第7話 もっと先へ
翌朝、ルアンは目覚まし代わりの鐘が鳴る少し前に目を覚ました。身体の痛みは昨日よりずいぶん軽くなっている。腕や脇腹にはまだ鈍い張りが残っていたが、寝台から起き上がるだけで顔をしかめるほどではなかった。
窓を開けると、冷たい朝の空気が部屋へ流れ込んだ。遠くで迷宮大門の鐘が鳴り、眠りの残っていた頭が少しずつ冴えていく。
月兎亭の食堂へ下りると、マーサはすでに朝食の準備を始めていた。最近はルアンが自分で起きてくることにも慣れたらしく、以前のように驚かれることもない。
「今日は歩き方が普通だね」
「だいぶ治ってきたから」
「つまらないねえ」
「何を期待してたの?」
マーサは答えず、隣の客の皿へスープをよそい始めた。どうやら本当に、少し面白がっていたらしい。
ルアンは黒パンをちぎり、いつもの薄いスープへ浸した。身体が痛くないだけで、昨日よりずっと食事がしやすい。
朝食を済ませて迷宮管理院へ向かう途中、大門前でルアンは足を止めた。ちょうど何人かの探索者が迷宮から戻ってきたところだった。全員が泥とほこりにまみれ、一人は肩に長い布包みを担ぎ、別の男は青白く光る鉱石を詰めた籠を持っている。
どちらも、ルアンが浅層で見たことのないものだった。
装備も違う。腰に提げた道具も、靴についた泥の色も違って見える。おそらく、ずっと深い場所から戻ってきたのだろう。
少し前までなら、ただ格好いいと思って眺めていた。けれど今は、彼らが迷宮へ入ってから戻ってくるまでの間に何をしているのか、ほんの少しだけ想像できる。
武器を握ること。周囲を見ること。何かが起きても慌てずに身体を動かすこと。それを繰り返しながら、自分の足で大門まで戻ってくる。
そう思うと、以前よりずっと遠い人たちに見えた。
それでもルアンの目は、探索者たちが出てきた大門の奥へ向いた。
自分の知らない場所が、あの先にはまだ続いている。
その日の仕事は、十一号から十七号までの導灯の定期点検だった。どの導灯も状態は安定しており、十五号にもあの妙な暗がりは現れていない。ダグと一基ずつ確認しながら進み、十七号の記録を書き終えた頃には昼になっていた。
壁際へ腰を下ろし、ルアンは持ってきた黒パンを取り出した。ダグは隣で干し肉を噛みながら、午前中の点検表へ目を通している。
ルアンはパンを一口食べ、その先の通路を眺めた。
十七号の向こうにも、青白い灯りは一定の間隔で続いている。十八号、十九号、そのさらに先へ。浅層の管理区域だけでもまだ長く、やがて通路のいくつかは、もっと深い場所へ続いていく。
中層。
管理院の記録なら何度も読んだことがあった。
巨大な地下湖。天井から淡く光る苔が垂れ下がる洞窟。浅層では見かけない植物や魔物。地図には通路の形が描かれ、導灯の設置位置も記されている。
けれど、地図から湿気は伝わってこない。水の音もしないし、どれほど暗い場所なのかも分からない。
「ダグさん」
「何だ」
「中層の導灯って、浅層と同じなんですか?」
ダグが点検表から目を上げた。
「基本は同じだ。場所によって仕様は変えるけどな」
「どう変えるんです?」
「湿気がひどいところなら外殻を厚くする。魔物が多い区域じゃ忌避出力も上げる。地下湖の周辺なら固定方法も違う」
ルアンは黒パンを持ったまま、少し身を乗り出した。
「地下湖って、導灯は水の中にもあるんですか?」
「岸だけだ。水の中に置いてどうすんだ」
「目印になるかなって」
「誰の」
「迷宮の魚とか」
「魚に道案内してどうする」
ダグは呆れたように干し肉を噛んだ。
「……迷わなくなるかもしれないじゃないですか」
「魚が迷ってるかどうか、まず確かめてこい」
どうやって確かめればいいのだろう。ルアンは少し考えたが、たぶん聞いてもまともな答えは返ってこない。
黒パンへ視線を戻しても、頭の中にはまだ地下湖が残っていた。
図面では知っている。点検記録も読んだことがある。それでも、そこに立った時にどんな音がして、どんな匂いがして、導灯の光が水面へどう映るのかは知らない。
「中層の点検、僕も行けませんか?」
ダグは干し肉を持つ手を止めた。
「行けない」
「やっぱり?」
「お前、中層勤務資格持ってねえだろ」
