第4話 第十五導灯
「今日は十五号、見てこい」
朝の点検表を受け取ったルアンは、そこに書かれた番号をもう一度見た。間違いなく、第十五導灯だけが記されている。
「……僕が?」
「ほかに誰がいる」
「一人で?」
「一人で」
「本当に?」
「嫌なら俺が行く」
「行きます」
ほとんど反射で答えると、机の向こうで欠伸をしていたダグが片方の眉を上げた。
「まだ何も説明してねえぞ」
「聞きます」
「顔がもう迷宮入ってる」
「そんなことないです」
「ある」
最近、自分の顔はあまり信用できない。マーサにもミレーナにも似たようなことを言われたばかりだった。
ルアンは何事もなかったように点検表へ視線を戻した。普段なら十二号から十八号までをダグと一緒に回るが、今日は十五号だけの臨時点検らしい。昨日の夕方、巡回した職員から、一度だけ光量が不安定になったという報告が上がっていた。
「通常点検と同じでいいんですか?」
「外殻、魔石、導線、固定部。見える範囲だけ確認しろ。分解はするな」
「異常があったら?」
「戻って報告」
「直せそうでも?」
「戻って報告」
「導線一本でも?」
「戻って報告」
ルアンが黙ると、ダグがじろりとこちらを見た。
「何だ」
「それなら、僕が行く意味あります?」
「状態を見て、帰ってくる。それが今日のお前の仕事だ」
「直せるなら直した方が早いでしょう」
「お前はまだ見習いだ」
「分かってます」
「分かってる奴は、そこでそんな顔しねえ」
むくれてはいない。たぶん。ダグは椅子の背にもたれ、点検表の端を太い指で軽く叩いた。
「十五号までは毎日歩いてる。経路も知ってるし、あの辺りじゃ魔物もほとんど出ない。だから一人で行かせる」
「はい」
「だからって、安全だと思うなよ。何か変だと思ったら戻れ。怖かったら、それでも戻れ」
「……はい」
「最後だけ返事が遅かったな」
「気のせいです」
ダグは小さく息を吐いた。
「ルアン」
「はい」
「帰ってくるまでが点検だ」
「子供の遠足みたいですね」
「その程度に覚えとけ」
工具帯を腰へ巻き、点検用の革鞄を肩に掛ける。念のため、いつも携帯している小型の短剣も確かめた。普段と同じ重さのはずなのに、今日だけは鞘が妙にはっきり腰へ触れていた。
迷宮大門をくぐると、朝のエルナディア大迷宮には、すでに大勢の人が出入りしていた。浅層へ続く広い石段を探索者たちが下り、その脇を荷物を抱えた回収士や管理院の職員が行き交っている。ルアンは見慣れた経路へ入り、一号、二号、三号と、一定の間隔で続く導灯の青白い光を辿った。
普段なら隣にダグがいる。点検箇所を見落とせば指摘され、歩くのが速ければ急ぐなと言われ、通り過ぎる探索者を眺めていれば手を動かせと言われる。今日は何も言われないことが、最初のうちは妙に嬉しかった。
「一人でも普通に行けるじゃん」
誰も聞いていないのに、小さく呟いた。
八号を過ぎる頃には人通りが減り、十号を越えると、自分の靴音と遠くから響く水音ばかりが耳につくようになった。大勢が歩いている時には広い地下道にしか見えない場所も、一人になると壁の高さや天井の暗さが急に目につく。
十二号、十三号、十四号を過ぎ、第十五導灯が見えてきたところで、ルアンは歩みを緩めた。灯りは点いている。金属籠の中ではいつもと変わらない青白い光が揺れ、それどころか導灯そのものだけを見れば、普段より少し強く光っているようにも感じられた。
けれど、その周囲が暗い。
ルアンは十四号まで数歩戻り、壁を見る。こちらの光は石の凹凸まで拾い、足元にもはっきり影を落としている。そこから十五号へ近づくと、青白い光は確かに見えているのに、壁へ届く明るさだけが薄くなるように感じられた。
「……何だろ」
十五号の前でしゃがみ、まず外側を確認する。亀裂も歪みもなく、籠にも目立った損傷はない。手を近づけても、熱の出方は他の導灯と変わらなかった。
