第5話 弱いということ
翌朝、ルアンが月兎亭の食堂へ下りると、マーサは窓際の椅子に腰掛け、何かを縫っていた。膝の上にある濃灰色の布には見覚えがある。昨日、岩鼠の爪に裂かれた仕事着だった。裾には丁寧に当て布がされ、ほつれた箇所も、目を凝らさなければ分からないほど綺麗に縫い直されている。
「それ、僕の上着?」
「ほかに誰のだい」
マーサは最後の糸を切ると、畳んだ上着をルアンへ放って寄こした。礼を言って受け取ったところで、「銅貨五枚」と当然のように手を差し出される。どうやら親切だけで直してくれたわけではないらしい。
少し釈然としなかったものの、仕上がりを見れば文句も言えない。ルアンは銅貨を五枚渡し、いつもの黒パンと薄いスープを口へ運びながら、昨日の出来事を思い返した。
第十五導灯。妙に光の届かない通路。二度も手から落とした短剣。そして最後には、自分の手で倒した魔物。
怖かった記憶は、まだ生々しく残っていた。短剣の刃が首の下へ入り込んだ感触まで、手のひらの奥に残っているような気がする。それでも同時に、ほんの少しだけ胸を張りたい気持ちもあった。
駆け出しの探索者が最初に相手をする程度の魔物とはいえ、一人で倒した。魔力を右腕へ流し、一度だけとはいえ普段以上の力も出せた。昨日までの自分よりは、ほんの少し先へ進めたのではないか。
「また変な顔してるよ」
顔を上げると、マーサが呆れたようにこちらを見ていた。
「変な顔してました?」
「してたね。今度はちょっと得意そうな顔」
言われて、ルアンは黒パンへ視線を落とした。どうやら考えていることが顔に出る癖だけは、昨日から何も成長していないらしい。
午前の仕事では、十二号から十六号までの導灯をダグと回った。昨日異常のあった十五号には別の技師も同行し、周囲の壁から内部の機構まで念入りに調べたが、結局これといった原因は見つからなかった。
魔石の出力は正常。導線にも異常はなく、接続部や調整環にも、ルアンが触った痕跡以外に問題はない。青白い光は今日も普段と変わらず灯り、石壁の隅まできちんと届いていた。
「昨日は、本当に周りだけ暗かったんだな?」
ダグに念を押され、ルアンは頷いた。
「はい。導灯そのものは明るかったです。でも、その光が途中で消えていくみたいに見えました」
技師はもう一度十五号の周囲を見回し、壁へ手を当てたり、床際を調べたりしていたが、やがて小さく首を振った。この街で長く導灯を扱ってきた彼にも、思い当たる現象ではないらしい。
ひとまず十五号は監視対象となり、しばらくの間だけ点検回数を増やすことになった。
十六号へ向かう途中、ルアンは昨日倒した岩鼠についてダグに尋ねた。自分があれほど苦戦した相手が、探索者から見ればどの程度の魔物なのか、少し気になっていた。
「かなり弱い」
返事は、思っていた以上にあっさりしていた。
「……かなり、ですか」
「まともに基礎訓練を受けてりゃ、一対一で苦戦する相手じゃない」
昨日の自分の必死さを思い出し、ルアンはわずかに肩を落とした。あれほど怖くて、短剣まで二度落として、それでもどうにか倒した相手が、探索者にとっては初心者用らしい。
横目でその様子を見たダグが、鼻を鳴らした。
「仕事が終わったら、探索者組合へ行ってみろ。今日は初心者向けの公開訓練をやってる」
「僕でも参加できるんですか?」
「登録前の奴も来る。自分がどの程度か知るには、ちょうどいいだろ」
ルアンは少しだけ考え、それから頷いた。
仕事を終えた夕方、ルアンは迷宮大門の向かい側にある探索者組合へ向かった。管理院よりもずっと大きな建物で、開け放たれた入口からは剣や槍を提げた人間が絶えず出入りしている。
仕事の連絡で中へ入った経験なら何度もあった。それなのに、今日は自分のために扉をくぐるだけで、いつもより足が重く感じられた。
広い受付室の壁には、依頼書や魔物への注意書き、行方不明者の情報、素材の買い取り価格などが隙間なく貼られている。革鎧や外套を身につけた探索者たちの間では、管理院の作業着姿のルアンは少し場違いだった。
公開訓練の受付を探していると、部屋の端にある窓口から声を掛けられた。
「公開訓練か?」
座っていたのは四十代半ばほどの男だった。短く刈った髪には白いものが混じり、左目の下には古い傷が一本走っている。椅子の脇には、使い込まれた一本の杖が立て掛けられていた。
