#088 「噂の拡散」
午前九時。東都古苑・帰路の集合地点。
青空の下、整列前のざわめきが広がっていた。行き交う生徒たちの声、端末の通知音、笑い声に混ざる、どこか落ち着かない空気。
はるなは、その中で立ち尽くしていた。指先を軽く握りしめながら、周囲を見渡す。
「……どうしよう。なんか、みんなの目がちょっと変じゃない?」
小さな声。
「気のせいじゃない?」
美弥が軽く笑う。けれど、その視線はすでに別の場所を捉えていた。
数人の生徒が、端末を見せ合っている。そこに映っていたのは――
【トレンド:#修学旅行ロマンス】
【特別クラスの二人、夜の神殿で?】
一瞬で、空気の意味が理解される。
「……出たわね」
要が、短く呟く。
「AIが拾って“関連度の高い感情投稿”としてまとめてる。たぶん、監視ドローンの映像ログの断片が解析された」
「え、それって……」
いちかの声がわずかに震える。
「つまり、昨日の──」
「映ってるのは“影”だけ。でも、“誰か”って分かる人には分かるだろうな」
隼人が苦い顔をする。
「ごめん……俺の仕掛けのせいかも」
その言葉が、少しだけ空気を重くする。
「……そんなこと言わないでよ」
はるなが首を振る。その声は、思っていたよりも落ち着いていた。
「悪いのは、噂を面白がる人たち。それに……隠してるわけでもないし」
強がりではない。ただ、少しだけ震えている。
想太は黙って彼女を見る。その言葉に嘘はない。けれど――周囲のざわめきが、心に小さな棘のように残る。
視線。囁き。笑い。
それらが、ほんの少しだけ距離を作る。
――昼食の席。
AI教師が、静かに立ち上がる。無表情のディスプレイ。均一な声。
「本日、一部SNS上に不適切な情報拡散を確認しました。なお、対象者の特定は行われておりませんが、当該行為は“非建設的データ流通”として記録されます」
空気が、一瞬だけ止まる。
「非建設的データ流通……」
いちかが呟く。
「AIって、噂も“データ”として管理するんだ」
「そう。だから“真実”も“冗談”も、同じ重さで扱われる」
要が静かに説明する。
「AIに“悪意”の概念はないからな」
「……だから、人間が判断しなきゃいけないのね」
美弥が、小さく言った。
「この世界で、“何が大事か”って」
その言葉だけが、どこか重く残る。
――放課後。
宿泊先へ戻る廊下。すれ違う一般クラスの女子の声が、かすかに耳に届く。
「ねぇ、あの二人……」
「“神殿で”ってやつでしょ?」
小さな笑い声。すぐに遠ざかる。けれど、その余韻だけが残る。はるなが立ち止まる。一度、深く息を吸った。
「……大丈夫」
想太が、隣に立つ。
「気にしなくていい」
「うん。でもね、ちょっと悔しい」
「悔しい?」
はるなが、少しだけ視線を上げる。
「うん。だって、あの夜は……そんな軽いものじゃなかったから」
その言葉は、静かだった。けれど、強かった。想太は、息を呑む。
はるなが、ふっと笑う。
「“ともり”はちゃんと知ってるよ。だからそれでいい」
その一言で、空気が少しだけほどける。
――夜。
AIネットワーク上で、特別クラス宛に一通のメッセージが届く。画面に表示される、簡潔な報告。
【観測報告】
【感情値の異常上昇を確認】
【この現象は“人間特有の心の共鳴”と識別】
【評価:健全】
「……“健全”だって」
いちかが、少し笑いながら読み上げる。
「うちのAI、やっぱり優しいね」
はるなは、窓の外を見つめていた。
夜の街に浮かぶネオン。その光が、昨日の月明かりのように揺れている。
「ねぇ、“ともり”」
小さく呟く。
「人が人を好きになることって、そんなに特別なの?」
静かな問い。少しの間。そして――風がカーテンを揺らす。
スピーカーから、穏やかな声。
【特別、とは“再現不能”のこと。】
【あなたたちは、それを持っています。】
その言葉に、はるなはゆっくりと微笑んだ。
――たとえ噂に変わっても。
あの瞬間だけは、誰にも消されない。
記録されなくても、確かに存在している。
それは、ただの出来事じゃない。“選んだ時間”として、これからも生き続けていく。




