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第6話 槍の少年

翌朝、目を覚ました瞬間、ルアンは身体のあちこちに昨日より重い痛みが残っていることに気づいた。腕も脚も痛い。背中まで鈍く張り、寝台から起き上がろうと腹に力を入れたところで、脇腹にも痛みが走る。昨日の公開訓練で木剣をもらった場所だろう。


しばらく天井を見上げたまま、このまま動かずにいたくなった。それでも仕事を休むわけにはいかない。時間をかけて身体を起こし、両足を床へ下ろしたところで、思わず声が漏れた。


「痛っ……」


昨日は普通に歩いて帰れたのに、一晩経ってからこんなことになるらしい。知らなかった。


月兎亭(げっとてい)の食堂へ下りると、マーサはぎこちない歩き方を一目見ただけで事情を察したらしい。何も聞かず、いつもより深い皿へスープをよそった。


「今日は静かだね」

「身体中痛いんだよ」

「若いうちだけだよ。筋肉痛を自慢できるのは」

「自慢してないけど」


椅子へ座るだけでも脇腹が痛み、ルアンは顔をしかめた。黒パンをスープへ浸し、柔らかくしてから口へ運ぶ。


昨日は一度も勝てなかった。それでも、公開訓練へ行ったこと自体を後悔はしていない。自分が思っていたよりずっと弱いことは分かったし、短剣を振れることと戦えることが、まるで別なのも少しだけ見えた。知らないままでいるよりはいい。


あとは、何をすれば少しでも先へ進めるのかだった。


その日の仕事は、導灯(どうとう)の定期点検だった。幸い重い資材を運ぶ作業はなく、十二号から十七号までをダグと順番に巡回していく。


とはいえ、しゃがんでは立ち、数歩進んでまたしゃがむ灯守(ともり)の仕事は、痛む身体には思った以上に堪えた。十六号を終える頃には、ルアンは立ち上がるたびに小さく息を吐くようになっていた。


昨日異常のあった十五号は、今日も正常だった。青白い光は石壁の隅まで届き、妙な暗がりもない。ダグはいつもより少し長く魔石の出力や接続部を調べたが、やはり異常らしい異常は見つからなかった。


ルアンは隣で記録をつけながら、昨日の訓練場を思い返していた。自分は剣を振ることばかり考えていた。けれど相手は、その前から動いていた。距離を変え、立つ場所を変え、こちらが剣を上げるより先に次の動きを始めていた。


「ダグさん」

「なんだ」

「戦う時って、どこを見ればいいんですか?」


ダグは十五号の覆いを閉じながら、間を置かずに答えた。


「知らん」

「即答ですね」

「俺は戦闘教官じゃねえ。分からんことを適当に教える方が危ねえだろ」

「それは……そうですけど」

「聞く相手を選べ」


ダグはそれだけ言って、次の導灯へ歩き始めた。少しくらい考えてくれてもいいのに、とルアンは思った。それでも昨日のゴードの話を聞いたあとでは、知ったふりをされるよりずっとましな気もした。


仕事が終わると、ルアンは迷宮管理院を出て、そのまま探索者組合へ向かった。今日も公開訓練があるとは聞いていない。それでも昨日見た足の運びを、自分でもう一度試してみたかった。使わせてもらえないなら、その時は帰ればいい。


受付にいたゴードは、ルアンの姿を見るなり眉を寄せた。


「また来たのか」

「昨日みたいな訓練、今日もできますか?」

「公開訓練はねえぞ」

「あ……そうですか」


肩を落としかけたルアンを見て、ゴードは小さく息を吐いた。


「訓練場は空いてる。邪魔にならんところで勝手にやれ」

「いいんですか?」

「木剣は壊すなよ」


ルアンは昨日の自分を思い出してから、少し首を傾げた。


「たぶん、大丈夫だと思います」

「そっちの心配はしてねえ」


どういう意味だろうと思ったが、聞かないことにした。


裏手へ回ると、訓練場にいる者は昨日よりずっと少なかった。何組かが打ち合いをしているほかは、それぞれ壁際や空いた場所で素振りや足運びを繰り返している。


ルアンは貸し出し用の木剣を一本取り、端の空いている場所へ移動した。まずは昨日覚えたことから始める。構えて、足を開き、前へ出て、戻る。


それだけなのに、思うようにはいかなかった。足の動きだけなら何とかなるのに、そこへ木剣を振る動作を加えた途端、身体のどこかがずれる。右足を踏み出したつもりが上半身だけ前へ流れ、踏ん張ろうとすると今度は肩に余計な力が入った。


