第8話 中層勤務資格試験
試験当日の朝、ルアンは鐘が鳴る前から目を覚ましていた。ここ数日は起きる時間もすっかり安定し、マーサに大声で叩き起こされることもなくなっている。それ自体は喜ばしい変化なのだが、今日は少し事情が違った。目を開けた瞬間から頭が妙に冴えていて、もう一度眠ろうとしても眠気が戻ってこない。
窓の外はまだ薄暗い。ルアンは寝台の上で右手を開き、胸の奥へ意識を向けた。肩から上腕、肘、前腕、手首、そして指先へ。自分で作った魔力の通り道を辿るように、ゆっくりと流していく。ここ数日の訓練で、二秒程度ならほとんど失敗しなくなった。三秒目まで保てることも増えている。ただ、それ以上を無理に続けようとすると流れが崩れ、腕の内側に嫌な痺れが残った。
今日は試験だ。朝から余計なことをして調子を崩しても仕方がない。三秒目へ入る前に魔力を止め、ルアンは右手を軽く振った。
「……今日はやめとこう」
顔を洗い、仕事着ではなく、管理院から指定された簡素な試験用の服へ着替える。道具はすべて会場に用意されるため、持っていく必要はない。それでも受験票だけは気になり、机の上、胸元のポケット、もう一度胸元のポケットと、三度も確認してから部屋を出た。
月兎亭の食堂へ下りると、マーサが鍋の蓋を開けていた。いつもと違う服装を見て、今日が何の日だったのか思い出したらしい。
「試験かい」
「うん」
「受かりそう?」
「分からない。筆記はたぶん大丈夫だけど、ほかがね」
「珍しく弱気だね」
「最近、自分が思ってるよりできないことが多いって分かってきたから」
マーサは一瞬だけルアンを見たが、何も言わずにいつもの黒パンとスープを置いた。ただ、今日はパンの横に茹でた卵が一つ添えられている。ルアンが卵とマーサを交互に見ると、先回りするように言われた。
「今日は余りものってことにしときな」
「昨日も卵あった?」
「細かい男は嫌われるよ」
「まだ何も言ってないけど」
追及すると取り上げられそうなので、ありがたく食べることにした。
中層保全勤務資格試験は、迷宮管理院の職員なら見習いでも受験できる。ただし実際の合格者は、浅層で数年の勤務経験を積んだ者がほとんどで、十五歳の受験者はかなり珍しいらしい。申請書を出した時にも年齢を何度か確認されたが、規定上は問題なかった。
管理院へ着くと、普段とは少し違う空気が流れていた。いつもはほとんど使われない二階の講義室に十数人の受験者が集まり、机の上には筆記用具だけが並べられている。見回しても、ルアンより若そうな者はいない。ほとんどが二十代で、中にはダグと同じくらいの年齢に見える男もいた。
入口の脇に立っていたダグが、ルアンを見つけた。
「来たか」
「来ますよ。申請したんだから」
「昨夜、訓練しすぎてねえだろうな」
「少しだけ」
「その『少し』が信用ならねえ」
「ちゃんと寝ました」
「ならいい」
今日は試験官ではないらしく、ダグはそれだけ言って階段を下りていった。励ますでもなく、特別扱いするでもない。いつもと変わらない態度が、かえってありがたかった。
最初は筆記試験だった。問題用紙をめくった途端、それまで肩に入っていた力が少し抜けた。
導灯の基本構造。魔石の交換手順。外殻の損傷判定。浸水時の処置。忌避機構の出力が低下した場合の確認順序。どれも毎日の仕事で見てきたものか、管理院の教本で何度も読んだ内容だった。
迷わず答えを書いていく中、一問だけ筆先が止まった。
《紋脈の不調が疑われる作業者が、導灯への魔力補助を行う際に取るべき対応を述べよ》
ルアンは問題文をもう一度読んだ。紋脈に異常がある状態で無理に魔力を流せば、本人の身体だけでなく、接続した器具まで不安定になる可能性がある。自分には紋脈がないため、その感覚を身体で知っているわけではない。それでも、求められている答えは分かっていた。
《作業を中止し、別の有資格者へ交代する。緊急時を除き、本人による継続作業は認めない》
