015
一日の終わりを告げる鐘が鳴る。
今日も迎えの時間は遅らせたけれど、今日はお茶のお稽古があるからそこまで長く居残る事は出来ない。私はクラスメイトに手早く別れを告げると、鞄と一緒にとある場所へと向かった。鞄を持って行ったのはそのまますぐ帰れるように、ということと、単に帰りを急いでいるだけだと思われたかったからだ。誰にって訳じゃないけれど、強いて言うなら花山院と西門に。同盟を結びはしたけれど、私はこれから起きる事を、二人にも、誰にも言うつもりはなかった。
一度職員室に寄ってみたけれど、予想通りだったので、足はそのまま外へ行く。一度振り返って誰もついてきていない事、不審に思っている人物がいない事を確認してから、私は温室へと急いだ。
目的の人物がいるという事には、すぐに気付いた。緑と花の色が占める温室の中では、何の色をも宿さない白衣は、とても目立つ。
「やあ、白鳥さん。今日も花山院君や西門君と待ち合わせかい?」
ミミズを土に返しながら、入生田先生は柔らかく微笑んでいた。
私は唇を軽く動かしただけで、否定の意を紡ぐ。好きで待ち合わせてるわけじゃないやい。
「先生に、確認したい事があってまいりましたの」
「僕に? 何だろう。試験はもう少し先だけど」
「分かっているのではありません? ――もちろん、花瓶の件ですわ」
しゃがみ込んでいた先生は、一度動きを止めた後にゆっくりと立ち上がった。校舎からも遠く離れたこの場所は、白衣が擦れる音でさえもやけに大きく響く。指先に付いた土を払うように何度か手を合わせ、先生はその手を後ろに組んで私の方へと向き直る。わざわざ椅子に腰を下ろしたりはしないけれど、これは「どうぞお話下さい」の印だろう。表情は未だに、食えない微笑みのまま。
「わたくし、ずっと気になっていたんです。どうして花瓶に花が生けられていたのか」
「……その件については、もう説明している筈だけど」
「ええ。聞いています。けれどあれは嘘、ですわよね?」
「白鳥さんがそう考える理由を聞こうか」
促されたので、私は頷く。
「まず、わたくしが抱いた違和感は、“花が好き”と仰る先生と、“水切りをしようとした”と仰る先生の間に生じる溝でした。先生は生物の先生で園芸部の顧問です。水耕栽培についてや、チューリップの花の強さをご存知でない事はないかと思いますわ。その中でまだ球根のついている花を切り花にする……というのは、些か不自然に感じました」
「そう? 僕はとっても不勉強な顧問かもしれないよ」
「花の様子を見に放課後の時間を費やしているお方が? 先ほどもミミズを土に返していたのは、土の状態を良くするためではございませんか? それに、研究者気質のあなたが、何をも調べずに挑むという事は考えにくいかと。
それに何より、理由はもう一つ。もしも切り花にするためだけにA組に立ち入るのなら、放課後が最も適切な時間です。この学園では放課後教室に居残る者は少なく、単に花を整えるためであるならばアリバイも何も不要ですもの。万が一誰かに見咎められても、園芸部の顧問だから花の様子を見てくれと頼まれた、だとか、言い訳のしようもありますし、わざわざ授業の時間席を外して行う理由がありません。つまり“球根を処理しようとした”というのは動機として……成り立っていないんです」
先生がとんでもない間抜けである、という説ももちろんないわけではないけれど、先生はこの学園の教師陣の中ではいわばイレギュラー。裏を返せば、イレギュラーであっても採用したいと思えるほどに優秀な人物なのだ。そうでなければこの学校にそぐわない人物として排除されるだろう。朱に交わらない白は類稀なる才を持つからこそ、朱に並ぶのだ。
私の説明に、先生は乾いた土が付着した手で顎を擦った。「ふむ」と長考の末に声を落としてから、薄い唇を開く。
「オーケー。動機の線はそれでよしとしよう。けれどそれだけでは、僕の言う事を嘘だと言い張る理由にはならないんじゃないかな?」
「理由はもう一つあります。これは、一年B組の方から伺ったのですが……先生はその日、白衣を着ていらっしゃらなかったそうですわね」
