第3話 銀貨十二枚
給料日まで、あと四日。
ルアンは朝食の黒パンをかじりながら、頭の中で何度目か分からない計算をしていた。宿代、食事代、洗濯代。仕事で使う細かな消耗品に、先月破れた靴下の替え。それから、できれば卵も一つくらい。
残る金額まで考えたところで、黒パンを持つ手が止まった。
「……無理だな」
「何がだい?」
鍋を運んでいたマーサがすぐに反応した。
「何でもない」
「朝っぱらから金の計算してる顔だったけどね」
「顔でそこまで分かる?」
「坊やは分かりやすいからねえ」
ルアンは思わず眉間へ手を当てた。昨日もダグに似たようなことを言われたばかりである。
マーサは薄いスープをテーブルへ置き、にやりと笑った。
「また卵かい?」
「違うよ」
「じゃあ肉?」
「違うって」
「女?」
「なんでそうなるの」
マーサが楽しそうに笑う。
「道具だよ。新しい手袋が欲しいんだ」
「ああ、そっちかい」
「そっちって何」
「別に」
妙に納得したような、少しつまらなそうな顔をされた。
ルアンが使っている作業用の革手袋は、親指の付け根がかなり薄くなっている。まだ穴は開いていないし、仕事にも使える。だが昨日、ダグからそろそろ替えろと言われた。
“使える、と安全は違う。”
あの言葉が、妙に頭へ残っている。
新品なら銀貨三枚ほど。払えない額ではないが、買えば今月の余裕はほとんどなくなる。
「……やっぱり卵は無理か」
「聞こえてるよ」
「独り言」
黒パンをもう一口かじったところで、食堂の扉が開いた。外の冷たい空気と一緒に、眠そうな探索者が二人入ってくる。
「マーサさん、スープ二つ」
「座っときな!」
いつもの朝が動き始めた。ルアンは残りのパンを急いで食べ、食器を重ねてから月兎亭を出た。
その日の午前中は、珍しく迷宮へ入らなかった。導灯保全部の倉庫整理と、前日に回収された故障品の分解作業が入っていたからだ。ルアンにとっては、少し残念な仕事だった。
「顔に出すな」
「何がです?」
「迷宮入りたかったって顔」
「……僕、本当にそんなに顔に出ます?」
「出る」
「マーサさんにも言われました」
「なら間違いない」
二対一になった。
ルアンは諦めて、作業台に置かれた導灯へ工具を差し込んだ。金属製の外殻を外し、中の魔石を抜く。焼けた導線を取り除いてから、まだ使える部品と廃棄するものを一つずつ分けていった。
「この金具、使えます」
「廃棄」
「まだ全然――」
そこまで言って、ルアンは口を閉じた。
ダグが顔を上げる。
「何だ」
「何でもありません」
「学習したな」
「悔しい」
金具を廃棄箱へ入れると、ダグは何も言わず次の故障品をルアンの前へ寄せた。
昼前になると、そのダグが一枚の紙を差し出した。
「大門市場へ行ってこい」
「何を買うんです?」
「交換用の固定環。在庫が足りねえ。ドルン商会で二十個」
「管理院の資材店じゃなくて?」
「納品が三日遅れてる」
「分かりました」
続けて、小さな革袋が投げられた。ルアンは両手で受け止める。見た目以上に重く、中で硬貨がぶつかる音がした。
「落とすなよ」
「いくら入ってるんです?」
「銀貨四十枚」
「僕に持たせて大丈夫ですか?」
「落としたら給金から引く」
「やっぱり大丈夫じゃない気がする」
革袋を腰の内側へしまい、紐を二度確認した。自分の金ならまだしも、これは管理院の金だ。銀貨四十枚ともなると、今のルアンには「まあいいか」で済ませられる額ではない。
管理院を出て西へ向かうと、ほどなく大門市場の喧騒が聞こえてきた。
アルネスで最も騒がしい場所を一つ選べと言われれば、おそらくここになる。迷宮から運び出された素材の多くがまず大門市場へ集まり、魔物の皮や牙、骨、角、地下で採れた薬草や鉱石、魔力を含んだ石まで、大小の店先へ所狭しと並べられている。
「火蜥蜴の皮だ! 昨日入ったばかりだぞ!」
「月光茸、今日は安いよ!」
「そこの兄ちゃん、剣見てけ! 剣!」
最後の声に反応して、ルアンの足が少しだけ緩んだ。
店先には何本もの剣が並んでいる。見るだけなら金はかからない、と考えかけたところで、腰の内側にある革袋の重さを思い出した。
「……だめだ」
今日は自分の買い物ではない。ルアンはそのまま真っ直ぐ歩いた。
