傘
恵輔は電車通学をしているが、空いた車両はあまり好きではない。
空いているということは、互いの顔がよく見えるということになる。自分の顔が目立つことは幼い頃から気づいていたため、視線だけなら無視できる。大概において声を掛けてくる人間も無視をしている。しかし、度が過ぎるとうっとうしいことこの上ない。
適度に混み合う車両というのは、その視線を遮ってくれるので恵輔にとってありがたいのである。特に家路を急ぐ男性会社員が多い車両は、視線を集めないで済むので大歓迎である。
彼女はどこで降りるのだろうか、と帰宅ラッシュで込んできた電車の中で恵輔は思っていた。混み合っているため、会話はしていない。電車に乗ってすでに三駅を過ぎて、あと二駅で降りる駅だ。恵輔たちの県立高校は市内から通っている生徒がほとんどで、他の市から通っている生徒は一割に満たない。同じ学年で恵輔と同じ市から通っている生徒はいない。ちなみに三年生にもいない事はわかっていた。今年の一年生にいるのかは、知らない。
考えているうちに降りる駅に停車した。
恵輔に続いて志穂も電車を降りる。恵輔は再び疑惑がわき上がるのを感じ、ついちらちらと観察する。小柄な彼女は混んだ電車から出られてほっとしたように見える。人の流れに沿って改札を抜けると、志穂も続いて改札を出てきた。まさか度が過ぎるタイプだったのかと、すこし気落ちした。
「どこまで帰るの?どこまでついてくるの?」
固い声で恵輔が話しかけると、きょとんとした表情で見上げてきた。
「私はここからバスですけど…?」
「……。」
「先輩は歩きですか?」
「えーと?場所変えよう。」
恵輔は通行の邪魔にならない場所に志穂を引っ張っていく。改めて向き合って見ると、志穂が何か含んでいるようには見えなかった。
「君はここからバスに乗るの?」
「はい、十五分ぐらい、市立公園の近くなんです。」
「ごめん。ちょっと勘ぐった。いやな思いさせて、ごめんね。」
真面目に謝ると志穂は何か察したように、ふんわり笑って首を振る。そして先程使った水色の傘を差しだしてくる。
「これ、使ってください。私はバス停まで迎えにきてもらいますから。」
「いや、僕は走ればすぐだから、気にしないでいいよ。」
疑って嫌な思いをさせたのに、変わらない態度でいてくれる志穂にこれ以上甘える訳にはいけないと、恵輔は首を振る。
「いえ、ホントに使ってください。風邪をひいたら大変です。」
「いや、大丈夫だから。」
押し問答になってしまった二人を止めたのは第三者の声だった。
「何やってるの、志穂ちゃん?」
振り返ると次の電車が到着したのだろう、一時ひいていた人波が再びできていた。声を掛けてきたのは、ほっそりとした男子学生である。有名私立中学の制服を着ている。
色白で茶色味がかった髪のためか、目の前の志穂に似ているように見える。
「コウくん」
嬉しそうに志穂が笑った。恵輔は胸にチクリとした痛みを感じる。
「誰?」
少年は言葉少なく志穂の前に割り込んできて、恵輔をにらむように見上げる。平均身長はあるようだが、いかんせん年齢差は大きい。
「同じ学校の四条恵輔先輩。あの、一つ下の弟です。」
「よろしく。お姉さんにはお世話になっています。」
恵輔は微笑する。なんだ弟かと安心したのは気のせいにする。
「佐々宮晧です。…四条恵輔さんって、剣道やっていませんか?去年関東大会に個人で出ていましたよね?」
首をかしげる仕草はさすが兄弟と思って眺めていたが、恵輔は苦笑いした。
「よく知っているね。やっているの?」
「県大会、見に行きましたから。」
にこにこと見上げてくる晧の瞳はきらきらしている。こういう視線は慣れていない。恵輔は戸惑ったように視線をそらした。
時計が目に入り驚く。
「あ、七時半だ。おそくなっちゃったな。バスの時間は大丈夫かい?」
「大丈夫ですよ。あ、先輩これホントに使ってください。コウくんいるし、」
志穂が再び傘を差しだした。ちらりと見ると晧の持つ紺色の傘は折りたたみではない。ありがたく借りようかと思うと、晧が自分の傘を差しだした。
「志穂ちゃん。そんな女物の傘じゃ四条さんが恥ずかしいよ。こっち使ってください。」
「あ、そうだよね。すみません、気づかなくて」
恵輔はよく似た姉弟を交互に見つめて、自然に顔がほころんだ。そして、水色の格子柄の傘を手に取る。
「僕は一人だけど、君たちは二人だろう?折りたたみ傘じゃ濡れてしまうだろうから、こっち借りるね。ありがとう。」
二人は顔を見合わせて、肩をすくめた。双子のように動きが同じである。本人たちは意識していないだろう。恵輔はクスクス笑ってしまった。首をかしげる仕草がまた同じで、さらに笑ってしまう。そのまま、二人の背を押して、バス乗り場まで送っていった。
二人がけの座席に腰を下ろした姉弟の姉がにこにこと手を振るので、つられたように恵輔も手を小さく振ると、弟はぺこりと頭を下げた。バスが走り出しロータリーを出て行くのを見送り、その後で駅の反対側にある家に向かった。何となく心がふわふわしていた。