点検口へ指を掛けたところで、朝のダグの声が浮かぶ。
“見える範囲だけ確認しろ。分解はするな。”
「これは点検口だから」
自分でも言い訳めいていると思いながら、蓋を開けた。内部の魔石は安定して発光し、濁りもなく、見える範囲の導線にも焼けや断線はない。固定部にも緩みはなく、少なくともルアンが教わっている範囲では、光量が落ちるような原因は見当たらなかった。
一度蓋を閉め、数歩離れて見る。やはり暗い。十四号側へ戻れば普通に見え、十五号へ近づくと周囲だけが薄暗く感じられる。目の錯覚かと思って何度か位置を変えても、その感じ方は変わらなかった。
「……戻って報告」
口にすると、それが一番しっくりきた。状態は見た。異常もある。原因は分からない。なら、ここから先は今の自分が勝手に触るところではない。
ルアンが地上側へ身体を向けた時、背後で、かさりと乾いたものが擦れる音がした。振り返ると、十五号導灯が青白く光っているだけで、通路には何も見えない。少し待ってから歩き出そうとすると、今度は壁際から同じ音がした。
石の陰で、黒いものが動いた。
「え」
四本の細い脚を持つ、小さな魔物が姿を現す。犬より一回り小さく、背中は硬そうな灰色の殻に覆われ、顔の左右には短い角が伸びていた。
岩鼠だった。
浅層では珍しくない小型魔物で、ルアンも生きた個体を何度か遠くから見ている。死骸なら仕事中にも見かけたことがあり、危険度が低いことも知識としては知っていた。けれど、一人で向かい合うのは初めてだった。
岩鼠がルアンを見る。ルアンも動かずに見返した。
「……帰ってくれない?」
喉の奥から低い唸り声が返ってきた。
「だよね」
右手を短剣へ伸ばす。ところが柄を引いた瞬間、刃が鞘の口へ引っ掛かった。焦って力を入れ直したせいで勢いがつき、抜けた短剣が指から滑って石床へ落ちる。
硬い音が通路へ響き、岩鼠が身を低くした。ルアンは短剣へ手を伸ばしたが、先に岩鼠が床を蹴る。慌てて身体を横へ逃がすと、直前まで脚があった場所を黒い身体が駆け抜け、壁を掠めた爪が甲高い音を立てた。
石床へ手をついたまま、ルアンは短剣の位置を探す。心臓が急に速くなっていた。知識の中にいる岩鼠より、自分へ向かって走ってくる一匹の方がずっと大きく見える。
岩鼠はもう向きを変えていた。ルアンは床の短剣を拾い上げ、立ち上がろうとする。その途中で二度目の突進が来た。
避け切れないと思った瞬間、右腕を前へ出していた。
胸から肩へ。肩から上腕、肘、前腕へ。七番倉庫で何度も繰り返した流れを、考えるより先に通していた。手首へ届く前に散らさないよう意識を留め、短剣を握った右腕を横へ振る。
柄の部分が岩鼠の頭へ当たり、鈍い音とともに小さな身体が横へ転がった。
「……え?」
ルアンは自分の右腕を見る。今の一撃は、いつもの自分の腕力だけではなかった。身体の中へ通した魔力が、途中で散らずに右腕まで届いていた。
石床を転がった岩鼠が壁際で止まる。
「やった……?」
次の瞬間、岩鼠が四本の脚を踏ん張って起き上がった。
「……やってない」
唸り声が、先ほどより低い。怒らせただけらしい。
ルアンは今度こそ短剣を構え、もう一度右腕へ魔力を通そうとした。胸から肩までは進んだが、その先へ伸ばそうとすると流れが崩れる。もう一度試しても、今度は肩へ届く前に散った。
「なんで今……」
岩鼠は待ってくれない。三度目の突進を身体を捻って避けたが、爪の先が上着の裾を掠め、布が裂ける音がした。
ルアンの視線がそこへ落ちる。裂けた布の向こうには、自分の脚がある。訓練なら失敗しても、息を整えてもう一回と言えばいい。けれど今度は、少し遅ければ布ではなく皮膚が裂けていた。
岩鼠が再び向き直る。ルアンは一歩下がり、さらに一歩下がった。頭では動かなければならないと分かっているのに、足がひどく重く感じられる。
岩鼠が床を蹴った瞬間、無理やり身体を横へ投げ、肩から石床へ落ちた。衝撃で右手が開き、短剣がまた床を滑っていく。