ドルン商会は、市場中央の広場に面した大きな店だった。商会と名乗ってはいるものの、入口には獣の骨が吊るされ、床には蓋の開いた木箱が積まれている。高級店というより、必要なものなら大抵どこかから出てくる店という雰囲気だった。
その店先で、店主らしい大男と一人の少女が向かい合っていた。
「だから六枚だって言ってんだろ!」
「八枚」
「六枚」
「八枚」
「七」
「八」
「七枚と銅貨五十」
「八枚」
「お前、ちょっとは譲れよ」
「そっちが」
少女はルアンと同じくらいか、少し年上に見えた。赤みがかった茶色の髪を後ろで束ね、丈夫そうな革服を着ている。上着も手袋も何度か補修されていたが、雑に直した跡ではなく、使う場所に合わせて手が入れられているのが分かった。
足元には大きな背負い籠が置かれ、中には黒っぽい鉱石や、魔物の殻らしい素材が種類ごとにまとめられていた。声を荒らげる大男とは対照的に、少女の表情はほとんど変わらない。
「こっちは洗浄までして持ってきてる。欠けなし、変色なし。この大きさなら八枚。昨日、東口の店が七枚八十で買ってたから、それ以下ならそっちに行く」
「だったらそっち行け!」
「そうする」
「待て待て待て」
「七枚八十」
「八」
「なんで上がるんだよ!」
「今、ほかへ行けって言ったから」
大男が頭を抱えた。
ルアンは思わずその様子を見ていた。市場で値段交渉を見ること自体は珍しくないが、ここまで相手の大声を気にせず数字だけで押し返す人間はそう多くない。
少女がこちらへ顔を向けた。
「何?」
「え?」
「さっきから見てるけど」
「いや……すごいなと思って」
「何が?」
「値段交渉」
少女はルアンを一度上から下まで見た。
「普通でしょ」
「普通なのかな」
「知らないけど」
会話が終わった。
ちょうどそこで大男がルアンに気づく。
「おう、兄ちゃん。何か買うのか?」
「迷宮管理院からです。固定環を二十個」
「管理院? ああ、ダグのとこか」
大男――バッカス・ドルンは、少女との交渉をいったん放り出して店の奥へ入っていった。
「待ってろ。今出す」
「はい」
ルアンは店先で待つことにした。
少女は再び背負い籠へしゃがみ込み、中身を確かめている。近くで見ると、素材は布や縄で細かく分けられていて、一見無造作に見えた籠の中にもきちんと順序があった。
一番上には、半透明の青い板のようなものが数枚載っていた。薄い硝子のようにも見えるが、表面には細い筋が走り、光を受けるたびに青から紫へ色を変える。
綺麗だった。
「これ、何?」
「蒼背甲虫の翅殻」
「甲虫?」
「中層上部にいる。死ぬと翅が硬くなるの」
中層という言葉に、ルアンの視線がもう一度翅殻へ戻った。
「触っていい?」
「だめ」
「まだ触ってないよ」
「触りたそうな顔してるから」
「そんなに顔に出るかな……」
今日だけで三人目だった。
少女は一枚の翅殻を手に取った。
「端が脆いの。持ち方知らない人が触ると欠ける」
「分かった。触らない」
ルアンは素直に手を引っ込めた。
「中層って、こういうのがあるんだ」
「浅層じゃ見ないでしょ」
「君、中層まで行くの?」
「仕事だから」
「探索者?」
「回収士」
回収士は、迷宮で得られる素材を採り、傷めず地上まで持ち帰る仕事をする。鉱石や薬草だけでなく、魔物の素材を扱うことも多く、何をどう採れば価値を落とさず持ち帰れるのかまで知らなければならない。
少女の籠の中が細かく分けられていた理由も、それなら納得できた。
「一人で行くの?」
「今日は三人」
「怖くない?」
「怖いよ」
迷いのない返事だった。
「……怖いんだ」
「迷宮で怖くない人は、だいたい早く死ぬから」
似たようなことを、昨日ダグにも言われた。
少女は翅殻を光へ透かす。
「これだって、地上で見ると綺麗だけどね。採る時は親指くらいの幼虫が何十匹も落ちてくる」
「……それは嫌だな」
「服の中にも入る」
「絶対嫌だ」
少女の口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。
その時、店の奥から声がした。
「ほらよ、固定環二十!」
バッカスが大きな木箱を抱えて戻ってくる。店先の通路は狭く、ルアンは邪魔にならないよう一歩後ろへ下がった。
