存在
ユリが真実を知ってから一週間が経った。
両親は相変わらず部屋に籠もり研究をしていたため家族揃って顔を合わす機会派食事のときくらいになっていた。
ユリは夜明け前に目を覚ますと、陽が部屋に差し込むのを窓辺に立って待った。
「この部屋で何度朝陽を眺めることができるのかな?」
ユリは次第に空が赤く染まる様子を眺めた。
リビングで電話が鳴り響く音がした。
(まだパパたちは寝ているかな?)
ユリは音を立てないように部屋を出ると、階段を下りていった。
「……わかった。また、何かあったら知らせてくれ」
ユリがリビングのドアに手をかけると、レウシアの声が洩れてきた。
「どうしたの?」
蘭が尋ねると、レウシアは表情を曇らせた。ユリは聞き耳を立て、二人のやり取りを廊下で聞いた。
「心不全で博士が倒れられたそうだ。息を引き取るのも時間の問題らしい」
蘭は腰を抜かした。
「それってドッペルゲンガーの……」
「滅多な事を言うな。博士はもう年だったんだ」
「だって、タイミングが良すぎるじゃない」
蘭は金きり声を上げた。
「静かにしなさい。子供が目を覚ます」
レウシアは蘭を小声で怒鳴りつけた。
「それに、ドッペルゲンガーのせいだとしても、我々には関係のないことだ。サクラは十五年生きている」
「でも例外というわけではないでしょう? ユリは? あの子は消えてしまうの?」
蘭は瞳に涙を溜めた。
「そんなことはない。必ずユリが消えなくて済む方法を……」
「きれい事はたくさん。まだ何もわかっていないじゃない」
蘭の言葉を聞くと、レウシアは硬く拳を握り、悔しそうに唇をかみ締めた。
廊下で蘭の言葉を聞いたユリは天井を見上げた。
(家族がばらばらになっていく。 ……私のせい?)
ユリは深く息をついた。
(部屋に戻ろう)
ユリは二人に気づかれないよう、静かに部屋へと戻っていった。
朝になり、蘭がフライパンを叩く音を聞くと、ユリは今起きたように階段を下りていった。
家族が食卓に着くと、レウシアはシェリーが倒れたことを子供たちに伝えた。
「少し持病が悪化しただけで、すぐ良くなるさ」
レウシアは優しく微笑んだ。
「う、うん。 ……早く良くなるといいね」
ユリは明るく振舞おうと心掛けた。その想いがいっそう家族皆に切なさを募らせた。
その日は久しぶりに四人で公園へ出掛けたり、買い物に出掛けたりと、普段どおりの一日を過ごした。
三日が過ぎ、ユリたちが夕食を食べていると、電話が鳴り出した。
「私出るね」
「待ちなさい」
ユリが立ち上がると、レウシアは慌てて制止した。
「私が出る」
レウシアは険しい面持ちで電話に歩み寄ると、受話器を上げた。
「はい。メルですが」
レウシアは受話器を上げると、さらに険しい表情を浮かべた。
「……そうか、わかった。連絡ありがとう」
レウシアは静かに受話器を置いた。レウシアの表情から、他の三人は電話の内容を察した。
「何?」
一応蘭が尋ねると、レウシアは浮かない顔をして食卓に戻った。
「シェリー博士が亡くなった」
思ったとおりの内容であった。
「……そんな」
蘭は愕然とした。
「博士の希望で我々は葬儀には参列しない」
「……やっぱり、ドッペルゲンガーのせい?」
レウシアは尋ねるユリの頭を軽く叩いた。
「確かにドッペルゲンガーの存在が博士の心を弱くしたかもしれない。しかし、博士が死んだのは病気だよ」
レウシアは悲しみで目を細めながら、何度も首を横に振った。
「大丈夫だよ。私はユリのおかげで強くなれたんだから」
サクラは笑顔でユリに声を掛けた。
「う、うん。」
ユリは顔を引きつらせながらも目一杯の笑顔で答えた。
(サクラは消えない。でも、それは例外の出来事ではない。 ……逆らえないんだ。私はたぶん消える)
ユリはうつむいたまま部屋に戻っていった。
ユリが部屋のドアを開けると、窓の前に何かがいることに気づいた。
「誰?」
ユリは冷静に尋ねた。
「わかったか? これがドッペルゲンガーの成すべきことだ」
月明かりに照らされて、それは姿を現せた。
「……博士」
「私たちの存在は一つとなった。私は本物になった」