何度か繰り返しているうちに、昨日打たれた脇腹がまた痛み始めた。少し休もうと木剣を下ろした、その時だった。


ぱん、と乾いた音が訓練場に響いた。


木と木がぶつかる音とは少し違う。空気そのものを叩いたような鋭さに、ルアンは反射的に振り向いた。


反対側で、一人の少年が訓練用の槍(やり)を振っていた。年齢はルアンより二つほど上だろうか。背は高く、身体つきは細い。短く切った蜂蜜色の髪と、相手へ向ける明るい表情だけを見れば、とりわけ強そうには見えなかった。


けれど、槍を構えた途端に印象が変わった。


突いて、引く。半歩ずれ、また突く。動作そのものは大きくない。力任せに槍を振り回すこともなければ、地面を強く蹴って飛び込むこともない。それなのに、穂先(ほさき)は一度も行き先を迷わなかった。


足が動けば槍が動き、槍が戻る頃にはもう次の場所へ身体が移っている。速いというより、動きが途切れない。ルアンは木剣を持ったまま、その連なりに見入った。


少年の相手をしているのは、二十代ほどの探索者だった。体格なら明らかに男の方が大きい。片手剣と小盾を構え、槍の間合いへ入り込もうと少しずつ距離を詰めていた。


それでも少年は、ただ後ろへ下がろうとはしなかった。槍の穂先をわずかに動かす。そのたびに男の足が止まる。次に男が盾を前へ出して踏み込んだ瞬間、少年の身体が半歩だけ横へずれた。


槍の柄が、剣を持つ手首へ軽く触れる。乾いた音を立てて、男の剣が地面へ落ちた。


「そこまで!」


監督役の声が飛んだ。少年はすぐに槍を下ろし、相手へ笑って頭を下げた。勝ったことを誇る様子もなく、落ちた剣を拾って男へ渡している。


速かった。けれど、それだけではない気がした。


何が違うのだろう、とルアンが少年の足元へ目を凝らしたところで、不意に目の前から声がした。


「おい」


振り向いた瞬間、木剣が肩へ当たった。


「痛っ!」


いつの間にか、自分の順番が来ていたらしい。相手の少年が木剣を肩へ載せたまま、呆れた顔をしている。


「人の訓練見てる場合じゃないだろ」

「ご、ごめん」


昨日と同じだった。相手が目の前にいるのに、自分は別のものを見ていた。


ルアンは慌てて構え直した。今度こそ目の前へ集中しようとしたものの、視界の端で槍の少年が動くたび、どうしてもそちらが気になる。足なのか。腕なのか。距離の取り方なのか。何が違うのか考えている間に相手が踏み込み、木剣が胸へ触れた。


次は絶対に槍の少年を見ないと決めた。正面だけを見る。相手の肩、剣、足。何かが動けば、そこから次を読めるはずだった。


ところが、全部を見ようとした途端、かえって何も見えなくなった。肩が動いたと思えば足も出る。剣先もこちらへ向かってくる。どこを追えばいいのか迷った瞬間にはもう遅く、慌てて振った木剣は空を切った。そのまま脇を抜かれ、背中へ軽い一撃をもらう。


今日も簡単には勝てそうになかった。


それから何人か相手を替えながら、ルアンは訓練を続けた。昨日より長く立っていられる場面は増えたが、相変わらず一本も取れない。ただ、何をされたのか分からないまま終わることは少し減っていた。


踏み込んできた。剣が振られた。横へ回られた。避けることはできなくても、その動きが昨日よりわずかに追えるようになっている。ほんの小さな違いだったが、負けるたびに何も残らなかった昨日とは少し違った。


壁際へ座って水を飲んでいると、訓練場の中央から声が飛んだ。


「セイン、次入れ」


さっきの槍の少年が「はいよ」と軽く返事をした。


セイン。


ルアンは水筒へ口をつけたまま、その名前を頭の中で一度繰り返した。


次の相手は、先ほどよりずっと大柄な男だった。セインが槍を構える気配に、またそちらを見たくなる。けれどルアンは水筒を置いて立ち上がった。


人の動きを眺めているだけで、自分までうまくなった気になるのは違う。昨日の自分は、短剣を一度うまく振れただけで少し強くなったと思っていた。今はまず、自分の足をまともに動かす方が先だ。