灯守が担当できる区域は資格によって分けられている。見習いのルアンが入れるのは、原則として浅層の管理区域までだった。中層へ入るには、導灯についての知識だけではなく、体力や魔力操作、緊急時の対応能力などを確認する試験に通らなければならない。
それくらいは、ルアンも知っている。
だから、続けた。
「試験、受けたいです」
ダグの眉がわずかに寄った。
「まだ早い」
「受けるだけでも?」
「落ちるぞ」
「それは、受けてみないと分からないでしょう」
「分かる」
「何でですか」
ダグは残っていた干し肉を口へ入れ、噛み終えてからルアンの右腕を見た。
「今のお前、魔力を安定して使えるか?」
返事が出なかった。
三秒。
それも、調子がいい時に一度だけ成功しただけだ。長く保とうとすればすぐに流れが乱れ、腕の途中で魔力が途切れてしまう。
「中層は、浅層みたいに何かあったら職員呼んで終わりじゃねえ。自分の荷物を持って長い距離を歩くし、導灯が止まれば、その場で応急処置もする。魔物が出ることだってある」
「分かってます」
「分かってねえから言ってんだ」
少しだけ腹が立った。
以前なら、そのまま何か言い返していたかもしれない。けれど口を開く前に、昨日ゴードから言われた言葉が蘇った。
“弱いのに、自分が弱いと知らないのが一番危ねえ。”
木剣をまともに振れない。体力も足りない。魔力だって、ほんの数秒しか保てない。そのくらいは、もう分かっている。
だからこそ、ルアンは言い返す代わりに、ひとつ息を吐いた。
「じゃあ、何ができれば受けられます?」
ダグが眉を上げる。
「何?」
「まだ早いなら、いつならいいんですか」
しばらくルアンの顔を見ていたダグは、やがて点検表を畳んで脇へ置いた。
「受験そのものに年数制限はねえ。見習いでも申請はできる」
「じゃあ、受けられるじゃないですか」
「受けられるのと、受かるのは別だ」
「それでもいいです」
ダグの目が少しだけ細くなった。
「何で、そんなに中層へ行きたいんだ?」
聞かれて、ルアンはすぐには答えられなかった。
強くなりたい気持ちはある。迷宮を歩く探索者たちへの憧れも、昨日見たセインのように、自分よりずっと先を歩いている人間への羨ましさもある。
けれど、それだけではなかった。
ルアンは十七号の向こうへ目を向けた。青白い導灯が奥へ連なり、その先は曲がり角の向こうへ消えている。
「見てみたいんです」
ダグは何も言わなかった。
「地図では知ってるけど、本物は見たことないから。地下湖も、その先の洞窟も。導灯がどんなふうに置かれてるのかも、浅層と何が違うのかも、自分の目で見てみたい」
口に出してみると、自分でも驚くほど単純だった。
誰かに認められたいわけでも、偉くなりたいわけでもない。
知らない場所がある。
なら、見てみたい。
ダグはしばらく黙っていたが、やがて残っていた干し肉を口へ放り込んだ。
「明日、申請書出せ」
「え?」
「試験だよ」
「受けていいんですか?」
「受けたいんだろ」
「でも、さっき落ちるって」
「今でも落ちると思ってる」
「じゃあ何で」
ダグは何でもないことのように点検表を取り上げた。
「自分で落ちた方が分かることもある」
嬉しいのか、腹を立てればいいのか、よく分からない。
「それ、応援してます?」
「してねえ」
「少しくらいしてくれてもいいでしょう」
「受かりそうになったら考える」
相変わらずだった。
午後の仕事を終えて地上へ戻る頃には、ルアンの頭は試験のことでいっぱいになっていた。管理院で工具を片付けながら、壁に貼られた資格試験の告知を見上げる。
《中層保全勤務資格試験》
次の実施日は五日後。
試験科目は、筆記、器具判別、導灯応急処置、魔力操作、荷重歩行の五つだった。
前の三つなら、それなりにやれる気がする。導灯の構造は毎日の仕事で覚えてきたし、工具や部品も一通り扱える。応急処置についても、ダグの作業を何度も横で見てきた。
問題は、残り二つだった。
昨日の訓練では、自分がどれほど身体をうまく使えていないのか思い知らされたばかりだ。魔力も、右腕へ安定して流せるのはまだ数秒しかない。
五日で別人になれるとは思っていない。
それでも、五日あれば今より少しはましになれる。
告知を見上げていると、背後を通りかかったダグが足を止めた。