「月曜日だからね。月曜日は唯一僕が白衣を着ない日なんだ。週末にちゃんと洗濯ができるからさ」
「先生は授業で使うプリントを忘れたと言って、一度教室を出て戻ってきたとのこと。こちらは間違いありませんか?」
「ああ。それで僕はわざと忘れて行ったプリントを持って、いざ君達のクラスに忍び込んだわけだ」
「なるほど。ちなみに水切りの方法自体は、先生もご存知ですわよね? わたくしも一応調べたのですけれど、合っているか分かりませんので、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「まず水切りのポイントとしては、水中で切る事。これは断面が乾いてしまうのを防ぐためですわね。それから斜めに切る事も大切です。切り口の断面積が広がる事で、水の吸い込みが良くなるからです。ここまでは間違いございませんか?」
「園芸部の顧問から言わせていただくと、非常に的確な説明だと思うよ。あと斜めに切るもう一つの理由として、水平に切ると茎の細胞が潰れてしまう恐れもある。導管が潰れると水を吸い上げられないから、これが一番大切な事だね」
「まあ、さすがですわ。それでしたら、もちろんのこと、切れ味の良い鋏で切る事が大切……という事もご存知ですわね」
「そりゃあもちろ…………」
そこで先生は、続ける言葉を失ったようだった。
「そう。先生はご存知の筈です。つまりもしチューリップの花を切り花としてA組の生徒に楽しんでもらうためにわたくし達のクラスに侵入したのなら、先生は再びB組に戻った際に持っている筈なのですわ。花を切るために持って行った鋏を」
「……それは、僕は一度……」
「一度職員室に戻った、なんて仰らないでくださいね。先ほどのB組の方が、先生は五分もせずに戻ってきたと仰いました。職員室と教室を二往復したらどんなに駆け足になってもその時間では戻って来れませんし、第一その足音が響き渡っていたでしょうから気付かれていた筈です。また、先生はその日白衣を身に着けていませんでした。白衣なら兎も角、花を切るための鋏はポケットに入る程小さいものではないと思いますが」
図らずも、先生の傍らに咲いている花はチューリップだった。私から視線を逸らしてそちらを見下ろす先生に従うように、私もチューリップの花を見つめる。そして思い出す。裏庭に咲いていたあの花。教室の床に散らばった、あの花弁。
「……大体のミステリーにおいて、探偵が種明かしをする前に自らの犯行を認める犯人は、そもそも犯人ではありません。ならばどうしてそんな嘘を吐くのか? それは、本当の犯人を庇っているからです」
ぴくり、と、先生の肩が反応する。動くというよりも、今まで平静を努めていた緩やかな動きが止まった事で、その微細なモーションは起きたように見えた。私は続けた。
「先生は園芸部の顧問でしたわね」
「そうだけど」
「部員は一人。もう廃部が決まっているという事は、部員の方は三年生なのでは?」
「……そうだね。新入部員が入ってくれると良いんだけど」
「そしてその部員の方――七瀬香澄さまこそが、今回の事故の犯人では、ありませんか?」
入生田先生の言った部活の日と、七瀬先輩の言った部活の活動日が重なる事に気付いたのは、先輩と別れた後のことだった。
よくよく考えれば、すぐに気付いても可笑しくなかった筈なのだ。花好きで、しかも切り花よりも地にまだその生を宿している花がお好きだと仰っていた。ただそもそもこの学校で部活動に所属するという発想がなかったので結び付けられなかっただけ。
七瀬先輩が園芸部に所属していると考えてみたら、色んな事が繋がりはじめたのだ。
例えば、そもそも花が生けられた理由。これは先生が言った通り、花瓶がたまたまそこにあったからという事が理由だと思う。けれど、花を花瓶に生けなければならない理由は別だろう。恐らくは、先輩が窓から捨ててしまったという指輪。これを探すために、先輩は花壇の花を抜いたのではないだろうか? 窓の上から捨てたのなら、どの花壇に落ちたかぐらい見えるだろう。一年A組の件の花壇が、そこだった。
