止まった。
僕の顔を見る。
「……覚えてないのか」
「何をですか」
男はゆっくり
手を離した。
そして笑った。
乾いた笑いだった。
「そういうことか」
男は座席へ座った。
僕も距離を取って座る。
「あなたは誰なんですか」
しばらく沈黙。
男が答えた。
「18人の一人だよ」
息が止まった。
最初の数字。
18。
「あのバスに
乗ってたんですか」
「ああ」
「じゃあ
消えた六人って」
男は僕を見る。
「六人?」
「動画で
そう言ってました」
男の顔から
笑みが消えた。
「まだ六人だと
思ってるのか」
「違うんですか」
男は窓の外を見た。
暗闇しかない。
「17人だ」
耳を疑った。
「何?」
「お前以外
全員消えた」
頭が真っ白になった。
18人。
15人。
11人。
6人。
3人。
1人。
減っていたのは
世界ごとの乗客。
最後に残ったのが僕。
そう思っていた。
「でもあなたは
ここにいる」
僕が言うと
男は首を振った。
「ここにいるからって
元の世界にいると
思うのか?」
男はスマホを取り出した。
画面が割れている。
一枚の写真を見せられた。
会社の集合写真だった。
中央に
僕がいる。
その横に
この男が立っていた。
「あなた
同じ会社だったんですか」
「同期だよ」
「嘘だ」
見たことがない。
男は写真を拡大する。
僕の胸元。
社員証には
見覚えのある会社名。
間違いない。
「俺たちは
同じ日に入社した」
男が言う。
「最初の世界では
お前と俺は
営業成績を競ってた」
「待ってください」
「お前はずっと
最下位だったんじゃない」
心臓が強く鳴った。
「最初は
トップだった」
理解できない。
僕は最下位だった。
毎日怒鳴られていた。
それが
僕の記憶だ。
「じゃあなんで」
声が震える。
「僕は覚えてない?」
男は答えなかった。
代わりに
別の写真を見せる。
営業成績ランキング。
1位。
そこには
僕の名前。
2位。
男の名前。
写真の日付は
四年前だった。
「最初の光が起きた日」
男が言う。
「俺たちは
このバスに乗ってた」
「その日から
世界がおかしくなった」
「世界を移動した?」
僕が聞く。
男は首を振った。
「俺も最初は
そう思ってた」
やはり。
「でも違った」
男が僕を見る。
「世界は一度も
移動してない」
意味が分からない。
「じゃあ何が
変わってるんですか」
男は
僕を指さした。
「お前だよ」
車内が静まり返る。
「光が起きるたび
別の世界のお前が
こっちへ来てる」
「今のお前も
最初のお前じゃない」
僕は笑った。
「そんなわけない」
「じゃあ聞く」
男が身を乗り出す。
「子供の頃の記憶を
一つ言ってみろ」
「は?」
「小学生の頃でいい」
答えようとした。
夏休み。
運動会。
修学旅行。
何かあるはずだ。
でも
思い出せない。
「中学校は?」
学校名は分かる。
でも教室が
思い浮かばない。
「高校は?」
同じだった。
記録としては知っている。
でも
思い出がない。
男が言った。
「今のお前には
この世界に来る前の
記憶しかない」
背中に
冷たい汗が流れた。
そんなはずはない。
僕は僕だ。
「じゃあ
最初の僕はどこに?」
男は黙った。
その瞬間
バスが急停止した。
照明が赤く変わる。
車内アナウンス。
『第七停留所に
到着します』
男の顔色が変わった。
「まずい」
「何が?」
男が立ち上がる。
「ここで降りろ」
「どうして」
「いいから!」
扉が開いた。
外には
巨大な駐車場があった。
同じバスが
何十台も並んでいる。
いや。
何百台。
そのすべてに
一人ずつ男が乗っていた。
全員
僕だった。
スーツの僕。
学生服の僕。
白衣を着た僕。
作業着の僕。
老人になった僕。
そして
一番奥のバス。
その中に
昨日までの僕がいた。
成績最下位。
上司に怒鳴られ
十二万円しか
持っていなかった僕。
窓越しに
目が合った。
そいつは
必死に何か叫んでいる。
声は聞こえない。
でも
口の動きだけは読めた。
『そいつを信じるな』
僕は隣の男を見る。
男は青ざめていた。
「違う」
男が呟く。
「予定より早い」
「何が?」
駐車場の照明が
一斉に点灯した。
何百人もの僕が
同時にこちらを見る。
そして
古いスマホが震えた。
画面に
新しい表示。
『候補世界 312』
『候補個体 312』
『統合まで』
『残り4日』
僕は画面を見つめた。
パラレルワールドを
移動している。
そう思っていた。
でも違う。
312の世界から
312人の僕が
ここへ集められている。
では
最後に残るのは誰だ?
画面に
最後の一文が現れた。
『最終個体のみ
現実へ帰還できます』
その瞬間
何百台ものバスの扉が
一斉に開いた。