書き終えると、次の問題へ進んだ。試験時間は一時間あったが、四十分ほどで最後まで解き終え、残りの時間で最初から見直した。二か所だけ表現を直し、終了の鐘が鳴った時にはかなり手応えがあった。
続く器具判別では、机の上に並べられた導線、固定環、魔石、調整具、封止材などを見て、それぞれの用途や異常箇所を答えていく。これも迷うことはほとんどなかった。毎日のように実物へ触れている分、教本の図だけで覚えた者より有利なのかもしれない。
三科目目の導灯応急処置も順調だった。試験用に故障箇所を仕込まれた導灯を調べ、制限時間内に最低限の光量を回復させる。ルアンは焦げた導線と緩んだ接点を見つけ、用意された予備部品を使って処置した。
作業を終えかけたところで、第十五導灯のことを思い出す。以前なら、直ったことだけを確認して終わっていただろう。今回は作業前の状態と、自分が触れた箇所を記録板へ書き込んでから手を離した。始末書を書かされた経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「終わりました」
「時間はまだある。再確認しなくていいのか」
「します」
ルアンはもう一度接続部を見直し、調整位置にも異常がないことを確かめる。それから改めて「大丈夫です」と答えた。試験官は何も言わず、手元の板へ何かを書き込んだ。
午前の三科目を終えた頃には、朝から続いていた緊張もかなり薄れていた。中庭で黒パンを食べていると、周囲からほかの受験者たちの声が聞こえてくる。
「筆記の三十七、あれ何だった?」
「応急処置で時間使いすぎた」
「器具判別の最後、見たことねえ部品だったぞ」
ルアンには、どれもそれほど難しく感じなかった問題だった。黒パンを噛みながら、少しだけ頬が緩む。もしかすると、本当に受かるのではないか。
そう思ったところで、ゴードの声が頭をよぎった。
“弱いのに、自分が弱いと知らないのが一番危ねえ。”
岩鼠を倒した時も、少し強くなったつもりだった。その翌日には、初心者相手に一度も勝てなかった。ルアンは昼からの日程表へ目を落とす。
《魔力操作》
《荷重歩行》
まだ二つ残っている。しかも、自分が一番苦手なのはここからだった。
午後最初の試験は魔力操作だった。中層で導灯が一時的に出力を失った場合を想定し、作業者自身の魔力を補助回路へ送り、一定時間維持する。必要なのは強い出力ではなく、決められた量を乱さず流し続けることだった。
試験室の中央には訓練用の導灯と、その出力を測る器具が置かれていた。試験官が規則を読み上げる。
「基準出力を十秒維持。上限を超えても下回っても減点する。基準値から三秒以上外れた場合、その時点で終了だ」
十秒。その数字を聞き、ルアンは無意識に右手を握った。
指先まで魔力を流すだけなら、今の最高は三秒ほど。それも最近になってようやく安定し始めたばかりだ。導灯へ直接魔力を送った経験は、第十五導灯で岩鼠に襲われた時の一度しかなく、しかもあの時は光量を一気に上げただけだった。一定の出力を保つ練習など、ほとんどしていない。
順番を待ちながら、ルアンは何度かゆっくり息を吐いた。前の受験者が導灯へ手を置くと、測定器の針が上がり、中央付近でわずかに揺れながら十秒を保った。その次の者も成功する。誰かが特別にうまいわけではない。中層で働くなら、これくらいできなければならないのだ。
やがて名前が呼ばれた。
「ルアン。前へ」
「はい」
導灯の前へ立ち、右手を補助回路へ触れる。開始の声と同時に胸の奥へ意識を向け、肩から上腕、肘を越え、前腕、手首へと魔力を運んだ。そのまま掌を通して導灯へ流し込むと、測定器の針がゆっくり持ち上がった。
最初は少し低い。ルアンは慎重に流す量を増やし、針を中央へ近づける。
一秒、二秒、三秒。ここまではできる。
四秒目へ入ったところで、腕の内側を通る流れがわずかに揺れた。針が下へ落ち始め、減った分を戻そうと魔力を押し込んだ瞬間、今度は中央を越える。
「出力超過」