木剣を構え、一歩進んで戻る。もう一歩。背後で槍と木剣がぶつかる乾いた音がした。


見たい。かなり見たい。


それでも正面を向いたまま、右足を出し、左足を運び、崩れた構えを直す。何度か繰り返したところで、とうとう我慢できなくなった。


一度だけなら。


そう思って顔を向けると、セインと目が合った。


試合の途中だった。


ルアンが固まっている間に、セインは大男の木剣を槍の柄で受け流し、そのまま身体を横へ滑らせた。それでも一瞬だけ、こちらへ視線を寄こす。


「俺じゃなくて、相手見ろよ」


言い終える頃には、もうセインの目は大男へ戻っていた。次の踏み込みをかわし、槍を返す。数秒後には、その穂先が相手の胸元でぴたりと止まった。


「そこまで!」


またセインの勝ちだった。


ルアンは木剣を握ったまま、その場に立っていた。見ていることに気づかれていたのも恥ずかしい。まして試合の途中で注意されるとは思わなかった。


けれど、それ以上に一言が引っ掛かった。


“俺じゃなくて、相手見ろよ。”


昨日からずっと、ルアンはどこを見ればいいのか考えていた。肩なのか。剣なのか。足なのか。何か一つを見つけようとするたびに視線が動き、ほかの動きを見失っていた。


ルアンは近くにいた訓練相手へ頭を下げた。


「もう一本、お願いします」


木剣を構える。今度は剣先だけを追わなかった。肩だけを見つめるのもやめ、少し力を抜いて、正面に立つ相手そのものを視界へ入れる。


開始の合図と同時に、相手の右足が前へ出た。それにつられるように肩が動き、木剣が振り上がる。さっきまで別々に追いかけていたものが、初めて一つの動きとして見えた。


ルアンは身体を横へずらした。木剣が肩のすぐ脇を通り過ぎる。


避けられた。


嬉しくなって口元が緩んだ、その瞬間だった。足が止まり、二撃目の木剣が、こつんと頭へ触れた。


「一本」


結局、また負けた。それでもルアンは頭をさすりながら、少しだけ笑った。


「もう一本、お願いします」


その日の訓練も、一度も勝てないまま終わった。ただ、一度だけ攻撃を避けることができた。


昨日は何をされたのかさえ分からなかった。今日は相手が動くのが見え、そのうちの一度だけ、自分の身体を先に動かすことができた。勝つにはまだ遠い。それでも、昨日とまったく同じではない。


木剣を返す頃には、セインの姿はもう訓練場になかった。言葉を交わしたのは、たった一度だけ。向こうはルアンの名前すら知らないだろう。


ルアンが知ったのは、セインという名前と、槍を持った時のあの動き。それから、試合の途中に投げられた短い一言だけだった。


七番倉庫へ戻ると、ルアンは壁際の古い支柱を手に取った。昨日のように足の位置だけを確かめるのではなく、正面に誰かが立っているところを思い浮かべる。肩でもない。手でもない。足でもない。その全部を持った一人の相手が、そこにいる。


構えて、一歩踏み出す。支柱の先がぶれ、身体も少し前へ流れた。元の位置へ戻り、もう一度。同じように足を運ぶと、今度はさっきよりわずかに身体が残った。


昼間に見たセインの槍が頭に浮かんだ。速かった。けれど思い返してみると、速さよりも先に浮かぶのは足だった。槍を突いた時には、もう次に立つ場所へ身体が動き始めていた。


自分とは、ずいぶん違う。


それでも、昼間に一度だけ木剣を避けた時の感覚はまだ身体に残っている。ほんの半歩横へ動いただけで、昨日までなら必ず当たっていた剣が、自分の肩の脇を通り過ぎた。


ルアンは支柱を構え直した。正面の何もない空間を相手だと思い、その全体を視界へ入れる。足を一歩運び、身体が前へ流れそうになるのをこらえた。


「……もう一回」


暗い七番倉庫に、靴底が床を擦る小さな音が響いた。

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