第9話 もう一回
翌朝、目を覚ましたルアンが最初に感じたのは、脚に残る重さだった。昨日の荷重歩行で酷使した太腿はまだ張っていて、寝台から降りると膝の周りにも鈍い痛みが走る。それでも公開訓練の翌朝ほどひどくはない。昨日、七番倉庫へ寄らずに休んだのは正解だったのかもしれなかった。
着替えを済ませて月兎亭の食堂へ下りると、マーサはいつも通り鍋の前に立っていた。昨夜すでに試験の結果を伝えてあるので、改めて何かを聞かれることもない。黒パンとスープを受け取り、ルアンはいつもの席へ腰を下ろした。
「今日は卵ないよ」
「昨日もらったからいいよ」
「受かったら出そうと思ってたんだけどね」
「じゃあ、一か月後にお願いします」
「予約するほどのもんじゃないよ」
マーサはそれだけ言うと、ほかの客の朝食を用意するため鍋へ戻った。ルアンも黒パンをちぎりながら、今日の予定を頭の中で追ってみる。仕事をして、帰る。いつもなら、そのあと七番倉庫へ寄って何を練習するかまで考えるところだが、今日はそこまで決める気になれなかった。
迷宮管理院へ着くと、昨日の試験結果が一階の掲示板に貼り出されていた。出勤してきた職員たちが何人か足を止め、それぞれ自分の名前を探している。ルアンも前を通りかかったが、結果はもう分かっている。わざわざ見る必要もないと思い、そのまま通り過ぎた。
数歩進んだところで、足が止まった。
少し迷ってから引き返し、掲示板の前へ立つ。受験者の名前が縦に並び、その横には合否だけが記されていた。上から目を追っていくと、中ほどに自分の名前がある。
《ルアン 不合格》
書かれているのは、それだけだった。
魔力操作が五秒ほどで崩れたことも、荷重歩行で二分十四秒遅れたこともない。筆記がほぼ満点だったことも、応急処置を評価されたことも書かれていない。資格試験なのだから、合格したか、しなかったか。それだけ分かれば十分なのだろう。
ルアンはしばらく自分の名前を見つめ、それから掲示板を離れた。
その日の仕事は十三号から十九号までの導灯の定期点検だった。工具を確認し、ダグと二人でいつものように迷宮へ入る。昨日試験を受けたからといって、今日の仕事が変わるわけではない。導灯は決められた場所で、今日も変わらず青白い光を灯していた。
十三号の外殻には問題がなく、十四号では固定環の緩みを一か所見つけた。十五号も正常で、あの妙な暗さはそれ以来一度も現れていない。十六号では魔石の出力を記録し、十七号では古くなった導線を交換した。ルアンは一つずつ作業を進め、ダグも昨日の試験について何も尋ねなかった。
それがありがたかった。
十八号へ向かう途中、前方から五人組の探索者が歩いてきた。装備についた泥の色や背負っている荷物を見る限り、中層から戻ってきたのだろう。大きな袋を担いだ男の隣には短い杖を持った女がいて、全員かなり疲れているように見えたが、足取りは崩れていなかった。
以前なら、何を持ち帰ったのだろうと目で追ったかもしれない。今日はその姿を見た途端、昨日の試験が頭へ浮かび、ルアンは何となく視線を通路の壁へ移した。
自分が行きたかった場所から、彼らは帰ってきた。
今はまだ、素直に眺めている気分にはなれなかった。
十九号の点検を終える頃には昼になり、二人は壁際へ腰を下ろして黒パンを取り出した。ルアンは何となく黙ったまま食べていたが、ダグも無理に話題を作ろうとはしない。
半分ほど食べたところで、ルアンの方から口を開いた。
「ダグさん」
「何だ」
「昨日の試験、受けない方がよかったと思います?」
「思わん」
「落ちるって分かってたのに?」
「俺が分かってたのと、お前が分かるのは別だろ」
ルアンは手にしたパンを見ながら、少し考えた。
「じゃあ、受けてよかった?」
「それを俺に聞くな」
相変わらずだった。
