#083 「夜の旅館」
「はぁ〜、やっと着いたぁ……!」
畳の上に、大の字になって倒れ込むいちか。その衝撃で、布団がふわりと揺れた。
旅館の部屋は八畳ほど。木の柱と白い障子が、柔らかな光を受けて静かに佇んでいる。窓の外には、ライトアップされた古苑の庭園。池の水面が淡く揺れ、石灯籠の灯りがゆっくりと滲んでいた。
「いちか、布団しわになるわよ」
美弥が苦笑しながら声をかける。その声も、どこか少しだけ柔らかい。
浴衣姿のはるなは、そのやり取りを見てふっと笑った。袖が揺れるたびに、かすかに布の擦れる音がする。
「なんか……修学旅行って感じするね」
「そうだね。こういうの、久しぶりに“普通の学生”みたい」
はるなの言葉に、美弥の表情が一瞬だけやわらぐ。
「“普通”か……いい響きね」
ほんの少しだけ遠くを見るような目。
「お姉ちゃん、しみじみ言わないでよ〜!」
いちかが笑いながら、美弥の膝に頭を乗せる。畳の匂いと、微かな木の香りが混ざる。
「ちょ、ちょっと……!」
「いいじゃん、今日くらい甘えたい〜。ねぇ、はるなさん?」
上目遣いで見上げるその顔に、はるなは思わずくすっと笑った。
「ふふ、仲良し姉妹だね」
「でしょ?」
「違うわよ。私はいちかの姉であって、あなたのじゃない」
美弥が顔をそらす。その頬が、ほんのりと赤い。
「でも、なんか照れてる~」
「照れてない!」
「はいはい、照れてる照れてる」
軽い言い合いが、部屋の空気を温めていく。
その様子を見ながら、はるなは静かに目を細めた。
(こうして笑っていられるのって……なんだか幸せだな)
畳の上に広がる、穏やかな時間。外の世界とは少しだけ切り離されたような、柔らかな夜。
――その頃、男子部屋。
「いや〜、女の子の声、めっちゃ聞こえるな」
隼人が壁に耳を当ててニヤニヤしている。障子越しに漏れる声が、かすかに届いていた。
「おい、やめろって」
想太が枕を投げる。柔らかな音とともに、見事に命中した。
「ほらな、そういうところが青春だよ」
「どんな理屈だよ……」
「要もそう思うだろ?」
「……まあ、楽しそうではあるな」
要は読書用端末を静かに閉じる。その画面の光が消え、部屋は一段と落ち着いた色になる。
「でも、ああやって笑っていられるのは、守られてるからだ」
その言葉だけが、少しだけ重く落ちた。
「またそれか」
隼人が天井を見ながら呟く。
「そういうの、もう少し軽く言ってくれよ」
「軽くするには、まだ僕たちが子どもすぎる」
静かな声。
その言葉に、想太はふと黙り込んだ。
(子ども……か)
頭の中に浮かぶのは、はるなの笑顔。無邪気で、でもどこか大人びていて。近いはずなのに、まだ触れきれない距離。その距離の測り方が、わからない。
「……想太?」
「ん、ああ。ちょっと考えごと」
「恋のことだな」
隼人のにやりとした顔に、枕が再び飛んだ。
「うるさい!」
「はいはい、青春、青春!」
要が静かに笑う。その穏やかさが、部屋の空気を少しだけ軽くした。
夜が更ける。廊下の灯りが、ひとつずつ落ち着いていくころ。
はるなは、そっと部屋を抜け出した。足音を忍ばせながら、窓辺へと向かう。
庭園の池には、月の光が揺れていた。風がそっと吹き込み、畳の匂いを運んでくる。
その静けさの中で、胸の鼓動だけが少し速い。
そのとき――廊下の向こうに、人影が現れる。
「……想太くん?」
同じように外を見に出てきた想太と、目が合った。少しだけ驚いたように、それからどこか安心したように。
「眠れなくてさ」
「私も……ちょっと、胸がドキドキして」
言葉にしてしまうと、少しだけ照れくさい。
「そりゃあ、今日いろいろあったしな」
短い会話のあと、沈黙が落ちる。二人の間を、静かな夜風が通り抜ける。遠くで水の揺れる音が、かすかに響く。
言葉にしなくても、伝わってしまう。そんな距離。
「ねぇ、明日も楽しもうね」
「……ああ。約束」
ほんの少しだけ笑い合う。その笑顔は、昼間よりもずっと静かで、どこか大人びて見えた。
やがて二人は、それぞれの部屋へ戻っていく。その背中を――廊下の角に設置された観測ユニットが、静かに捉えていた。
小さな光が、わずかに瞬く。
――記録ログ:
『005-005/東都古苑旅館・夜間観測データ/感情値:上昇。幸福度:安定。』
だが、その記録の中にある数値では、この夜に流れた温度までは測れない。
それだけが、どこにも残らないまま、確かにここにあった。