「……最悪」
肩に痛みが走った。それでも岩鼠は止まらず、もうこちらを向いている。短剣は数歩離れた場所にあり、右腕へ魔力を通そうとしても流れがまとまらない。
座ったまま後ろへ下がったルアンの背中へ、硬い金属が触れた。第十五導灯だった。頭上では、あの青白い光が揺れている。
ルアンは一度だけ見上げた。さっきまで調べていたばかりの構造が頭へ浮かぶ。魔石、導線、固定部。その横にある、光量を調整するための環。
岩鼠が姿勢を低くする。
ルアンは点検口を開けた。
「ごめんなさい、ダグさん」
内部へ手を入れ、調整環を掴む。分解はするな。異常があれば戻って報告。どちらも覚えているが、今は地上へ戻るための方を先に考えるしかなかった。
「これは緊急だから……!」
調整環を回すと、導灯の光が強くなった。さらにもう一段上げても、岩鼠は怯まない。爪が石床を蹴る音を聞き、ルアンは咄嗟に魔石へ掌を当てた。
こんな使い方を教わったことはない。導灯は内部の魔石で光るもので、人が外から魔力を流し込むものではなかった。それでも、他に使えそうなものが思いつかなかった。
胸から肩へ。そこから腕、手首、掌へ。さっきのように力へ変えようとはせず、そのまま身体の外へ押し出す。
「行け……!」
魔力が掌を抜け、魔石へ流れ込んだ。
青白かった導灯の光が、一気に白く跳ね返った。視界が塗りつぶされ、ルアンも思わず目を閉じる。すぐ近くで岩鼠の甲高い鳴き声が響き、そのあとに何かが石床へぶつかる音がした。
薄く目を開けると、白い残像の向こうで岩鼠が首を振っていた。まっすぐ立てていない。ルアンは床へ視線を走らせ、右側に落ちた短剣まで駆け寄って柄を掴んだ。
指先は震えていた。それでも、今度は落とさないよう両手で握る。
岩鼠はまだ頭を振っている。このまま逃げれば、追ってくるかもしれない。そう思って一歩近づいたところで、ルアンの足が止まった。
怖い。
さっきまで自分を追い回していた魔物が、目の前で隙を見せている。それでも近づく方が、逃げ回っていた時より怖く感じられた。
ルアンは一度だけ息を吐き、短剣を両手で構えた。
「……ごめん」
刃を突き出す。先端は岩鼠の背中の硬い殻へ当たり、そのまま横へ滑った。
岩鼠が首を上げる。
ルアンは後ろへ逃げず、短剣を引き戻した。もう一度突き出した刃先が、今度は首の下へ入る。硬い抵抗のあと、急に刃が沈み、温かいものが指へ飛んだ。
岩鼠の身体が激しく震え、短剣を通してその動きが両手へ伝わってくる。ルアンは手を離しそうになりながらも柄を握り続け、やがて小さくなっていく震えを見ていた。
岩鼠が動かなくなった。
通路へ静けさが戻った。ルアンは短剣を握ったまま、その場へ座り込む。自分の荒い息が石壁へぶつかり、何度も返ってきた。
初めて、自分で魔物を殺した。
手はまだ震えている。達成感らしいものは、なかなか出てこなかった。
「……死ぬかと思った」
危険度の低い岩鼠が一匹だった。駆け出しの探索者なら、もっと簡単に倒すのかもしれない。自分は短剣を二度落とし、魔力を思ったように通せたのも最初の一度だけで、最後には導灯まで使った。
しばらく座ったまま呼吸を戻していると、頭の上にある光が妙に弱く感じられた。ルアンは顔を上げ、第十五導灯を見る。
「あ」
光量が落ちている。
疲れも忘れて立ち上がり、点検口を覗き込んだ。調整環を勝手に回し、そのうえ魔石へ直接魔力を流したせいか、内部の導線が一本だけ薄く黒ずんでいる。
「……まずい」
今度は別の意味で背中が冷えた。ダグの顔が浮かび、ルアンは反射的に調整環へ手を伸ばしかける。
そこで、朝の言葉が戻ってきた。
“異常があったら、手ぇ出す前に戻って報告。”
もう十分すぎるほど手を出している。ここからさらに触っても、元の位置が正確に分かるわけではない。うまく戻せたつもりになって、別の異常を作る方がまずい。
