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#079 「出発の日」

 朝の駅前は、早朝とは思えないほどの熱気に包まれていた。まだ空気には夜の冷たさがわずかに残っているのに、人の声と駆動音が、それを押しのけるように満ちている。

 制服姿の生徒たちが、あちこちで笑い声を弾ませる。キャリーケースが舗装を擦る音、バスの低く滑るような駆動音、遠くで鳴る発車ベルの残響。それらすべてが混ざり合って、この場所だけが少しだけ“特別な朝”になっていた。

 カメラを構える教師、忘れ物に気づいて走り出す生徒、友達同士で肩を寄せ合って写真を撮るグループ。


  ──まさに、修学旅行の始まり特有の混沌だった。


「おーい、こっちこっち!」

 人の波の中から、想太が手を振る。その声を頼りに、はるなが人混みを縫って駆け寄ってきた。


「おはよう、想太くん。なんか……人が多すぎて落ち着かないね」

 少し息を弾ませながら、周囲を見回す。視界いっぱいに広がる制服の群れに、思わず肩がすくんだ。


「そりゃあ、全学年合同だからな」

 隼人が片手で荷物を担ぎながら笑う。朝の光を受けて、その表情はやけに楽しそうだった。


「でも、これだけいてもさ、結局あいつらが目立つんだよな」

 その言葉に、自然と全員の視線が同じ方向へ向かう。


 そこにはすでに、人垣ができていた。ざわめきの中心で揺れる、いくつものボードと旗。


  ――「灯野はるなファンクラブ」

  ――「美弥推し連盟」

  ――「いちか守る会」


 手作りとは思えないほど完成度の高いそれらが、朝の光を反射して妙にきらきらと目立っている。

 いつの間にか結成された“三大勢力”。現地集合前から、その熱量はすでに爆発していた。


「うわ……もうポスター持ってる……」

 いちかが引きつった笑顔を浮かべる。人混みの向こうで自分の名前が書かれた旗が揺れるのを見て、ほんの少しだけ後ずさった。

「これって、修学旅行じゃなくてライブじゃない?」


「ライブだな、これは」

 要が腕を組み、冷静に頷く。視線はすでに状況を分析する研究者のように鋭い。

「バスの号車ごとに“担当”がいるらしい。僕たちの班は――」


「――A号車、“はるな班”だって」

美弥が、少し呆れたように告げた。その瞬間、周囲から一斉に歓声が上がる。


「……え?」

 はるなは、ほんの一瞬だけ思考が止まる。

「ちょ、ちょっと待って、それ私、車内でずっと見られるやつじゃん!」

 顔が一気に熱を帯びる。さっきまで感じていた朝の冷たさが、嘘のように消えていた。


「がんばれ、人気者」

 隼人が軽く肩を叩く。その言い方は、完全に他人事だった。


 想太は苦笑いしながら、小さく肩をすくめる。

「……まあ、いつものことだよ」


「フォローになってないよ、それ!」

 思わず声が大きくなる。その反応に、周囲からくすくすと笑いが広がった。


 ちょうどそのとき、車内への案内放送が空気を切り裂くように響く。電子音に続いて、淡々としたAI音声が流れる。


【東都古苑行き、乗車を開始してください】

 はるなは一度だけ深呼吸をした。胸の奥にたまったざわめきを、静かに押し込めるように。

 バッグの持ち手を握り直し、前を見る。バスのドアが、滑るように開いた。朝の光を受けて、行先表示が淡く輝いている。


『修学旅行:東都古苑行き』

 その文字が、これから始まる時間を静かに宣言していた。


「さあ、出発だ!」

 隼人の声を合図に、6人は自然と並び、同じタイミングで一歩を踏み出す。ステップを上がり、車内へ。外の喧騒が一歩ずつ遠ざかっていく。

 窓の外では、黒い車列がゆっくりと動き出していた。久遠家のSPたちが、距離を保ちながら並走する。目立たないように、それでいて確実に守る配置。


 想太の端末が、ほんの一瞬だけ震えた。

『護衛班A、問題なし。みなさん、良い旅を』

 短いその一文に、どこか温度のある気配が滲んでいた。

 想太はそれを見て、小さく息を吐く。そして、隣にいる仲間たちへと視線を向けた。

 言葉にしなくても、同じものを感じているのが分かる。

 誰にも見えないところで、自分たちは確かに支えられている。その事実が、ほんの少しだけ背中を押してくれる。


  ――久遠野から外の世界へ。


 まだ知らない景色へ向かうバスが、静かに走り出す。

 それはただの修学旅行ではなく、“少しだけ大人になるための旅”の始まりだった。

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