ルアンが頷くと、男は登録証の有無や武術経験について簡単に尋ねてきた。昨日初めて岩鼠を一匹倒したこと。正式に剣を習った経験はほとんどないこと。探索者になるかどうかも、まだ決めていないこと。正直に答えると、男は帳面へルアンの名を書き込んだ。
「ゴード・ネスだ。今日は俺が監督してる。裏の訓練場へ行け」
「ありがとうございます」
立ち去ろうとしたルアンの背中へ、ゴードがもう一言投げた。
「調子に乗るなよ」
思わず振り返る。
「乗ってません」
「昨日初めて魔物を倒して、今日ここへ来た奴は、大体そう言う」
ルアンは口を開きかけ、そのまま閉じた。思い当たるものが、まったくないとは言えなかった。
裏手の訓練場には、すでに二十人ほどが集まっていた。ルアンより年下に見える者もいれば、二十歳を過ぎていそうな者もいる。装備も服装もばらばらだが、多くはこれから探索者を目指そうとしている者たちらしい。
中央では二人の少年が木剣を打ち合わせていた。
ルアンは、剣そのものよりも二人の足元へ目を奪われた。前へ出て、引き、横へずれる。どの動きも止まらず、そのまま次の一歩へつながっている。昨日の自分のように、相手が来てから慌てて身体を動かしているわけではなかった。
やがて順番が回ってきた。
最初の相手は、ルアンより少し体格のいい少年だった。貸し出された木剣を握り、先ほど見た構えを思い出しながら真似てみる。正しいのかどうかも分からないまま、開始の合図を待った。
相手が踏み込んだ。
その動きを目で追った次の瞬間、肩に鋭い衝撃が走った。
「痛っ!」
気づいた時には、もう終わっていた。
一本取られたのだと理解するまでに、少し時間がかかった。相手の少年は申し訳なさそうに頭を下げていたが、ルアンには何をされたのかさえよく分からない。前へ出てきた。剣が動いた。そして肩を打たれた。認識できたのは、それだけだった。
二度目は、最初から相手の動きを見るつもりで構えた。ところが木剣を上げた時には、脇腹へ一撃をもらっていた。三度目は打たれまいと距離を取り続け、気づけば訓練場の端へ追い込まれている。横へ逃げようとしたところで足がもつれ、今度は相手に剣を振らせることさえなく地面へ転がった。
起き上がりながら、ルアンは膝についた砂を払った。
「……弱いな、僕」
昨日も似たような言葉を口にした。けれど、今はその意味がまるで違っていた。
昨日は怖くても、失敗しても、最後には魔物を倒した。今日は何一つできていない。しかも相手は、名のある探索者でも、長く迷宮を歩いてきた熟練者でもない。自分と同じ、これから探索者になろうとしている初心者だった。
それでもルアンは、もう一度列の最後尾へ並んだ。
四度目の相手は、最初に負けた少年だった。
今度は待たず、自分から動くことにした。開始の合図と同時に胸の奥へ意識を向け、魔力を右肩から腕へ流す。魔力が右腕へ流れ、内側に昨日と同じ熱が走った。
踏み込みながら木剣を振る。速さだけなら、さっきまでとは明らかに違っていた。
だが、少年は身体を大きく引くことすらしなかった。ほんの一歩横へずれただけで、木剣は何もない空間を通り過ぎる。そのまま足を払われ、ルアンは背中から地面へ落ちた。肺から息が押し出され、目を開けた時には、木剣の先が胸の前でぴたりと止まっていた。
右腕には、まだ力が残っている。
けれど、その力は相手に触れもしなかった。
地面に横たわったまま、ルアンは昨日の岩鼠を思い出した。あの魔物は自分へ真っ直ぐ飛び込んできた。そこへ腕を振った。それが当たった。
自分がうまく当てたのではなく、向こうから当たりに来ただけだったのかもしれない。
それからも訓練を続けた。五度目も負け、六度目には一度だけ相手の木剣を受けることができた。七度目は十三秒ほど持ちこたえたが、それがこの日の最長だった。
結局、一度も勝てなかった。
訓練が終わる頃には、腕も脚も痣だらけになっていた。木剣を返し、荷物をまとめていると、入口近くの壁にもたれてゴードがこちらを見ていることに気づいた。いつから見ていたのかは分からない。
「どうだった」
「僕、かなり弱いですね」
「知ってる」
慰める気はないらしい。ルアンが何とも言えない顔をすると、ゴードは杖をつきながら訓練場へ入ってきた。
「あの右腕のやつ。自分でやったのか」
先ほど右腕へ魔力を流した時のことだとすぐに分かった。ルアンが、自分で魔力を身体へ流す練習をしていると説明すると、ゴードの表情からわずかに軽さが消えた。
「探索者になるのは、やめとけ」
思ってもいなかった言葉に、ルアンは顔を上げた。
「今日、負けたからですか?」