ルアンは手を引いた。
「……もう触らない」
ようやく、それだけは決めた。
点検口を閉じてから数歩離れ、十五号を見る。さっきより光は弱いが、最初に来た時のように、導灯だけが明るいのに周囲が暗く見える感じはなくなっていた。弱いなりに青白い光が壁まで届き、足元にも薄い影を落としている。
自分が触ったせいで変わったのか。最初から一時的なものだったのか。それとも、別の何かなのか。
分からなかった。
分からないまま、勝手に直ったことにするのはまずい。
岩鼠から短剣を抜き、布で刃と手についた血を拭う。死体は通路へ置いていけないため、小型魔物用の回収袋へ入れて肩へ担いだ。
思っていたより重い。
歩き出す前に、ルアンはもう一度十五号を振り返った。青白い光が静かに通路を照らしている。来た時に感じた暗さだけが、今はなかった。
帰り道は、行きよりもずっと長く感じた。十四号、十三号、十二号と戻るうちに遠くから人の話し声が聞こえ始め、探索者の姿を見つけた時には、それだけで肩の力が少し抜けた。迷宮大門を出ると、地上の光が目に眩しかった。
迷宮管理院へ戻ると、入口の向こうにダグがいた。
「おう。どうだった」
ルアンはその場で足を止めた。
「異常がありました」
「何が」
「十五号です」
「それは分かってる。何があった」
順番に話そうとして、ルアンは言葉に詰まった。その時、岩鼠の入った袋が肩からずり落ち、床へごとんと重い音を立てる。
ダグの視線が袋へ落ち、次に裂けた上着の裾へ移り、最後に血の残った短剣で止まった。
「お前、何した」
「……いろいろです」
「十五号見て帰ってくるだけだったよな」
「その予定でした」
ダグは目を閉じた。その沈黙は、迷宮の中で岩鼠と向き合っていた時とは別の意味で怖かった。
「最初から話せ」
ルアンは、十五号へ着いたところから順番に説明した。導灯そのものは光っているのに、その周囲だけ暗く感じられたこと。外から見える範囲にも、点検口から確認できる内部にも、原因らしい異常は見つからなかったこと。そして戻ろうとしたところで、岩鼠が現れたこと。
短剣を落としたことも、右腕へ魔力を通して岩鼠を吹き飛ばしたことも、そのあと同じようには通せなかったことも隠さなかった。さらに短剣をもう一度落とし、導灯の調整環を動かし、最後には魔石へ直接魔力を流したところまで話す。ダグは途中から一度も口を挟まなかった。
「それで岩鼠を倒して……導灯を見たら、導線が一本黒くなってました。光も少し弱くなってます」
「調整環は?」
「触ってません」
「最初に回しただろ」
「そのあとです。戻そうと思ったけど、元の位置が分からなかったから……それ以上は触ってません」
そこで初めて、ダグの眉がほんの少し動いた。
「十五号の周りが暗く見えたのは?」
「帰る時には、なくなってました」
「直したのか?」
「分かりません」
ルアンは首を振った。
「僕が触ったから変わったのかもしれないし、その前から戻り始めてたのかもしれません。そこは分からないです」
ダグはしばらくルアンを見てから、机の脇へ置いてあった紙へ何かを書きつけた。
「分かった。あとで俺が見に行く」
「……怒ってます?」
「どこから怒るか考えてる」
「そんなにあります?」
ダグが顔を上げた。
「まず、短剣を二回落とした」
「はい」
「次。許可なく調整環を回した」
「はい」
「次。魔石に直接魔力を流した」
「……はい」
「自分で何してるか分からなくなってからも、その場に残った」
「はい」
ルアンは少しずつ小さくなっていった。ダグはそこで息を吐く。
「ただし、最後に調整環を適当に戻さなかったのは正解だ」
「……そこは?」
「ああ」
「一個だけ?」
「今んとこな」
思っていたより嬉しくなかった。
ダグは床に置かれた袋を持ち上げ、中を確認した。
「これは?」
「倒しました」
「見りゃ分かる」
「初めてです」