ダグは残っていたパンを口へ放り込み、飲み込んでから点検表を開いた。
「少なくとも、次に何やるかは分かったんじゃねえのか」
ルアンは返事をしなかった。
魔力を十秒、安定して流せるようにすること。荷物を背負い、基準時間内に歩き切れる身体を作ること。次の試験に受かるために必要なものは、昨日までよりずっとはっきりしている。それなのに、今日は七番倉庫へ行きたいと思えなかった。
午後の仕事も何事もなく終わった。管理院へ戻って点検記録を提出し、工具を片付けて外へ出る。いつもなら、そのまま宿とは反対の道へ向かうところだったが、迷宮大門を離れた先の角でルアンは足を止めた。
右へ進めば月兎亭。左へ曲がれば七番倉庫。
以前にも同じ場所で迷ったことがあった。その時は倉庫へ向かったが、今日はしばらく道を眺めたあと、右へ曲がった。
別に諦めたわけではない。昨日ほど疲れているわけでもなく、軽い訓練ならできるだろう。ただ、今日はやりたくなかった。それ以上の理由は、自分でもうまく説明できなかった。
月兎亭へ戻ったのは、夕食にはまだ少し早い時間だった。食堂には数人しか客がおらず、マーサが空いた卓を布で拭いている。こんな時間にルアンが戻ってくるのが珍しかったのか、一度だけ顔を上げた。
「今日は早いね」
「うん」
「具合悪い?」
「別に」
「ならいいけど」
それ以上は聞かれなかった。
部屋へ戻り、仕事着を脱いで寝台へ腰を下ろす。いつもなら七番倉庫にいる時間なので、何もしないまま部屋にいること自体が妙な感じだった。窓の外には夕方のアルネスが広がり、通りを行き交う人々の声が二階まで届いている。
しばらく窓の外を眺めたあと、机に置いてあった管理院の教本を手に取った。けれど数頁めくったところで閉じる。中層の導灯配置図や保全規則を見れば、結局また昨日の試験について考えることになる。
代わりに、机の端に置いていた短剣へ手を伸ばした。鞘から半分ほど抜いたところで手が止まり、そのまま数秒、刃を見つめる。結局、短剣は静かに鞘へ戻した。
今日はこれでいい。何もしない日が一日くらいあってもいいはずだ。
夕食の時間になると、食堂は仕事を終えた客たちで賑わい始めた。ルアンも下へ降り、壁際の席で豆と肉の煮込みを食べる。隣の卓では採掘人らしい男たちが酒を飲みながら笑い、その向こうでは行商人が明日の天気について話していた。
誰も、ルアンが昨日試験に落ちたことなど知らない。昨日は自分にとってずいぶん大きな一日だったのに、街は何も変わっていなかった。迷宮大門は今日も開き、探索者たちは迷宮へ入り、やがて戻ってくる。管理院の灯守たちは導灯を点検し、市場へ行けばバッカスがいつもの大声で値段を叫んでいる。
たぶんミレーナも、今日のどこかで銅貨一枚でも高く素材を売ろうとしているのだろう。自分が一度試験に落ちたくらいで、何かが止まるわけではない。豆を口へ運びながらそう考えていると、昼間まで身体のどこかに引っ掛かっていたものが、少しだけ軽くなった。
部屋へ戻ると、ルアンはいつもより早く寝台へ入った。昨日は疲れていたためすぐ眠れたが、今日はなかなか眠気がやってこない。暗い天井を眺めながら何となく右手を持ち上げ、魔力を流す代わりに指先をじっと見つめた。
昨日の試験では、五秒ほどで途切れた。けれど少し前までなら二秒続いただけでも嬉しかったし、そのさらに前には、指先へ小さな光を灯すことさえできなかった。十秒には届かなかったが、五秒はゼロではない。同じ数字なのに、昼間までとは少し違って見えた。
ルアンは右手を下ろした。今日は練習しないと決めたまま、目を閉じた。
翌日の仕事も、いつも通り始まった。十五号導灯に異常はなく、十八号では汚れた外殻を清掃し、二十号では固定具の交換を手伝った。前日より少し奥まで進んだため、中層へつながる分岐にも近づいたが、もちろんその先へ入ることはない。