その存在は得意気に語って見せたが、その表情は哀しみを帯びていた。
「どうしてそんなに哀しそうなの?」
ユリが静かに尋ねるとその存在はうつむいた。
「これから私はどうすればいい? 私は生き甲斐を失った。 ……私は生き方を知らない」
「本物に、なった? 自分が偽者だと気づいていたんじゃない」
ユリの言葉を聞くと、その存在は大きく首を横に振った。
「そんなことはない。私が本物だ」
「本物ならばそれほど自分の存在に執着しないわ。私、今ならわかる。だって、どちらも経験しているもの」
「ならば、本物を消そうと思わないのか? お前の立場なら本物を消し、自分が消えたと思い込ませることができるはずだ」
ユリはその言葉を聞いて鼻で笑った。
「サクラがいないのに生きていても仕方ない」
「……きれい事だな。確かにお前にとってサクラは大切な存在かもしれないが、お前には他にも大切な存在がいる。一人のためにすべてを犠牲にするのか?」
「……」
ユリは言葉が出てこなかった。
「自分にどこまで嘘をつけるかな?」
その存在は静かに言い放つと、窓から空を見上げた。そして、足元から消え始めた。
「どこに行く気?」
「わからない。このまま彷徨うのか、消えるのか。私は何のために存在したのだろう? 私の存在は罪か? ……何もわからない」
その存在は空気に溶け込むように姿を消した。ユリは窓辺に駆け寄ったが、そこには影一つなかった。
(それでも私は生きていたかった)
ユリの頭に声が響いた。
ユリは窓から月を見上げた。すると、自分の体が透き通っていることに気づいた。
(私はサクラのために消える。そう決めたんだ。サクラの、ため? 私の存在する意味は……)
悲しみがあふれ出して思考がうまく働かなくなった。何も考えられなくなったユリは糸が切れたようにその場でひざをついた。
月が太陽と入れ替わるまでユリはその場で座っていた。そして、例のごとく蘭のフライパンの音を聞くと、パブロフの犬のように条件反射で階段を下りていった。
数日が経ち、シェリーの葬儀が無事終わったという知らせが届いた。ユリは自分の存在意義がわからなくなり、覇気を失くしていた。
(……ユリ)
他の三人はユリの様子がおかしなことに気づいていたが、あえて触れずにいた。ただ単に掛ける言葉が見つからなかったのかもしれない。
四人で朝食を食べていると、インターホンがなった。
「はーい」
サクラは箸を置くと、玄関へと向かった。
しばらくしてもサクラは戻ってこなかった。
「遅いな」
心配になったレウシアは様子を見に行こうと立ち上がった。すると、浮かない顔をしたサクラが戻ってきた。
「どうした?」
レウシアが尋ねると、サクラは家族の顔を見回した。
「オリールが話をしたいって」
サクラが言うと、横からオリールが顔を覗かせた。
「お邪魔します。生前祖父から言付けを頼まれましたので、伝えにきました」
オリールの言葉を聞くと、レウシアと蘭は怪訝な顔つきで目を合わせた。
「どうぞ」
レウシアはリビングの中へとオリールを招いた。
オリールはリビングに入ると、ユリの後姿を見つめた。その背中は前よりも小さくなっているように感じた。
「博士の言付けとは?」
レウシアが促すとオリールは目線をレウシアへ移した。
「まず、家族の皆さんへ『辛い思いをさせてすまなかった』と。そして、ユリへ『本当に己が消える覚悟を持っているならばカナダに来い。昔住んでいた家に唯一の救いがある』と」
「どういう意味だ?」
レウシアが尋ねると、オリールは首を横に振った。
「わかりません。ただ、祖父は倒れる直前までドッペルゲンガーについて研究していました。始めはドッペルゲンガーを消す方法、しかし、ある日を境にドッペルゲンガーが消えなくて済む方法を探しているようでした」
オリールの言葉を聞くと、ユリを除く三人が望みに胸を膨らさせた。
「消えなくて済む方法は見つかったのか?」
「おそらく見つからなかった。祖父が見つけたのはユリにとって最良の消え方でしょう」
オリールは冷静に答えた。しかし、その表情はどこか物憂げな雰囲気であった。