「今日の《《負け方》》を見たからだ」
ゴードは淡々と続けた。剣の振り方を知らない。間合いも分かっていない。足の動かし方も身についていない。怖くなると相手の武器ばかりを見る。そして自脈を使った時には、当てることしか考えていなかった。
どれも、言い返せることではなかった。
ルアンは少し考えてから尋ねた。
「練習すれば、できるようになりますか?」
ゴードはすぐには答えず、杖の先で地面を一度叩いた。
「なるかもしれん。だが今のお前が、『昨日より強くなった』と思って迷宮へ入れば死ぬ」
ルアンの指が、持っていた荷物の紐を強く握った。
ゴードはこれまで、似たような若者を何人も見てきたのだという。初めて魔物を倒した。新しい技が使えた。少し強くなった。そうして自分には才能があると思い、それまでより一段深い場所へ足を踏み入れる。
そこまで話したところで、ゴードの視線が一瞬だけ傍らの杖へ落ちた。
「弱いのは悪いことじゃない」
さっきまでと同じ低い声だったが、その一言だけは妙に耳に残った。
「弱いのに、自分が弱いと知らないのが一番危ねえ」
ルアンは何も言わなかった。
悔しかった。ゴードに馬鹿にされたからではない。昨日、岩鼠を倒したあとに少しだけ胸を張っていた自分を、そのまま見透かされたような気がした。
強くなったつもりだった。けれど実際には、戦うために必要なことを何一つ知らなかった。
しばらくすると、ゴードは「今日は来ただけ無駄じゃなかった」と言い残し、受付のある建物へ戻っていった。
組合を出ると、アルネスの街は夕暮れに染まり始めていた。迷宮大門からは、今日の探索を終えた者たちが次々と戻ってくる。
笑いながら酒場へ向かう者がいる。肩を貸され、片足を引きずりながら歩く者もいる。門の近くでは、誰かの帰りを待っているらしい女が、人の波を何度も覗き込んでいた。
数日前まで、ルアンは探索者たちを見れば、ただ格好いいと思っていた。今も、その気持ちは変わらない。
けれど、少しだけ見え方が違っていた。
彼らは魔物が現れても武器を落とさない。怖くても、ただ闇雲に腕を振るわない。相手との距離を測り、自分の足で立ち、自分の身体を動かして、最後にはここまで戻ってくる。
昨日までのルアンは、それがどれほど難しいことなのかを知らなかった。
月兎亭へ帰る途中、ルアンはいつもの角で足を止めた。まっすぐ進めば宿へ帰れる。もう一方へ曲がれば、七番倉庫だ。
身体は痛かった。右腕も脚も背中も、少し大きく動かすだけで鈍い痛みが返ってくる。それでもしばらく角に立ったあと、ルアンは宿とは反対の道へ歩き出した。
古い扉を開けると、いつもの冷たい空気と油の匂いが鼻へ入った。今日は魔力の訓練をする気にはなれない。代わりに壁際へ転がっていた壊れた導灯の支柱を一本拾った。長さは、普段使っている短剣より少し長い。
昼間に見た少年たちの動きを思い出しながら構えてみる。足の位置。身体の向き。相手との距離。
一度振ると、支柱の重さに引かれて身体が大きくぶれた。もう一度やると、今度は踏み込んだ瞬間に上半身だけが前へ流れる。
「……難しいな」
何度か繰り返したところで、ルアンは支柱を壁際へ戻した。昼間の真似をしたところで、自分が何を間違えているのかさえまだ分からない。
そこで腰の短剣へ手を伸ばした。
鞘から抜く。戻す。もう一度抜く。
四度目で、刃が引っ掛かった。
ルアンの手が止まる。昨日、岩鼠を前にした時にも同じことが起きた。焦って柄を強く引いたせいで、短剣がうまく抜けなかった。
今度は力を抜き、ゆっくりと引く。刃はどこにも引っ掛からず、鞘の内側を滑って出てきた。元へ戻して、もう一度。同じ動きを繰り返しながら、少しずつ速くしていく。
強い魔術ではない。新しい技でもない。ただ、必要な時に短剣を抜き、落とさないための練習だった。
やがて腕の痛みが強くなり、ルアンは木箱へ腰を下ろした。薄暗い倉庫の中で息を整えていると、ゴードの声が蘇った。
“弱いのに、自分が弱いと知らないのが一番危ねえ。”
自分は弱い。思っていたよりも、ずっと。
けれど今日、それが分かった。剣の振り方も知らない。足の動かし方も分からない。短剣さえ、焦ればまともに抜けない。
なら、そこから練習すればいい。
ルアンは木箱から立ち上がり、短剣を鞘へ戻した。右手を柄へ添え、今度は急がずに引き抜く。刃は引っ掛からない。
もう一度、鞘へ戻す。
「……もう一回」
暗い七番倉庫に、短剣が鞘を滑る小さな音が響いた。