昼休みに遠くの通路を眺めても、昨日ほど胸は重くならなかった。そこへ行ってみたいという気持ちは、試験に落ちても消えていないらしい。それなら今は、それだけでいい気がした。
仕事を終えて管理院を出ると、迷宮大門の外には昨日と同じ分かれ道が待っていた。右へ行けば月兎亭、左へ行けば七番倉庫。ルアンは少しだけ足を止め、昨日自分が選んだ道を思い出してから、今日は左へ曲がった。
七番倉庫の古い扉を開けると、油と金属の混じったいつもの匂いがした。床へ置いた古い部品も、壁際の壊れた導灯も、一昨日のまま残っている。ルアンは荷重歩行に使っていた革鞄へ手を伸ばしたが、すぐには背負わず、中に詰めていた古い金具をいくつか取り出した。
昨日までなら、試験に落ちた分を取り返そうとして、前と同じ重さか、それ以上で歩き始めていたかもしれない。けれど次の試験までは一か月ある。今日一日で強くなる必要はなかった。
軽くした鞄を背負い、倉庫の端から端まで歩き始める。十往復したところで一度荷物を下ろした。肩への負担は以前より軽いが、姿勢を崩さず、同じ歩幅で進むことを意識すると、それだけでも思っていた以上に脚を使う。
呼吸が落ち着くまで待ってから、今度は右手を前へ出した。胸の奥へ意識を向け、そこから肩、上腕、肘、前腕、手首へと、自分で作った魔力の通り道を辿るように指先までゆっくり流していく。やがて、小さな白い光が灯った。
二秒まではかなり安定している。三秒目へ入っても、以前のようにすぐ大きく乱れることはなかった。ただ、その先へ無理に押し込もうとすると流れが崩れ始めたため、ルアンは三秒ほどで自分から魔力を止めた。
右腕を休ませてから、もう一度試す。今度も三秒ほどで止め、その次は二秒目で流れが揺れたが、以前のように焦ってすぐやり直すことはしなかった。腕を下ろし、感覚が戻るまで待つ。
その間に、昨日の試験で測定器の針が大きく揺れた時のことを思い出した。出力が下がったのを見て焦り、足りない分を埋めようと一気に魔力を押し込んだ。そのせいで今度は基準を越え、慌てて弱めようとしているうちに、最後には流れそのものが崩れた。
必要なのは、強く流すことではない。同じ量を、同じように流し続けることだ。
ルアンはもう一度右手を上げた。胸から肩へ送る魔力を、さっきまでより少しゆっくり流す。強く押し出すのではなく、同じ太さの流れが腕の先まで続いていくところを思い浮かべた。
三秒を越えたところで、わずかに流れが揺れた。そこで力を足さず、そのまま保とうとする。四秒ほどで指先の光は消えたが、ルアンはすぐにやり直そうとはしなかった。
昨日の試験では五秒ほど持ったのだから、数字だけなら記録が伸びたわけではない。けれど、あの五秒は途切れそうな流れを必死に押し続けただけだった。今の四秒は、どこで揺れたのかを自分で感じながら、流れを保つことができた。
ルアンはいったん木箱へ腰を下ろし、右腕に違和感がないことを確かめながら呼吸を整えた。一日何もしなかったことも、悪くなかったのかもしれない。昨日のまま悔しさだけを抱えて倉庫へ来ていたら、きっと五秒を六秒にすることばかり考え、何度も無理をしていただろう。
導灯の修理でも、ただ同じことを繰り返せば直るわけではない。どこに問題があるのかを確かめ、それから触る。ダグが仕事の中で何度もやっていることだった。魔力についても、たぶん同じなのだろう。
一度できたことと、いつでも同じようにできることは違う。
十分に腕を休ませてから、ルアンは木箱を立った。もう一度だけ右手を前へ出し、胸の奥へ意識を向ける。今度は秒数を数えず、同じ流れを作ることだけを考えた。
「……もう一回」
七番倉庫の暗がりに、小さな白い灯りが静かに浮かんだ。




