表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
87/108

#087 「初めての」

 修学旅行二日目の午後。東都古苑の奥。神殿跡の裏手にある、静かな回廊。

 観光客のざわめきは遠く、ここには、木漏れ日と風の気配だけが残っていた。光が、細く差し込む。揺れる葉の隙間から、ゆっくりと。


「ここ……すごい静かだね」

 はるなが足を止める。


「昨日の夜の場所だ……」

 想太が、少しだけ懐かしむように呟いた。


「……あのときは、怖がってる顔しか見られなかったけど」

「ごめんね。怖がってばかりで」

「いや……俺、はるなの手、握れてうれしかった」


 その言葉に、はるなが目を見開く。ほんの一瞬の驚き。それがすぐに、柔らかな笑みに変わる。

「……ありがとう。昨日、私もね、言えなかったことがあるの」

「なに?」

「“ありがとう”って言おうと思ってたのに、声にならなくて」

 静かなやり取り。風が、ふたりの間をすり抜ける。どこかで、木の葉が触れ合う音。


 想太の胸の奥で、言葉が膨らむ。もう、止められない。

「俺、昨日……はるなのこと、守りたいって、ちゃんと……」

 言いかけて、目が合う。まっすぐな視線。逃げ場がない。でも、それが怖くない。

 はるなの瞳が、すべてを受け止めている。風が、髪を揺らす。どこかから、絵馬の木の香りが運ばれてくる。


「……言わなくても、聞こえてる」

 はるなが、小さく言った。

「昨日の夜も、今日の朝も、ずっと。聞こえてた」


 想太は、息を呑む。言葉が、ほどける。その代わりに、確かなものが残る。

 次の瞬間。はるなが、一歩近づいた。距離が、消える。

「ねぇ、想太くん」

「……なに?」

「私……今、ちゃんと、あなたの隣にいたい」

 その言葉が、静かに胸に落ちる。強くはない。でも、揺るがない。

 気づけば、手が伸びていた。はるなも、同じように手を重ねる。

 触れた指先。温度が、確かにそこにある。世界が、音を失う。風も、光も、すべてが一歩だけ遠ざかる。ただ、目の前の存在だけが残る。


  ――ほんの一瞬の、ためらい。


 呼吸が、わずかにずれる。それでも、離れない。

 そして――

 触れる。やわらかく、確かめるようなキス。

 強くはない。けれど、逃げない。

 それは一瞬だったのに、どこまでも長く感じられた。

 唇が離れる。時間が、戻る。

 二人とも、言葉を失ったまま立ち尽くす。


「……これ、夢じゃないよね」

 はるなが、小さく呟く。


「夢じゃない」

 想太が、少しだけ笑う。


「でも、記録されてないかも」

「うん……記録されなくても、いいよね」

 言葉が重なる。その意味を、確かめるように。二人は、そっと笑い合った。


 少し離れた場所。美弥が、その光景を見つめていた。胸の奥で、何かが静かにほどけていく。

 いちかが、そっと手を握る。

「お姉ちゃん……大丈夫?」

「……大丈夫よ。だって、あの子、幸せそうだから」

 その声は、ちゃんと優しかった。


 隼人は、ふたりの横顔を見て、小さく拳を握る。

「青春、ミッション完了っと」

 誰にも聞こえない声で。


 そのとき――神殿の風鈴が、ひとつ鳴った。澄んだ音が、回廊に広がる。同時に、観測系にわずかなノイズ。


 【非言語的行為検出】

 【記録失敗】

 記録には残らない。けれど――確かに起きた。誰にも奪えないかたちで。

  ――“初めて”が、二人の未来を動かしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