踵が、何かに触れた。
ころり、と細い木片が転がる。それは少女の背負い籠を安定させるために噛ませていた木片だった。
籠が傾いた。
「ちょっ――」
少女が手を伸ばし、ルアンも反射的に身体を動かした。籠の上から青い翅殻が一枚滑り落ち、石床へ落ちる直前に、ルアンはそれを右手で掴んだ。
間に合った、と思った。
ぱき、と乾いた音がした。
ルアンの指が止まった。手の中では、青い翅殻が真ん中から二つに割れている。少女も、バッカスも、それを見ていた。
さっきまで耳に入っていた市場の声が、少し遠くなった気がした。
「……ごめん」
少女は怒鳴らなかった。ルアンの手から割れた翅殻を受け取り、断面を確かめる。光へかざし、裏返してから、もう一度割れた場所を見た。
「銀貨十二枚」
「え?」
「今の。銀貨十二枚」
ルアンは一度笑った。聞き間違いだと思ったからだ。
「……十二?」
「十二」
「銀貨?」
「銅貨じゃなくて」
「一枚で?」
「一枚で」
笑えなくなった。
ルアンは少女の手にある翅殻を見る。薄く、軽く、自分の手のひらより少し大きい程度しかない。
「これが?」
「壊した本人が言う?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
少女は割れた片方を持ち上げた。
「蒼背甲虫の完全翅殻。傷なし、左右一対が揃ってた。装飾品にも魔術器具にも使えるし、最近は採れる数も減ってる。今日なら一枚十二銀くらい」
「十二……」
「銀貨十二枚」
「分かったから。すごく聞こえてる」
新品の革手袋なら四組買える。卵なら何個だろう、と考えかけてやめた。
横からバッカスが割れた翅殻を覗き込む。
「まあ、割れてても五枚くらいでは買えるぞ」
「四枚」
「なんでお前が下げるんだよ」
「中心まで割れてるから」
「……四枚五十」
「四」
「俺が買う側なんだけどな」
こんな時でも交渉するらしい。ルアンはそれどころではなかった。
「弁償する」
「できるの?」
少女がこちらを見る。
「……する」
反射的に腰へ手を伸ばしかけ、すぐ止めた。そこに入っているのは管理院の金である。
絶対に駄目だ。
「今は持ってないけど、給料日が四日後だから、その時に――」
そこまで言って、今月の残りを思い出した。銀貨十二枚払えば、手袋どころではない。宿代と食費を残せるかどうかまで考え直す必要がある。
少女はルアンの顔をしばらく見た。
「本当に十二枚払うつもり?」
「壊したの僕だし」
「籠を傾けたのも?」
「木片を蹴ったのは僕だから」
少女は少しだけ眉を上げた。
「翅殻は落ちてきたんだよ」
「でも僕が掴んで割った」
「石床に落ちても割れてたと思うけど」
「それでも、僕が触らなかったら――」
そこで一度止まった。
「いや、触るなって言われてたし」
少女は割れた翅殻を見下ろした。
「変な人」
「そう?」
「普通はもっと、自分のせいじゃないって言う」
「僕のせいじゃないところもあるの?」
「あるよ」
今度は少女が背負い籠を指した。
「人が通る店先に置いたのは私だし、木片一本で傾く置き方してたのも私。落ちた時点で無傷だったかも分からない」
「じゃあ……十二枚じゃない?」
「十二枚はいらない」
ルアンの肩から少し力が抜けた。
「よかった……」
「六枚」
「半分?」
抜けたばかりの力が、また肩に戻った。
「半分」
「もう少し責任の分け方について相談できないかな」
「じゃあ七」
「なんで増えるの?」
少女の口元が、今度こそ笑った。
「冗談」
「分かりづらいよ」
「六枚もいらない」
少女は割れた翅殻をバッカスへ差し出した。
「四銀で売る」
「おう」
「無傷なら十二。これで四。差は八。でも落ちた時点で割れてた可能性もあるし、籠を置いたのは私。だから払わなくていい」
「……本当に?」
「いい。ただし」
少女はルアンの右手を見る。
「今度から、知らない素材を素手で掴まない」
「はい」
「毒があるものもあるから」
ルアンも自分の手を見た。
「それ、先に言ってほしかった」
「触るなって言った」
「そうだった」
完全に負けた。
隣でバッカスが腹を抱えて笑い出す。
「お前、ミレーナ相手に勝とうと思うな。市場じゃこいつ、銅貨一枚でも平気で粘るぞ」
「余計なこと言わないで」