「そうか」
それだけだった。ルアンは少し待ってみたが、何も続かない。
「……もう少し何かないんですか?」
「何が」
「初めて魔物を倒したんですよ」
「おめでとうって言ってほしいのか?」
「少しくらい」
ダグは袋を床へ戻した。
「生きて帰ってきた。それでいい」
ルアンは黙った。
昨日、怪我をして引き返す探索者を見ながら、ダグは似たことを言っていた。
“生きて戻ってるなら上等だ。”
その時は、もっと行けそうなのにと思った。
今は、少しだけ違って聞こえる。
ダグは棚から紙を三枚取り出し、ルアンへ差し出した。
「何ですか、これ」
「報告書」
「三枚?」
「一枚目、十五号異常報告。二枚目、規定外操作報告」
「……三枚目は?」
「始末書」
「始末書?」
ルアンは受け取った紙を思わず見直した。
「魔物に襲われたの僕ですよ?」
「導灯を勝手にいじったのもお前だ」
「でも、あれがなかったら危なかったんです」
「使ったこと自体を責めてるんじゃねえ。勝手に操作したなら、何をどう触ったか残せ」
「……はい」
「それが仕事だ」
また仕事だった。手元の三枚を見ると、さっきの岩鼠より少しだけ逃げたくなる。
「今日中ですか?」
「今日中」
「明日じゃ駄目ですか」
「今日中」
「夕飯が」
「知らん」
「マーサさんに怒られます」
「それは俺も怖いな」
「じゃあ早く帰らせてくださいよ」
「早く書け」
結局、ルアンが管理院を出たのは、いつもよりかなり遅い時間になった。
月兎亭へ戻ると、食堂にはまだ灯りがついていた。扉を開けたところで、腕を組んでいたマーサと目が合う。
「坊や」
「ただいま」
「遅い」
「仕事が」
「服」
言われて初めて、ルアンは裂けた裾を見た。
「あ」
「何した」
「ちょっと」
「ちょっと?」
「魔物に……少し」
マーサの顔つきが変わった。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「本当」
すぐに近づいてきて、頭から足まで目で確かめられた。それでも足りなかったらしく、両腕を見られ、肩や背中まで調べられる。
「大丈夫だって」
「ならいい」
それだけ言って、マーサは厨房へ戻った。しばらくすると、温め直したスープと黒パンが目の前へ置かれる。今日は肉がいつもより少し多かった。
「これ、余りもの?」
「黙って食べな」
ルアンは笑った。
「ありがとう」
腹が減っていた。温かいスープを口へ入れると、迷宮を出てからずっと身体のどこかに残っていた力が、ようやく抜けていく気がした。
その夜は、七番倉庫へ行かなかった。食事を終えて部屋へ戻り、寝台へ横になる。暗い天井を見ながら右手を持ち上げると、岩鼠へ向かって腕を振った時の感触と、短剣を通して伝わってきた最後の震えが、まだ手の中に残っているようだった。
魔力は一度だけ、右腕まできちんと通った。昨日までの自分より、できることは一つ増えていたのかもしれない。それでも短剣を二度落とし、怖くて足が動かなくなった。最後には導灯まで使わなければ、どうなっていたか分からない。
「……弱いな」
小さく口にすると、思っていたより悔しかった。
けれど、今日は迷宮から戻ってきた。岩鼠を倒したことより、戻ってこられたことの方が、今は少し大きく感じられる。
“帰ってくるまでが点検だ。”
朝のダグの声が浮かんだ。
ルアンは右手を下ろし、毛布を肩まで引き上げた。七番倉庫へ行けば、今日できたことをもう一度試せる。それでも今夜は、起き上がる気にはならなかった。
目を閉じると、最後に浮かんだのは岩鼠ではなく、第十五導灯だった。最初に見た時は、灯りそのものが消えかけていたわけではない。青白く光っていたのに、その周りだけが暗かった。
そして帰る時には、それがなくなっていた。
原因は、まだ分からない。
その答えを考えているうちに、ルアンの意識はゆっくり眠りへ沈んでいった。




