ピアノ
玄関を開けると奥から母親の涼子が出てきた。タオルを片手に持っている。
「ただいま。ありがとう。」
「おかえりなさい。濡れたでしょう…?あら、ずいぶん可愛らしい傘を買ったのね。」
タオルを受け取り、傘を渡す。確かに水色の格子柄は男子高校生が使うには、可愛らしいだろう。今での経験から、まさか女の子から借りたとは思わなかったようだ。恵輔は苦笑いて答えた。
「借りたんだよ、持ってなかっから。」
制服の濡れたところを拭きながら、靴を脱ぎ、靴下も脱ぐとスリッパを履く。
「あら、その女の子は傘はどうしたの?家まで送ってきたの?」
「駅で彼女の弟さんに会って、一緒に帰るからって貸してくれたわけ。風呂場に干していい?」
洗濯かごに濡れたものを入れて傘を受けとり尋ねると、涼子はキッチンに向かいながらダメという。
「もうお風呂沸いているから温まりなさい。傘は洗面所に干してね。」
恵輔は返事をしながら、扉をしめた。
翌日の放課後、憮然とした顔で恵輔は図書室にいた。同じクラスの薫(男)に勉強を教えるためであった。だが、気がつけば、恵輔の隣はどちら女子が腰を下ろし、両脇から恵輔の顔をうっとりと見つめている。正面もいつの間にか女子になっているし、はじめの男は何処に?という感じである。
あげくに「ここがわかんなーい。」「ここ教えてー。」など声をかけてくるのは、まだ良い。「もう終わりにしてお茶にいこうよ。」など言い出すものもいる。
恵輔はイライラしていた。
大きくため息をついて、机の上の勉強道具を片付ける。少し離れたところに座っているきっかけの男子生徒に声をかけた。
「悪いけど、僕は帰るよ。またね。」
待って私も、と女子達がガタガタと片付けている間にスタスタとカウンターに行き、挨拶をする。
「お騒がせしました。」
「四条君は静かにしていたけどね。…君も大変だね。」
洒落た眼鏡をかけた二十代後半のこの男性は、恵輔に「準備室は開いているよ。」と囁く。小さくうなずいて出口の扉に手を掛けると後ろで、恵輔に続こうとした女子生徒たちが司書から注意を受けていた。それを確認して扉を閉めた。
恵輔は歩き出してすぐ隣の扉をそっと開けて中に滑り込む。図書準備室である。隣の図書室の様子はガラス窓にカーテンが閉まっているので見えないが、声は聞こえていた。何を話しているかまでは聞き取れないものの、女子たちが注意されたにも拘わらずガヤガヤと図書室を出て行くのがわかった。
「あ、もう恵輔君いないよぉ。」
「淡泊だよねぇ。それがまたいいんだけどぉ。」
「急げば昇降口で捕まえられるんじゃない?」
廊下から彼女たちの声が聞こえ、恵輔は息を潜める。遠ざかる足音を聞いて大きく息を吐くのと図書室側の扉が開くのが同時だった。
「帰ったみたいだよ。」
「助かりました。ありがとうございます。」
ほっとした顔で礼を言うと男性はクスリと笑う。開かれた扉から図書室にもどると薫が急ぎ足で近づいてきた。
「四条。ごめんな、おまえに声をかけたのを聞かれてたみたいでさ。」
ばつが悪そうに頭をかく彼の肩をたたいて、彼が座っていたいすの隣に腰を下ろし、鞄から筆記具を取り出す。。幸い先程の騒ぎですでに誰もいなかった。
「で、どこが解らないんだ?」
「あ、物理だよ。この問題のところで、俺が解くとどうやっても答えにならないんだ。」
指さされた問題を見ると、ノートを引き寄せた。
「助かったよ、ありがとう、おかげで追試にはならずに済みそうだ。」
図書室の扉を閉めると薫が礼を言ってきた。
恵輔は首を振って笑う。
「僕も勉強になったから、」
「五時か、腹減ったな、なんか食ってくか。と、無理か。」
薫はタイを緩めながら話しかけてきて、自己完結した。恵輔は「悪いね。」と一言。
薫は市内在住者でバス通学である。恵輔の使う路線とは別の路線の駅でバスを乗り換えて通っているらしい。一応そちらかも帰ることはできるが、バスに乗り10分で駅に着く、そこから電車で10分、恵輔の使う路線に乗って10分でこの学校の最寄り駅つまり普段使っている駅に着く。乗り換え時間も含めれば、その間に家に着いてしまう。恵輔にとって友達と寄り道というのは、よほどのことでもない限りしたいものではなかった。
恵輔は階段を降りようとして、ふと気づく。
ピアノの音がする。
そういえば、昨日も聞こえたな。と思い出す。雨宿りをしていたときに、初めのうちは微かに響いていた。
ふと、鞄に入れた水色の傘を思い出した。