少女――ミレーナが眉を寄せた。
ルアンは彼女を見る。
「何?」
「いや……やっぱりすごいなって」
「さっきも言ってた」
「さっきよりすごい」
「褒めてないで、固定環持って帰れば?」
そこでようやく、本来の用事をかなり長いこと忘れていたことに気づいた。
ルアンはバッカスへ代金を払い、固定環二十個が入った袋を受け取った。管理院から預かった銀貨の残りもその場で数え直し、間違いがないことを確認してから腰の内側へしまう。
店を出かけたところで、一度だけ振り返った。
「ミレーナ、でいい?」
「何?」
「本当に払わなくていい?」
「いい」
「でも――」
「じゃあ十二枚払う?」
「帰ります」
即答すると、バッカスの笑い声が店先に響いた。
「おーい兄ちゃん! 次に商品壊すなら、うちの安いやつにしろよ!」
「もう壊しません!」
思わず市場中に聞こえそうな声で返してしまい、ルアンは少し肩を縮めた。そのまま固定環の袋を抱え、人混みの中を管理院へ戻っていく。
歩きながら、何度かあの青い翅殻を思い出した。銀貨十二枚という値段も驚いたが、それ以上に、ミレーナが自分で中層へ入り、採り方を知り、傷めないよう地上まで持ち帰ってきたことが頭に残った。
年齢はそれほど変わらないように見えた。
ルアンはまだ浅層で灯守の仕事をしていて、中層勤務の試験さえ受けさせてもらえない。魔力を指先まで通せる時間も、今のところ二秒ほどしかない。
それでも、青い翅殻が採れる場所を見てみたいと思った。素材だけではなく、そこへ行って仕事をして、また地上へ戻ってくる人たちが見ているものを、少し知りたかった。
管理院へ戻ると、ダグは机に向かって書類を書いていた。
「遅かったな」
「いろいろありました」
「固定環は?」
「二十個あります」
「釣りは?」
「あります」
ルアンが固定環と残金を渡すと、ダグは硬貨を一枚ずつ数えた。数が合っていることを確かめて革袋を閉じる。
「合ってる」
「当然です」
「何か買ったか?」
「買ってません」
「顔が疲れてるぞ」
「……銀貨十二枚」
「何が?」
「何でもないです」
ダグは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は訊かなかった。
午後の仕事を終える頃には、昼間の出来事も少しだけ笑えるようになっていた。もちろん、銀貨十二枚という数字を思い出すたびに腹のあたりが落ち着かなくなるので、本当に少しだけだった。
その夜、ルアンは七番倉庫で右手を前へ出した。朝から残っていた腕の重さは昨日より薄くなっている。第2話の夜より無理をしないよう、今日は試す回数を決めてから呼吸を整えた。
胸から肩へ、肩から上腕、肘、前腕へと魔力を通していく。最初は手首のところで散り、二度目も指先までは届かなかった。少し間を置いて三度目を試すと、今度は掌を越え、人差し指の先に白い光が灯った。
ルアンは呼吸を崩さず、心の中で一つ、二つと数えた。三つ目に入る前に光が消え、暗くなった指先を見ながら小さく息を吐く。
「……まだ二秒か」
右手を軽く振り、一度木箱へ腰を下ろした。休んでいると、昼間見た青い翅殻と、それを光へ透かしていたミレーナの姿が浮かんでくる。
中層。回収士。そして銀貨十二枚。
「十二枚……」
口に出すと、なぜかまた少し悔しくなった。実際には一枚も払っていないのだから、悔しがる理由はない。それでも、あれだけ薄い一枚の翅殻に、自分が今月自由に使える金よりずっと大きな値段がついていたことが妙に頭へ残った。
痺れが残っていないことを確かめてから、ルアンは立ち上がった。もう一度試すと途中で散り、その次も失敗したが、決めた回数を越えて続けることはしなかった。
最後の一回だけと決め、右手を上げる。
胸から肩へ流し、肘を越え、前腕から手首へ。掌まで届いた細い熱を急がせず、そのまま指先へ通す。
白い光が、暗い倉庫の中に灯った。
ルアンは静かに数えた。一つ、二つ。三つ目に入りかけたところまで光は残り、わずかに揺れてから消えた。
昨日より長かったのか、それとも数え方が少し速かっただけなのかは分からない。それでも一度だけ、三秒に近いところまで届いた。
ルアンは右手を見て小さく笑い、そこで腕を下ろした。