「無茶して仕事休んだら、申請取り消すからな」
「分かってます」
「夜中まで訓練すんなよ」
「しません」
「嘘くせえな」
ルアンは答えなかった。
たぶん、少しくらいはする。
仕事を終えると、ルアンは大門市場へ寄った。新しい道具を買う金はないが、荷重歩行の練習に使えそうなものがないか見ておきたかった。
夕方の市場には、いつもの騒がしさが戻っていた。探索者が持ち帰った素材を値踏みする声が飛び交い、屋台からは焼いた肉や香辛料の匂いが流れてくる。荷車を避けながら歩いていると、ドルン商会の前に見覚えのある赤茶色の髪が見えた。
ミレーナだった。
今日もバッカスと何か揉めている。
「これは九枚」
「七」
「昨日より状態いい」
「昨日とは種類が違うだろ」
「じゃあ八枚五十」
「何で俺が譲ったみたいになってんだ」
相変わらずだった。
声を掛けようか少し迷ったものの、ルアンはそのまま通り過ぎることにした。まだ友達というほど話したわけでもないし、前回まともに交わした言葉の半分は、銀貨十二枚を返せという話だった。
数歩進んだところで、背中へ声が飛んできた。
「銀貨十二枚」
ルアンは足を止めた。
振り返ると、ミレーナがこちらを見ている。
「名前じゃないよ、それ」
「覚えやすいから」
「僕にはルアンって名前があります」
「知ってる」
一瞬だけ言葉に詰まった。
「……知ってるんだ」
「銀貨十二枚よりは覚えにくいけど」
それだけ言うと、ミレーナは何事もなかったようにバッカスとの交渉へ戻っていった。
覚えてくれていたらしい。
少し嬉しい気もしたが、呼び方についてはまったく改善していなかった。
七番倉庫へ着くと、ルアンはまず革鞄へ使わなくなった金具や古い部品を詰めた。肩へ掛けてみると、それなりの重さがある。中身が動くたびに、金属同士がごつごつと鈍い音を立てた。
鞄を背負い、倉庫の端から端まで歩く。最初の十往復ほどは何でもなかったが、二十を過ぎる頃には肩へ紐が食い込み、脚にも重さが溜まり始めた。三十往復を前にして、ルアンは鞄を下ろした。
中層で資材を運ぶなら、おそらくこの程度では済まない。距離はもっと長く、床も平らではなく、途中で立ち止まって導灯を直すことだってある。
倉庫の床を歩いただけで息を弾ませている自分の脚を見れば、ダグが「落ちる」と言った理由もよく分かった。
少し休んでから、今度は魔力操作を試す。
右手を前へ出し、胸の奥へ意識を向ける。そこから肩、腕、肘、手首へと、自分で作った魔力の通り道をゆっくり辿っていく。
指先に、小さな白い光が灯った。
二秒までは、もう慌てなくても保てる。
三秒目へ入ると、腕の内側を流れていたものがわずかに揺れた。そこで押し込もうとすると流れはさらに乱れ、光がふっと消える。
ルアンは腕を下ろした。
まだ三秒。
それでも、以前は二秒目に入る前に消えることも多かった。
少し休んだあと、もう一度鞄を背負う。倉庫の端まで歩き、折り返す。肩が痛くなれば下ろし、呼吸が戻ったらまた持ち上げる。
次は短剣を抜いた。
鞘へ引っ掛からないよう、柄へ余計な力を入れずに抜き、そのまま戻す。もう一度。同じ動きを何度か繰り返してから、再び魔力を腕へ流した。
どれも地味なことばかりだった。
新しい技を覚えるわけでも、急に強くなるわけでもない。それでも今のルアンには、できないことを一つずつ減らしていく以外のやり方を思いつかなかった。
帰る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
七番倉庫の扉へ鍵を掛け、ルアンは遠くに見える迷宮大門へ目を向けた。夜でも門の周囲には灯りがあり、その下を探索者や管理院の職員たちが行き来している。
あの下には、自分がまだ一度も見たことのない場所が広がっている。
地下湖もある。
光る苔の洞窟もある。
地図でしか知らない導灯が、知らない暗闇の中に立っている。
試験に受かったからといって、すぐ好きなだけ中層へ行けるわけではない。それでも、そこへ進むための一歩にはなる。
ルアンはしばらく大門を眺めたあと、ポケットへ鍵をしまった。
「……見てみたいな」
誰に聞かせるでもなく呟き、月兎亭へ向かって歩き出した。