オリールは終始動かないユリへ目を配った。
「何を期待しているの?」
ユリはうつろな目をしながら立ち上がった。
「私、カナダへ行く」
「しかし、ユリ。カナダへ行けば消えてしまうかもしれないのよ」
蘭はうつむきながら話しかけた。
「ここに居ても同じだよ。時折透ける私の体を見て、何を期待しているのかな?」
ユリは哀しい顔をしながらも精一杯微笑んだ。すると、オリールはユリの体が透き通るのを目の当たりにした。
「ユリ、君は本当に……」
オリールは手を震わせた。
「ごめんね」
「……何を謝るの? ユリは何も悪くない」
オリールは今にも泣き出しそうな顔であった。その顔を見て、ユリも同様の表情を浮かべた。
(ごめんね、オリール。好きになって、ごめんなさい)
ユリは言葉にできない想いを頭の中で唱えた。
ユリの瞳から涙が零れることはなかったが、ユリの心は間違いなく泣いていた。
「……やっぱり、カナダに行くね」
ユリは家族の顔を窺った。しかし、三人はうつむくだけで誰一人返事をしなかった。
風が庭の木々を揺らす音だけが寂しく響き渡った。
「俺が案内するよ」
重い空気が張り詰めようとする中、オリールが口を開いた。ユリは目の前に光が差したような暖かさを感じた。
「ありがとう」
「うん。じゃあ、いつ行く?」
二人はうつむく三人を尻目に早速話を進め始めた。
「待ちなさい。私たちも行くから」
レウシアは覚悟を決めた。蘭とサクラもまた促されるようにうなずいた。
オリールを含む五人は急遽カナダ行きのスケジュールを組み始めた。
「……では、その際に祖父の墓参りもしてあげてくれませんか?」
一通り話が終えるとオリールはお願いする形で頭を下げた。
「いいのか?」
「ええ。祖父はあなたがたのことを自分の子供のように思っているところがありました。葬儀に来て欲しくないと言ったのも自分の子供に死に顔を見せたくなかったからです。孫の私は複雑な心境でしたけれどね。倒れてからは、メル家の者に悪いことをしたと……」
オリールの言葉を聞き、レウシアはうつむき、蘭は涙を流した。
「わかった。花を捧げさせてください」
レウシアはオリールに頭を下げた。
木々の葉音が止むと、せみの声がリビングに響き渡った。
「はい、しんみりしない」
ユリは昔のように元気一杯振舞った。
「そうだよ。夏休みの旅行はカナダに決定」
サクラもユリに合わせ、元気に振舞った。
「あ、ああ。そうだな」
「そうだよ」
ユリは一人一人の口元を指で上げ、笑顔を作らせた。
皆は表情に釣られて笑った。久しぶりにメル家に活気が戻った。
「それじゃあ、俺はこの辺で」
「うん、ありがとうね」
ユリが明るさを取り戻して、オリールは安心した。
「そのほうがユリらしいよ」
オリールが言うと、ユリは照れくさそうに笑った。
「うちの娘とどのような関係かな?」
レウシアは冗談交じりに口を挟んだ。
「バーカ」
ユリはレウシアの肩を叩くと、若干だが頬を赤らめた。そのやり取りをサクラと蘭は笑いながら見ていた。
周りの者はユリが失いかけていた人間としての感情を取り戻しているように感じた。
四人はオリールを玄関まで見送った。
「じゃあ、一週間後に自宅のほうへ迎えに行くから」
「はい。お願いします」
オリールはレウシアに頭を下げた。
「では、失礼します」
オリールはレウシアの背中に隠れたユリの顔を覗き見ようと体を揺すりながら後ずさりしながら帰っていった。その様子を見ながら、皆はクスクス笑った。
オリールを見送ると、ユリたちは早速旅行の準備に執りかかった。皆はただの旅行だと自分に言い聞かせ、明るさを絶やさぬようにしていた。しかし、ユリだけはアルバムなどの思い出の品を一緒に旅行カバンに詰めていた。
「とりあえず、これくらいでいいかな」
ユリは思い出の品だけを入れた小さめのカバンの口を閉めた。そして、椅子に座ると、机の前で一息ついた。
ユリは誕生日にオリールから貰った写真立てに目を遣った。
(たぶん、私はカナダで消える)
ユリは写真のサクラを羨ましそうに眺めた。
(どうして私なのかな?)