試験官の声が耳へ入った。ルアンは焦るなと自分に言い聞かせ、力を抜いて針を中央へ戻す。どうにか基準値へ触れたものの、五秒を越えたところで肩の辺りを流れていた感覚が薄くなり、次の瞬間には腕の途中で魔力が途切れた。
一度崩れた流れを、その場ですぐ同じ形へ戻すことができない。測定器の針が大きく下がり、そのまま戻らなかった。
「終了」
ルアンは右手を離した。十秒の半分を少し越えたところだった。
試験官が記録をつけ始める。その手元を見ながら、分かっていた答えを訊いた。
「もう一度は……駄目ですよね」
「再試行はない」
「はい」
規則にも書いてあった。それでも、訊かずにはいられなかった。
次の受験者へ場所を譲り、壁際へ移動する。右腕には鈍い重さが残っていた。ここ数日は、二秒が三秒になったことばかり見ていた。それは確かに前よりできるようになったということだ。けれど、中層で求められるのは十秒だった。前へ進んでいることと、必要な場所まで届いていることは、同じではない。
最後の荷重歩行も楽ではなかった。規定重量の荷物を背負い、管理院裏手に設けられた訓練路を制限時間内に歩く。単に速く進めばいいわけではなく、途中には階段や坂、身体を低くしなければ抜けられない場所、荷物をぶつけず通らなければならない狭い通路が設けられている。中層で資材を運ぶ状況を想定したものだった。
七番倉庫で重い鞄を背負って歩いたことは無駄ではなかった。最初の平坦な区間なら、荷物の重心を意識しながら一定の速さで進める。しかし長い坂へ差しかかると、少しずつ呼吸が変わった。肩へ食い込む紐が重くなり、脚も踏み出すたびに鈍くなっていく。前を歩いていた受験者の背中が、少しずつ遠ざかり始めた。
時間を意識して足を速めると、今度は呼吸が乱れた。焦れば続かない。だが、速度を落とせば間に合わない。そのまま坂を越えた先には階段が続き、ルアンは呼吸を整える暇もないまま一段ずつ足を上げた。太腿が重く、背中の荷物に後ろへ引かれる。身体を前へ傾けたくなるのをこらえながら上り切ると、その先には低い通路が待っていた。
荷物を背負ったまま膝を曲げ、頭をぶつけないよう身体を沈めて進む。それだけで脚への負担が増し、出口へ出た時には息がかなり上がっていた。最後の狭い区間では荷物の端が壁へ当たり、ごつ、と鈍い音がした。反射的に足を止め、位置を直してから再び歩き出す。その数秒が妙に長く感じられた。
ようやくゴールの線が見えた頃には、前へ進むことだけで精一杯だった。それでも止まらず、最後まで自分の足で線を越える。荷物を下ろした途端、肩から重さが消え、身体が急に軽くなった。
ルアンが膝へ手をついて呼吸を整えている横で、試験官が時計を確認した。
「基準時間超過。二分十四秒」
その数字を聞き、ルアンは一度目を閉じた。魔力操作は基準に届かず、荷重歩行も時間を越えた。午前の三科目がどれほど良くても、中層で実際に動くための二科目がこれでは難しい。
呼吸が落ち着いた頃、五十歳ほどの細身の試験官がルアンのところへやってきた。午前の筆記試験でも前方に座っていた男だった。
「ルアンだったな」
「はい」
試験官は手元の記録板へ目を落とした。
「筆記はほぼ満点。器具判別も問題ない。応急処置も、見習いとしてはかなりいい」
思わず顔を上げたが、続きがあることはもう分かっていた。
「ただ、身体がまだついてきていない。知識があっても、現場まで資材を運べなければ使えない。処置方法を知っていても、必要な間だけ導灯を支えられなければ作業は続けられない。中層は、浅層ほど簡単に引き返せる場所じゃない。今のお前を行かせるわけにはいかない」
責めるような口調ではなかった。それだけに、言葉がそのまま入ってきた。
もし本当に中層で導灯が止まり、自分しかその場にいなかったら、五秒ほどで光を失う。重い資材を運ぶ途中で脚が止まっても、試験のように安全な場所で荷物を下ろせるとは限らない。今日の試験で、どちらも自分の身体が教えてくれた。
