桜井の別れ
建武二年十一月一日
俺は、兵船七千五百余艘を率いて九州を出発し、瀬戸内海を東に進む。
備後の鞆の浦(広島県福山市)で兵を二手に分け、俺はそのまま海路を、弟の脇屋義助には陸路を進ませた。
それはそれとして、鞆の浦を出帆する前日の夜、俺はある夢を見た。
南方から光り輝く観世音菩薩が飛んできて船の舳先に立ったのだが、目が覚めて外を見ると、一羽の鶴が船の舳先に留まっていた。これは吉兆ということで、観世音菩薩の加護が有る我が軍の大勝利間違いなしという噂を軍中に流すと、我が軍の士気は益々上がるのだった。
一方、義助の軍勢は東に進むにつれて味方する者も増えていったのだが、一番驚いたのは高師直が一族ごと新田軍に降伏してきたことだ。
その扱いに困った義助は、結局全てを俺に押し付けることにしたようで、師直を俺の下へ寄こしたのであった。
全く、義助もしょうがないな。
師直の相手は、俺自らがやるとするか。
「よう、師直殿。貴殿にはあまり良い印象は無いが、何故新田軍に投降してきたのか、俺自ら聞いてやろうじゃないか」
「義貞殿、拙者が無類の女好きで、世尊寺尹子に執心していたのは貴殿も存じておろう。その尹子は壬生寺で出家していたのだが、三位内侍の命により還俗させられた上で尊氏に下賜されたのだ。だから、尊氏に尹子を譲ってくれと頼んだのだが、にべもなく断られたのでな。怒りのあまり足利家を出奔してきたのだ」
「なんだってー!尹子殿が還俗して尊氏に下賜されただと。何でそんなことになっている」
「義貞殿は、光厳上皇から京都回復の院宣を貰った時、誰を使いに出した」
「世尊寺行尹だが、それがどうした」
「行尹が義貞殿と光厳上皇を仲介したことで、行尹の父である経尹も罪に問われ、処刑されることになった。すると、壬生寺に隠れていた尹子が出てきて、尊氏に父親の助命を願い出たのだ。女・子供の頼み事は断れぬ尊氏だからな。早速、三位内侍に経尹の助命を願い出ると、三位内侍がこの事態を面白がって、尹子を尊氏に与えたのだ」
(むー、呪い殺したと思っていた尹子が生きていたのは、三位内侍にとって意外だったのだろうな。それで還俗させて尊氏に下賜か。本当に人の気持ちなど考えぬ奴だな。全くもって悪趣味だ)
「くそっ、早く京を回復して、尊氏の手から尹子殿を奪い返さねば」
「そして、奪い返した尹子を拙者に下され」
「俺は、女性を物扱いするのは好かん。もし、師直殿と尹子殿が互いに好意を持って幸せな家庭を築くというなら応援しても良いが、そうでないなら二人の仲を取り持ったりせぬぞ」
「分かっております。それに、バサラ大名をやたら敵視する直義の政治姿勢にもウンザリしておったのです。義貞殿は欲を肯定し、競争も否定しないと聞いております。その点、拙者とも仲良くできるのではないか」
(祟り神殿、師直の発言に嘘偽りはありませんか?奴が埋伏の毒であったりはしませんか?)
『ふむ、師直はいかにも怪しいが、言っていることに噓偽りは無いようじゃ。奴の女好きは生来のもので、怨霊に操られているわけでもないしのう。尊氏と喧嘩別れし、直義と政治対立しておるのも間違いないようだ。ただ、奴には奴なりの思惑があるようだが、それが何かは我には分らぬ』
(うーん、祟り神もあまり役には立たんが、とりあえず師直に寝首を書かれることは無いようだ)
ということで、師直を新田軍の一軍として加えてやることにした。
さっさと尊氏や正成を撃ち破って、一刻も早く尹子殿を救い出してくれよう。
◇桜井の別れ(楠木正成視点)◇
建武二年十一月中旬
新田の大軍が京に迫っているのを聞いた後醍醐帝は、播磨から正成を呼び戻した。
今後の策を練るためである。
正成曰く。
「我らは比叡山に撤退し、新田軍を京に封じ込めた上で兵糧攻めにするのは如何」と。
坊門清忠曰く。
「帝が都を捨てるのは、帝位を軽んずることになろう。味方は常に小勢でもって大軍を撃ち破ってきた。此度も都を出て播磨で敵を迎え撃つがよかろう」と。
皆がこの意見に賛同した。
正成、もはや発言する意義も見いだせず、播磨下向の命を受けるや兵をまとめて尊氏の下へと向かうのだった。
その数、わずか五百余騎。
かつて、鎌倉幕府を相手に戦っていた時の同志は、皆義貞に従ってしまった。
昔は、皆が争って我が軍に参加したものであったが、今は摂津・河内二カ国の国司の命で軍勢を集めても、親類・一族でさえ参加に難色を示す。ましてや、一般民衆が我が軍に参加するわけがない。
それもこれも、時勢が変わったからである。
このことを、主上は分かっておられぬ。
「正行(正成嫡男)、おるか」
「はい、ここに」
「お前は、今から故郷の河内へ帰れ」
「何をおっしゃいますか。最期まで父上と共にいさせてください」
懇願する正行に対し、正成はこう言った。
「獅子、子を産んで三日経つと、数千丈の石壁よりこれを落とす。その子、獅子としての片鱗あれば、教えられなくても跳ね返って生き延びるという。そなたは最早十歳だ。わしの言うことが理解できるなら、我が言に違うことなかれ。今度の戦は天下分け目の戦いとなり、今世でそなたの顔を見るのはこれで最後となろう。正成が討死したと聞いたのであれば、天下は必ず義貞の物になると心得べし。お前を河内に返すのは、わしが討死した後を考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして金剛山の辺りに引き籠もり、敵が押し寄せてきたら命を養由の矢先に懸けて、義を紀信の忠に比すべし(いつの日か必ず朝敵を滅せ)。ただし、義貞の政が理に適っているとお前が判断したなら、一族郎党を率いて義貞に味方せよ。これこそ、汝に出来る最高の親孝行だ」
正成は正行をこう諭すと、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、正行に今生の別れを告げたのである。これを見た武士たちは皆感激し、涙を流さぬ者はいないのであった。
桜井にて正行と別れた正成は、湊川の尊氏軍と合流した。
「援軍は如何程」と尋ねる尊氏に対し、「援軍はこれだけだ(五百騎)」と正成は回答した。
暗い雰囲気が漂う陣中であったが、『ここまで来たら、ただ戦って忠義の程を見せつけるのみ』と正成は言い放つのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
養由:中国春秋時代の楚の武将で弓の名手。百発百中の故事で有名。
紀信:紀元前204年、滎陽の戦いで絶体絶命の窮地に陥った劉邦を逃がすために、劉邦の身代わりとなって項羽に処刑された武将。