ユリは消える覚悟を決めてはいたが、その恐怖からしばし思ってはいけないことを思わずにはいられなかった。
ユリは何度も首を横に振った。
(私、最低だ。 ……早く消えないと)
ユリは頭を抱え、ため息をついた。そして、珍しく眠気がすると、久しぶりにベッドで横になった。
『オリール』
ユリはオリールの手を掴んだ。そして、二人はサクラとユリが出会った公園を散歩した。
終始穏やかに微笑むオリールの隣で、ユリは幸せそうに笑った。
陽が傾き始めると、公園の入り口からレウシアと蘭が歩いてきた。
『帰るわよ』
『はーい』
ユリは元気よく返事をすると、オリールの顔を覗いた。
『行こうか、サクラ』
『えっ?』
オリールは手を引いて駆けていった。すると、ユリは目の前でオリールと自分が入り口に駆けていくのを目の当たりにした。
『待って』
ユリは何度も駆け寄ろうとしたが、足がその場から離れなかった。
ユリは次第に迫り来る闇に怯えながら、その場で立ち尽くしていた。
目を覚ますと、写真立てが目に入った。
「いやー」
ユリは思わず声を上げると、写真たてを手で払った。
(わ、私はユリ? 私がサクラ?)
ユリは辺りを見回しながら、意識を冴えさせた。
(私はユリ)
ユリは深くうなずくと、ゆっくり呼吸を整えた。そして、写真立てを元の場所に戻した。
(あれが近い将来、現実となるのかな?)
ユリは泣きたくても泣けなかった。ユリは肩を震わせ、気が狂ったように大いに笑った。
朝食を終えると、ユリたちは服を買ったり、空港でチケットを買い、カナダに着いてからのスケジュールを決めたりした。
一週間が過ぎ去った。
ユリたちは朝早くに朝食を済ました。そして、ユリは部屋の一つ一つを覗き込み、そこで過ごした確かな思い出を思い返した。
(お別れだね)
ユリは哀しい顔をして部屋を隅々まで見回した。
「大丈夫だよ。また、帰ってこられる」
「うん」
レウシアに頭を撫でられると、ユリは小さくうなずいた。
「さぁ、荷物を持っておいで」
「うん」
ユリは単調に繰り返すと、重い足取りで階段を上っていった。
部屋に入るとユリは窓を開け、街の香りを忘れないように大きく息を吸った。
一台のタクシーが家の前に止まった。
「ユリ、タクシーが来たよ」
「はーい」
ユリは荷物を手に取ると、階段を下りていった。
ユリはタクシーに荷物を載せると、名残惜しそうに家を見上げた。
「バイバイ」
ユリは小声でつぶやいた。今にも泣き出しそうなその横顔をサクラは横で見守った。
「いってきます、だよ」
サクラはユリの肩を抱くと、笑顔を見せた。
「ねっ」
「そうだね。 ……いってきます」
ユリとサクラは寄り添うようにタクシーの後部座席に乗った。
四人はオリールを乗せると、空港へと向かった。