「次は、いつ受けられますか?」
「一か月後だ」
「分かりました」
正式な結果は翌日に掲示される。確認しなくても、結果だけはもう分かっていた。
夕方、ほかの受験者たちが次々と帰っていく中、ルアンは管理院の廊下に腰を下ろしていた。脚にはまだ疲労が残っている。立とうと思えば立てるが、今はもう少しだけこのままでいたかった。
悔しくないわけではなかった。けれど、公開訓練で一度も勝てなかった時とは少し違う。あの時は、自分が戦うということを何も知らなかった。そのこと自体に驚いた。今日は、できたものがある。筆記はできた。器具も分かった。導灯も直せた。その分、できなかった二つだけがくっきり残った。
魔力を十秒、安定して流すこと。
規定の荷物を背負い、基準時間内に歩くこと。
廊下の向こうから足音が近づいた。
「終わったか」
顔を上げると、ダグが立っていた。
「はい。落ちました」
「そうか」
「知ってたでしょう」
「落ちるとは思ってた」
「そこは否定してほしかったな」
ダグは何も言わず、ルアンの隣へ腰を下ろした。普段なら立ったまま話を終える人なので、それだけでも少し珍しかった。
しばらく二人で黙っている間に、何人かの職員が廊下を通り過ぎていった。誰もこちらを気に留めない。いつもと変わらない管理院の夕方だった。
「筆記はできました。応急処置も」
「だろうな」
「魔力は五秒くらいで崩れました。荷重歩行は、二分十四秒超過」
「思ったより歩けたな」
ルアンは横を見た。
「今、褒めました?」
「一応」
「初めてじゃないですか」
「うるせえ」
少しだけ笑えた。ダグはやがて立ち上がり、服についたほこりを手で払った。
「で、どうする」
「次も受けます」
「一か月後だぞ」
「はい」
「明日から仕事は普通にある」
「分かってます」
「試験のために仕事へ穴あけたら受けさせねえからな」
「分かってますって」
ダグはそれ以上何も言わず、先に廊下を歩いていった。
管理院を出る頃には、アルネスの空はもう暗くなり始めていた。いつもの癖で七番倉庫へ向かいかけ、最初の角でルアンは足を止める。脚はすでに重く、右腕にも魔力を無理に流した後の鈍い疲れが残っていた。このまま倉庫へ行っても、できることはたかが知れている。そこでさらに疲れれば、明日の仕事へ響くだけだろう。
しばらく角に立ったあと、ルアンは倉庫とは反対の道へ曲がった。以前なら、それでも少しくらいならと訓練していたかもしれない。今日は月兎亭へ帰ることにした。
食堂へ入ると、マーサはルアンの顔を見た。結果を察したのかもしれないが、先に決めつけることはしなかった。
「どうだった?」
「落ちた」
「そうかい」
それだけだった。残念だったね、とも、次があるよ、とも言わない。マーサはいつものように鍋へ向かい、しばらくして湯気の立つ皿をルアンの前へ置いた。
一口飲むと、いつものスープより少しだけ味が深い気がした。
「……おいしい」
「いつもと同じだよ」
そう言われて、ルアンはもう一口飲んだ。
その夜は七番倉庫へ行かず、いつもより早く寝台へ入った。部屋の灯りを消すと、今日の試験で残った二つの数字が何度も頭へ浮かんでくる。魔力は五秒。荷重歩行は二分十四秒超過。中層は、思っていたよりずっと遠かった。
けれど昨日までのように、ただ遠くにあるわけではない。十秒まで、あとどれだけ足りないのか。荷物を背負って歩けば、自分の脚がどこで重くなるのか。今日初めて、それを自分の身体で知った。
明日になれば、またいつもの仕事がある。その仕事をしながら、魔力を乱さず流せる時間を少しずつ延ばす。荷物を背負って歩ける身体を作る。短剣を抜く練習も、相手を見る練習も続ける。一か月で何もかも変わるとは思っていない。それでも、一か月あれば今日より先へは行ける。
ルアンは目を閉じた。悔しさはまだ残っていたが、消そうとは思わなかった。静かな部屋の中でしばらく呼吸を整えてから、小さく呟く。
「……もう一回」