けれど、探せど探せど見つからない。目視では足りず、私と同じように土を掘り返したりしたかもしれない。その内に掘り返した土の下に埋まってしまったかも。落ちた衝撃で埋まってしまったかも。理由は様々あるけれど、七瀬先輩は花を抜いての大捜索を試みたのだ。私達と、同じように。
「けれど、程なくして生徒達が集まる時間になります。ひょっとしたら、庭師の方の姿が見えたのかもしれません。花を埋め直す時間はなかったでしょう。そこで目に入ったのが大きな花瓶だとしたら……七瀬さまがその花瓶に入れても可笑しくはありません。そして恐らくは、先生と同じように、それは急場凌ぎだった筈ですわ。だから七瀬さまは、A組が不在の折、もう一度わたくし達の教室に忍び込んだのです。体調不良で保健室に行く、という嘘を使って」
「…………」
「女性の細腕では、あの花瓶をどうこうするのは難しいですわね。しかも気を利かせたクラスメイトの方が、花瓶に水が入っていなかったので、授業が始まる前に水を注いでしまったのです。そして七瀬さまがコントロールを失い、花瓶を割ってしまったところに――偶然、先生は居合わせてしまった……」
私は話しながら、脳内にその時の様子を思い浮かべていた。単なる想像にしか過ぎないけれど、目の前に浮かぶようだった。白い腕では支えきれず傾く花瓶。溢れる水から逃れようと身を引く先輩。花瓶が割れる音は、悲鳴のようにも聞こえたのではないだろうか。七瀬先輩にとっては、きっと、恐ろしい声に。
そしてもう一つ、私は気が付いた事があった。これに関しては言うかどうか迷ったけれど、いわばこれが“核”であるという事も知っている。
「……白鳥さんの言い分は分かったよ。確かに七瀬さんは園芸部の生徒だし、僕も一目置いている。だけどそれは僕が彼女を庇う理由にはならないだろう? 僕はこれでも教師だ。教師は、正しい道に生徒を導くものだよ。たとえそれが事故であっても、悪い事は謝って償うべきだ。僕がどんなに体たらくな研究者気質の教師であっても、教師を選んだ以上それは守るつもりだよ」
今、私と対峙する先生は、普段の制御された表情ではなく、剥き出しにされた感情が見えるかのようだった。私は鞄を持つ手に力を籠める。そして今一度、周囲を見渡してから、先生に近付いた。誰にも聞かれぬように。誰にも、知られぬように。
「それでは、先生としてではなく、ひとりの男性としてならいかがですか。……七瀬さまの恋人としての、あなたなら」
砂利を踏むような音が聞こえて、私は一度だけ視線を走らせる。それから、再び続けた声は密やかに。
「わたくし、七瀬さまが花瓶を動かした理由は、花のためだけではないと考えています」
「……どういうことかな?」
「水を入れたクラスメイトの方が言っていました。花瓶を傾けた際に、底を滑る金属音がした、と。その方は十円玉だと思ったらしいですわね。銅で出来た十円玉を水の中に入れると、銅イオンが溶け出して細菌の発生を防ぐため、水や茎の切り口が痛まないのだそうです。けれど先ほど申し上げた通り、七瀬さまが花瓶に花を生けたのは急場凌ぎ。前もって十円玉を持っていた筈がありません。小銭をポケットに入れていた、という説も、この学園の生徒でありきちんとしたご令嬢、という事を踏まえると考えにくいですわね。
そうなると、花瓶に入っていたものは、十円玉ではない、という事になります」
そもそもの発端は、花でもなければ花瓶でもない。この二つはいわば巻き込まれただけなのだ。
「つまり、花瓶の中にこそ、七瀬さまの探していた指輪が入っていたのです。……チューリップの花を抜き、花瓶に入れ、さらにはその花瓶を割ってしまったのは、全てあなたから貰った指輪を、取り戻すためであったなら。自らの職が失われる可能性があってでも、あなたは嘘を吐くのではないですか」
長い、長いため息が、目の前から落とされた。
そして程なく聞こえたのは、「まいりました」、ただ、その一言だった。




